浅田彰「現代思想の使命」

最近の佐藤優さんのISについての分析を読んでいて、やっぱりキリスト教系の人たちって、こうなっちゃうんだな、と納得したと同時に、なんか残念な印象を受けたのを覚えている。

まずISは敵であるという大前提を確認する必要があります。彼らが「この世に人間は世界イスラム革命に賛成する奴か、しない奴かの二種類しかいない。賛成しない奴は全員敵だ。敵は殺す」という立場をとる以上、中立的な立場はあり得ません。ISかそれ以外か、どちらかにつくしかない、日本に選択の余地はないのです。
敵には攻撃と防御を行う必要があります。そして日本は人道支援という形でISを攻撃しています。現在、ISの支配地域には800万人の民衆がいますが、その4分の1、即ち200万人がそこから逃げ出せばISは崩壊します。だからアメリカはISを空爆して殺すと同時に、巻き添えを食らいたくなければそこから逃げ出せという形で民衆の離散を誘導している。そして日本は人道支援で避難民の受け皿を作り、それに拍車をかけているわけです。だから空爆人道支援はセットなのです。
佐藤優「「世界イスラム革命」が始まった」)

月刊日本 2015年 03 月号 [雑誌]

月刊日本 2015年 03 月号 [雑誌]

シナリオは三つあります。一つ目はISが世界イスラム革命に成功して全人類がイスラム教徒になる、二つ目はISが壊滅する。三つ目がISの「ソ連化」です。
世界イスラム革命を目指すISは、世界共産主義革命を目指したコミンテルンに置き換えるとイメージしやすいと思います。
佐藤優「「世界イスラム革命」が始まった」)
月刊日本 2015年 03 月号 [雑誌]

上記の引用は二つのことを言っている。一つは、すでにISにとって日本は「敵」になってしまっているのだから、日本はISを敵として扱わなければならない。
つまり、佐藤さんは日本は「一線を超えてしまっている」んだから、引き返せない、と言いたいわけであろう。もっと言えば、日本はこれから、アメリカとイスラエルを中心とした「十字軍」に、いい加減に、腰をすえて仲間に入りこんで、

として、ISとの「宗教戦争」を戦い抜く覚悟をすべきだ、と言いたいわけであろう。
もしもあらゆる人道支援が「利敵行為」ならば、戦場での弱者救出は「不可能」ということになるだろう。中田考さんの提案にあったように、日本の支援を、なんらかのNGO団体への支援に別に変えたっていい。別にそれが「人道支援」でない、ということにもならないのだから。
つまり、意訳をすれば、佐藤さん自身がキリスト教に深くコミットしているところから、日本はキリスト教の国になるべきだ、といった彼自身の「欲望」のようなものも、ここの意見には反映されているのではないか。
(私はこれからのISについての議論において、さらに、その発言者の宗教的な「立場」が色濃く反映されていくのではないか、と思っている。)
もう一つは、ISの運動とソ連という「キリスト教」国を中心に行われた、共産主義革命を、かなり「相似」の運動として解釈している、ということであろう。つまり、ここにおいて、イスラームの「独自性」のようなものが、考察から遮断されている。つまり、キリスト教的なスコープでの、キリスト教的な価値観から、ISを「解釈」しよう、といった姿勢が見られるわけである。
そういった延長から、ISは世界中の人間をイスラーム教徒にしようとしている、といった「解釈」をしている。しかし、むしろそれは、キリスト教徒の方なのではないか。例えば、過去の歴史において、イスラームが周辺国を武力によって次々と侵略して

  • 改宗

を無理矢理させた、などといったことが一般的に起きてきたであろうか。

アラブ諸国イスラエルと外交関係があるのはエジプトとヨルダンだけで、「イスラム国」はまさに今、この2国を標的にしているわけです。
ヨルダンは同時にアメリカとの関係も良好ですから、ヨルダン政権が倒れると、アメリカの中東における影響力がかなり削がれます。そうなった場合、サウジアラビアだってどうなるかわからない。
そんなときに、イランが核開発に成功したら、サウジはパキスタンから核弾頭を手に入れるでしょう。パキスタンの核開発のスポンサーはサウジなので断れません。
サウジが核を持ったら、UAEもオマーンカタールパキスタンから核兵器を買うでしょう。でも、アメリカはそれを止められません。
そんな状態でサウジの王政が倒れて大混乱となれば、その隙間に「イスラム国」が入ってくる。その核を奪取するというシナリオはまったくないとはいえません。これを阻止するには、イランに核開発をやらせないようにしないといけないんですが、アメリカの外交力が弱っていますからね。
そして「イスラム国」が核を持った場合、彼らは簡単に核を使うでしょう。そうなると核抑止力理論が崩れます。世界は今、そういう非常に危険な状態にあるということです。
佐藤優「「イスラム国」が「核兵器」を入手する最悪シナリオを読む」)

上記のロジックがいろんな意味において、今さらなのは、まず、上記の過程においては、なぜかすでに「イラン」が核兵器をもっている、ということになっている。だったら、なぜイランがさっさと核兵器を使う、ということを考えないのか。それは、北朝鮮にも言えるだろう。なぜ北朝鮮核兵器をさっさと日本に向かって撃ってこないのか。もっと言えば、なぜ中国は日本に核兵器を撃ってこないのか。ずっと昔から、中国は核兵器をもっているのに。
つまり、何が言いたいかというと、佐藤さんはISは「狂っている」と言いたいわけであろう。だから、交渉の余地がないから、彼らに核兵器をもたせたら大変だ、と。しかし、彼らを「狂っている」とか「悪魔」と言って、一切の交渉の余地なしで、ぶっ殺し続けているのは、アメリカの「テロとの戦い」の方であって、アメリカはいつも「長期的」には、どんな勢力とも、なんらかの

  • 手打ち

をしてきたわけであろう。じゃあ、今、ISを「交渉相手と考えない」といった態度をアメリカが続けている理由はなんなのか。なんらかのアメリカの国内的な事情だったりするんではないか。
上記の引用が、どこかバカバカしい印象を受けるのは、べつにISでなくても、タリバンだろうが、オサマビンラーディンだろうが(今はすでに亡くなっているが)、だれだって同じわけだろう。ベトナム戦争時のベトナム兵だっていい。つまり、現代という

  • 核拡散の時代

には、だれだって核兵器をもつ可能性はある。じゃあ、相手に撃たれないために、キリスト教国「アメリカ」は、

  • 先制核攻撃

を中東地域に向けて行うのか。そうした場合に、どれだけの民間人が死ぬのか。まあ、これが「宗教戦争」だと思っている、アメリカやイスラエルの一部の勢力にとっては、イスラム教徒

  • だったら

何人殺しても「いい」と思っている(宗教的に殺せば殺すほど、神によって自分は救われる)と思っているのかもしれませんけどね orz。
佐藤さんのようなキリスト教徒的な作法によって、これを「聖戦」と考えちゃっているような人たちにとっては、なかなか、中立的な立場ではすでに考えられないような位置にまで行っちゃっている、ということなのかもしれない。
掲題の対談での浅田彰さんも、基本的にはこういった視点の延長で考えていると言えるが、そこに差異がないわけでもない。

9・11以後に言ったことを念のために繰り返しておけば、戦争は国家と国家がやるものであるのに対し、テロは[国家によるものを除き]あくまで犯罪であって警察が検挙し裁判にかけるべきものです。ところがアメリカが「対ドラッグ戦争」や「対テロ戦争」という言葉を一般化した結果、戦争だから裁判なしに敵を殺しても拘束してもいい、しかも、相手は国家ではないから、敵国に宣戦布告することもなくその領土で勝手に空爆をやってもいい、というような驚くべき無法状態に陥ったわけです。

このような視点で見ると、むしろ、自分たちの「ルール」を逸脱して、暴走をしているのは、アメリカの方なのではないか、といった分析がある。つまり、このように国家の存立条件といっても過言でないような部分において、アメリカが「逸脱」してしまっている状況は、すでにアメリカが

  • 国家ではない

というところまで行ってしまっているのではないか、という分析があるわけであろう。ではすでに、国家ではないということになったアメリカは、だったら

だと言うべき存在なのか? アメリカは自らを国家ではないなにかに変えることで、一体、何になりたいのか。どこへ向かおうとしているのか。

こうしてイスラム政権ができると、郊外の治安は一気に改善され、アラブのオイル・マネーが流入して財政もぐんと改善される。その一方で、しかし、社会的にはかなりラディカルな変革が進む。一言でいうと中世回帰ですね、チェスタートン流の分配主義というやつで、生産手段の私有(資本主義)か国有(ソ連社会主義)かが問題ではなく、生産手段を分散させて小さなアトリエのネットワークのようなものを主とすることが大切だ、と。チェスタートンはこれをカトリック社会主義に近い立場で主張したけれど、それはイスラムシャリーア(法)とも適合するだろう、と。それに従って、高等教育は大幅に縮減し、職業教育を充実させる。

これは、ウェルベックの小説の新作『服従』において、フランスにイスラム政権が誕生した後、ということのようだが、ここで興味深いのは、一気に郊外の治安問題が解決した、といった分析なのである。しかし、それこそフランスの最大の政治課題だと言ってもよかったのではないか。フランスは多くの中東からの移民を受けいれてきた過程を経て、民主主義的な多数決ということでは、イスラム系の政党が、いいかげん、政権を握ってもおかしくない。このことは、アメリカが中南米のスパニッシュ系が、政権をとってもおかしくない、といったのと同様であろう。

それに対し、貸借契約において無理な借金をした方が無責任なら貸した方も無責任だという根本問題は別として、「キリギリスを許して借金を(少なくとも部分的に)棒引きにせよ、それによってキリギリスが元気になれば、アリも含めて全体が元気になる」というのがケインズ主義です。ケインズヴィクトリア朝のモラリズムに反逆したブルームズベリー・グループの一員と言ってもいい人だけれど、ケインズ主義というのもある意味でアモラルなんですよ。

この文脈において、浅田さんの主張は一貫している、と言えるだろう。同じような視点を敷衍するなら、もしも中東で「治安が一気に改善」されるとしたなら、それは、どういったことが実現されたときなのか。ようするに、キリスト教系の思想的マインドの延長で考えている人たちというのは、同胞であるキリスト教の同士が、無法に殺されたことへの「怒り」や「怨恨」の延長で思考している。つまり、一種の

  • モラル

の延長で考えている。しかし、なぜ、それよりも前に、その地域の「治安の改善」の「手段」を考えられないのか。どうあれば、治安が改善されるのか、といった方向で考えられないのか。まずそれを優先するといった「アモラル」な態度を選択できないのか。

たしかにルソーの場合は、まさにそういう共鳴があるから、ばらばらに住んでいたはずの人々が社会を作り、村祭りをするわけですね。村祭りで輪になって歌い踊るような場面では、視線の交錯の中で、全員ふぁ訳者になると同時に観客になり、ポリフォニックな交響が実現される、と。それは小さなスケールではいうまくいくかもしれないけれど、フランス革命期のブレの幻想建築図などをみると一万人規模の人々が円形の大会堂に会するようなヴィジョンになっており、さらにそれをスケール・アップすうとヒトラーの建築家だったシュペーアみたいに十万人が一堂に会するようなヴィジョンになってしまう。そこでは観客が互いにを眺めるといっても、結局はホモフォニックな熱い盛り上がりしかありえないわけですよ。ルソーはつねに一定の人数の社会を考えていたので、全体主義による誤用をルソーの責任に帰するのは誤りだけれど...。

これは東浩紀さんのドストエフスキー解釈でありルソーの「同情」の評価に対して言及しているところであるが、早い話がこういった「ルソーメソッド」は、非常に小さな共同体では、比較的に成立しやすい。しかし、イスラームの法共同体のような、グローバルな規模に拡大しているものに対して、こういった「ルソーメソッド」で、なにもかもをカバーしようとすると、ルソー思想が、さまざまなファシズムを引き起こしてきたように、同じ歴史の誤ちを繰り返してしまう。
もっと言えば、ルソーメソッドは、「内面」の自明性で考えられている、その小さなコミュニティの「自明」性が維持できている間は、強力な牽引力を担保できるが、ひとたび、相手の「慣習」的な作法すらほとんど理解していないような相手同士の、

  • 巨大な人間のグループ同士の利害調整

のような話になると、簡単に「無慈悲」な行政的暴力が暴走してしまう。
それにしても、佐藤さんと同じように、東さんも、ISの「解釈」に(ドストエフスキーといったような)

で考えているわけで、そういったアプローチでは、今の状況を解釈できないような、イスラームの法的、文化的世界の「特異性」があるんじゃないのか、といったような「想像」にはなかなか至らないんですかね orz。こういった西欧の文化を輸入して学者になったような人たちは、なかなか、自分たちが学んだ「文化資産」の「外」から考えようという態度を選択するのは、難しいということなのかもしれません...。

新潮 2015年 04 月号 [雑誌]

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