原田泰『ベーシック・インカム』

BI論がおかしいのは、今、「生活保護」という制度があるのに、なぜBIを採用しなければならないのかについて、ほとんど「説得」に失敗しているから、と言わざるをえないだろう。
例えば、BIは、人々に一定の所得を保証する、と言う。しかし、それは「生活保護」が実現しなければならない

  • 役割

ではなかったのか。そういう意味では、

  • 今でも

ベーシック・インカムなのだ。じゃあ、なぜBI論を唱える人たちは、この制度の実現に、そこまでこだわっているのか、ということになる。
BIの特徴とはなんだろうか。BIは、国家が直接、国民全員に、一定の額を与える、という形になる。つまり、究極的に、国家に国民のお金が集まって、一人一人の生き死にを、「直接」操作する、という形になっている。ここで、この形式の重要なポイントは、

  • ものすごく膨大なお金

が、このBIのために、いったん国家に集められる、ということなのである。
こういった制度について、思い出さないだろうか。つまり、これは一種の「共産主義」なのだ。ではなぜ、この形式は、一部の人たちに「好まれる」のか。それは、一言で言えば

  • スケール・メリット

があるからである。たとえば、リバタリアンは、一見すると税金に反対していると思われる。ところが彼らは、別に、治安の維持や、裁判所がいらない、と言っているわけではない。つまり、そういったものは、「できるだけ少なければ、いいな」と言っているにすぎない。しかし、そういったものを少なくする方法となると、

  • スケール・メリット

に頼るしかないわけである。国家ということは、国民全員に一律の「ルール」を課す。つまり、ベーシック・インカムで言えば、国民に「同じ金額」を与える。これによって、どの人に、どれだけ与えなければならないか、といったような

  • 判断のコスト

を削減できる。大事なポイントは、この「ルール」によって、判断する人という「コスト」を、大幅に削減することが目標だということである。
なぜ国家が行うのか。それは、国家というマックスの規模で行うと「スケール・メリット」が効いて、効率的になる、と考えるからだ。しかし、それは、どこか「共産主義」の主張に近くなる。つまり、資本主義勢力は、そういった「計画経済」は、結果的に

  • 失敗する

という主張だったのではないか、といった疑いが浮ぶ。つまり、この福祉政策における「競争」を促す、モチベーションはどこにいったのであろうか?
このように考えてきたとき、むしろ、BI論が「証明しなければならない」ことは、奇妙に聞こえるかもしれないが、例えば、「冨は略奪でない」といったことにある、といったような側面が浮かびあがってくるわけである。つまり、BIの問題はむしろ、

  • お金持ちのその財産は「正当化」できるのか?

といった問題に、逆説的ではあるが、むしろ関係していることが分かってくる。
なぜか。
それはつまりは、ベーシック・インカムは、ある意味での「公平」に関係しているからだ。お金持ちの大量の資産に累進的に税金をかけることで、一般人の所得にまで、ひきさげることには、どこまで正当性があるだろうか。お金持ちになりたいと思って、いろいろ工夫して、イノベーティブに発明、発見をして、この社会を便利にした結果として、自分に多くの資産が入ってきた人に対して、どれくらいまでの、累進的な税金の徴収が正当化されるか。
しかし、他方において、こんなふうにも言えるわけである。第二次大戦以前の世界は、植民地主義によって、世界中は、植民地によって、分割されていた。つまり、すでに世界は分割され、持てる者と持たざる者によって分けられていた、と。

なぜか日本で注目されないが、金融危機の原因の一つは、経営者の報酬制度にあるという議論がヨーロッパで盛んになっている。もちろん、過大な金融緩和、不十分な規制、自己資本の不測などが、世界金融危機の原因の一部であることを否定しているわけではない。このような議論の主導者の一人であるミラノ工科大学のマルコ・ジョルジーノ教授は、「どのようにして企業が破綻し経営者が金持ちになるのか、信じられない」という。

(もちろん金融危機にはさまざまな原因があるが)私は私的利益と公的利益の非対称性を指摘したい。金融機関の経営者による決定で、誰が利益を得たのかということだ。
金融の混乱は、金融機関の経営を委任された者が金融機関本来の利益のために行動しなかった、「代理人問題」によって生じたと考えられる。つまり、危機の原因は企業統治が適切でなかったことにある。......企業の目的と経営者の報酬にはミスマッチがある。報酬政策こそが企業統治の要であり、企業統治の不備が金融危機をもたらすのだ。(「金融危機企業統治のミスによって生じた」、『週刊東洋経済』二〇一四年七月十九日号)

確かに、例えば、破綻したリーマン・ブラザーズのリチャード・ファルドCEO(最高経営責任者)は、二〇〇〇年から解雇されるまでに三億五〇〇〇万ドルお報酬を得ていたが、会社が破産しても別に返さなくてよい。二〇〇八年から始まる世界金融危機が、リーマンショックから始まるとされていたとしてもだ。

奇妙に聞こえるかもしれない。もう一度まとめると、BIにおける、最も重要な論点は、

  • お金持ちの資産は正当化できるか(=累進課税は正当化できるか)

にこそ、ポイントがあるわけである。なぜそう言えるのか。BIは、二段階の世界ヴィジョンによって成り立っている。

つまり、累進課税の否定という「経済の自由」を実現するために、福祉を「スケール・メリット化=共産主義化」させる、という構造になっているからである。福祉をスケール・メリット化させるということは、どういうことか。全国民「一律」のルールということである。つまり、どういうことか。

  • 国家にお金がないときは、必然的に「全体」のボリュームを下げる

ということになる。このルールを「福祉」に対して「だけ」は適用する、ということである(福祉だけの共産主義)。
しかし、そんなことを言うなら、なぜ福祉「以外」に対しても、共産主義を適用しないのかな、といった素朴が疑問が浮ばないだろうか。具体的には、累進課税、ということである。
ある、一定の資産を築いた人がいたとする。この人がネットで、一般の人に向けて、侮辱的な言説を行ったとする。すると、「自由主義」は、それを「自由の保障」と言って、なんのお咎めも行わない。しかし、これを

と考えれば、お金持ちに対しては、一定の「課税」を行ってもいいんじゃないのか、といった考えもできる(なぜなら、実際に人々に侮辱的な発言によって、相手の人格権を損ねているわけだし、それだけの課税を行われたからといって、すぐに貧困に至るわけでもないわけだから)。私はむしろ、今の社会は、あまりにお金持ちや高学歴者などに

  • 甘い

社会だと思っている。つまり、ある意味において、ここに「不正義」がある。私の主張をまとめるなら、

ということになる。この社会の「いいとこどり」をしようとしている連中が言っていることはなんなのか、に注意しなければならない...。