インターネットという「バブル」

今週の videonews.com では、ネット・ニュートラリティ、オープン・インターネットにいての話題がとりあげられている。インターネットは、多くのコンピュータを、どこかのだれかが大量の電気を使って

  • 動かしてくれている

から、自分の投げたメッセージは相手に届く。しかし、よく考えてみると、これはおかしな話である。なぜなら、私はその分の電気料金や中間マシンのメンテナンス費用を払っていないからだ。
つまり、どういうことか。
インターネットは、どこか「共産主義」の臭いがするわけである。このように考えてみよう。ある大量に情報を提供したり、情報をもらう使い方をしているユーザがいたとする。この人は毎日、大量の動画を、ネットを通じてやりとりしている。他方で、たまにテキストベースのメールを投げるくらいの使い方をしていない人がいたとする。その場合、問題は、その大量にインフラの回線を占有するまでに使っている人と、ちょろっちょろの人が、同じ使用料金しか払わなくていいのか、という疑問である。
ここにも、エントロピーの問題がある。もしも、大量に回線を占有している人と、ちょろちょろの人が同一料金だとすると、なんらかの方法で、インターネットには

が隠れているのではないのか、という疑いが生まれる。大量の動画の配信や送信には、大量の「エネルギー」が介在する。ところが、占有とチョロチョロが、同一料金だとすると、その膨大なエネルギーの無駄使いを利用して、なんらかの「利潤」の吸い上げが可能なのではないか。
つまり、「フリーライダー」問題である。
インターネットは、こういう意味で、資本主義と相性がよくない。しかし、いずれにしろ、大量に動画配信などの世界中にあるインフラ基盤に、大量のデータを送受信することによって、利益をあげるビジネスをしている人も、基本的には、そういったメンテナンス料を世界中から請求されることはない。ということはどういうことかというと、なんらかの「公共料金」として、

  • 世界中のどこかの地域の人がその分を払ってくれている

ということなのだ。
しかし、よく考えてみよう。こんなビジネス・モデルが、あと何百年先にも続いているであろうか。私が今、ある地球の裏側にいる人に向けて、大量の意味のないノイズ・データを送信したとする。すると、その電文は、私が住んでいる地域のルータを伝って、次々と、地球の裏側まで、バケツ・リレーを繰り返す。もちろん、その地球の裏側に届くまでに、各地に設置されている、それらのルーターは私が買ったわけではない。しかし、この私が送ったメッセージを電文するためには、それなりのエネルギーを使って、そのルータは「ただ」で、動いてくれるわけです。
じゃあ、このルータのメンテナンス費用や、電気料金は誰が払っているのでしょうか。まあ、その地域の人たち、ということになるであろう。
私はこういう意味で、インターネットは「バブル」だと思っている。つまり、いつかはこのバブルははじけると思っている。
このことについて、前回のブログで紹介した、鼎談における、以下の東浩紀さんの発言は、一つの解釈ができるか、と思っている。

格差の問題は心の問題だと思うんです。より正確に言えば、唯物論と心の隙間の問題というか。誰が貧しくて誰が豊かというのは相対的な感覚で幻想にすぎないのだけれど、幻想だからといって放置していると、その幻想はいつのまにか現実の脅威に変わってしまう。
東浩紀現代思想の使命」)

新潮 2015年 04 月号 [雑誌]

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なぜ、東さんは格差が「心の問題」だと言っているのかというと、一つは、上記のインターネットの「カリフォルニア・イデオロギー」に関係していて、ここに、一種のヒッピー的ユートピアが実現できる、といった分析がある。インターネットというフロンティアは、

を実現する、と。この場合のリバタリアニズムとは、ノージックの言うようなものを考えていて、どんなに「格差」が開こうと、

  • みんなが豊かになる

といった「ユートピア」だと言えるだろう。「だから」どんなに格差が開こうと、肯定できる、というわけである。
しかし、上記で分析したように、そういったインターネットの「ユートピア」化は、必ず、なんらかの「エントロピー」による逆襲を受けて、ディストピアになると思っている。しかし、そういった場合に、結局は、その被害を最小限にとどめて、難局を乗り切るのは、

  • お金持ち

たちなのであって、格差の底辺の側が、こういった「連中」に踊らされて、いい商売のカモにされて、従順に従っているうちに、「フリーライダー」される、ということなのであろう。
もう一つ、上記の「心の問題」と言っている意味についてですが、つまり、リバタリアニズム的に、あらゆる問題は「格差問題」じゃない、と悟ってしまった東さんが考える、じゃあ問題ってなんですか、となると、お金じゃないというんですから

  • 承認

しかないよね、といった、ヘーゲルの頃から、繰り返されている、古臭く安っぽい議論になる、というわけである。しかし、お金じゃない、と言ってしまったんだから、ここに問題をもってくるしかないですよね。つまり、東さんは、人のプライドさえなんとかすれば、あらゆる「ユートピア」は実現できる、ということなのでしょう。そういう意味で、この人は、他人のお金の過多に興味がない。他人がどんなプライドをもっているかにしか、興味がない(まあ、本当に家にお金がなくて、大学進学をあきらめている人に向かって、こういった侮辱的なことを、よく言えるな、とは思わなくはないけどw)。でも、そもそも

  • 承認

って、なんなんでしょうねw この哲学用語。ようするにさ、偉い学者さんが、あんたの「プライド」を満してやるよ、とか、上から目線で言われて、まともに聞くやつなんているんかね、ってことなんですよね。
こういう偉い人は、大衆に「プライド」を与えてやればいいんだ、なんて言ってるわけだけど、じゃあ、具体的になにを与えればいいの、みたいなことに、答えられるわけがない、といった側面があったりするわけですよね。だって、たんに、こういった大学教授みたいな、めぐまれた人生を送ってきた人に、なにかをされること「自体」が、不快だ、っていう大衆の、心情みたいなものがあったりするわけでしょう。だから、こういった人には、たのむから、なにもしないでいてくれ、といった部分もあるわけですよね。こういった連中が、偉そうに、分かったようなことを言っていること自体が、大衆には不快なわけでしょう。まあ、ここには一定の真実があるわけで。
ただ、東さんとしては、こういった「承認」の問題を、ルソーやドストエフスキーの描く、ハイコンテクストな大衆の「共感」を自分の意図とは関係にやってしまう「事実性」のようなところに、解決の方向を探そうとしている、ということなのだろうが、そんなふうに言うなら、そもそも、ISに参加する、多くのヨーロッパの若者たちは、同じイスラーム

  • 同胞

として、彼らに「共感」したわけでしょう。SNSの発展によって、イスラーム教徒たちが、世界中の各地で、マイノリティとして、その地域で虐げられているイスラーム教徒たちの苦境を知るようになることによって、なんらかの「助け」をしたい、と思って、はせさんじるわけでしょう。まさに「共感」ですよね。そして、こういったISのような団体に参加して、活動することに、なんらかの

  • 承認欲求

が満たされている側面が事実、彼らヨーロッパの二世、三世の不遇をかこっているイスラームの若者たちに、あるんでしょ。
こういった問題について、今期のアニメで、比較的描けているものはなにかなと考えたとき「ローリング・ガールズ」かな、と思っている。このアニメは、まあ、主人公の女の子たちが、なんかの目的をもって、たんたんとバイクで、関東から関西に向けて旅行をするストーリーであるが、その「内容」は、かなり支離滅裂とした、分かりにくいものではあるが、その

  • 意図

は十分に伝わってくる作りになっている。つまり、全編に渡って使われているブルーハーツの楽曲「1000のバイオリン」「人にやさしく」「TRAIN-TRAIN」などの底辺に流れているメッセージは、そういった社会の表層から隠れているような、だれからも、なにからも注目されないような、そんな孤独な若者に向かって、なんとかその「励まし」の言葉を届けようとしている、必死な姿だと言えるわけであろう。

期待はずれの 言葉を言う時に
心の中では
ガンバレって言っている
ブルーハーツ「人にやさしく」)

世界中にさだめられた どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は どんなにすばらしいだろう
ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」)

一方では、インテリが、難しそうな子理屈を並べて、どうやって大衆の「承認」を与えましょうかね、とか上から目線で話しているwその側では、他方では、こういった「ローリング・ガールズ」のような、大衆と同じ目線で、なにかを伝えようとする作品が作られているわけで、まあ、知識人ってなんなんかな、と思わなくもないですけどねw