照井一成『コンピュータは数学者になれるのか?』

哲学ではよく「自我」という言葉を使う。ところが、哲学者はこの「自我」という言葉の定義をしない。つまり彼らにとって、それがなんであるのかは、話される対象ではない、ということを意味する。つまり、自我「によって」この世界を説明するのが、哲学なのだから、自我がなんであるかは知らなくていい、というわけである。
これは一種の「神学」の論法であることが分かるであろう。私は哲学者というのは、アカデミズムが育てた「神学者」のことを言っていると思っている。彼らは一見すると、なんの宗派にも属していない無神論者であるが、言っていることを細かくチェックしていくと、たんにどの宗派でもないというだけで、「神学者」と変わらない。つまりは、アカデミズムがその権威を担保している哲学なる「宗派」に属する「信者」だ、ということになる。
哲学は自分が言いたいことを説明する一種のレトリックではあるが、それ以外のことに答えを与えられないことをなんとも思わないものであることがわかる。自我という言葉を、例えば、近年は「心理学」も使う。そして、この「自我」というものがなんであるのかに答えを与えようとしない状況については、心理学が哲学と似ている。一見すると、心理学は心についての探求を行う学問なのだから、それが自我に対して答えを与えないというのは言いすぎなのではないか、と思うかもしれない。しかし、それはそうではない。むしろ大事なことは、哲学も心理学も、自我がなんなのかが

  • 分からなくても

やれる学問だ、というところにポイントがある。少なくとも、そんなことへの回答と関係なく、「なにか」哲学や心理学と呼ばれているものについて考えられる、というところにポイントがあるのであって、そういう意味では、これは「文化系」学問の一つの特徴だと言えるのかもしれない。
そういう意味で、人文系の学問は、そもそもサイエンスではない。むしろ、これは「歴史学」と呼ぶべきなにかだ、と言うこともできるであろう。つまり、最初から「文化系」学問は、サイエンスでありたいという野望がない。しょせん、歴史学でいいんだ、と悟っているところがある。あらゆる、真理は「リアル」であることだ、と悟ってしまえば、なんらかの自分が感じている

  • リアルさ

について、分かったようなことを言っていれば、他人は「それ」に反論できないんだから、偉そうにそういうことを言っている人であればあるほど、回りはそれを「軽い神輿」だと思って、ありがたがってくれる。まあ、人文系の学問。ちょろいぜ、ってわけである。
こういった状況に対して、なんらかの異議申立をしてきたのが、「自然科学」者たちだったと言えるのではないか。古くはデカルトによる、デカルト空間やニュートン力学に始まって、多くのさまざまな人文系学問は、

  • 科学化

されてきた。そういった一連の系統に、カントを置くこともできるであろう。その場合に、彼ら「自然科学」者たちが、人文系学問にアプローチしていく上で使った「道具」が、数学だったわけである(この場合、形式論理は、数学の一種であると考えられる)。
では、そういった「自然科学」者たちが、どのように「自我」というものの「定義」に挑んでいったのかを考えたい。
この議論の最初は、可算無限から始まる。可算無限とは、「1, 2, ...」といったように、数え続けることができるが、それが最後まで終わらないような集合である。この特徴は、その部分集合と「一対一」にできる、ということである。例えば上記は、「2, 4, ...」といった偶数全体の集合と、「一対一」になる。この特徴は決定的である。なぜなら、こんなことはもしも有限集合なら、絶対に起きないからだ。
このことが何を意味しているかを考えたとき、いわば、「それ自身」の中に、自分の「モデル」を作れる、ということなのである。つまり、「表現」できる、ということである。
ゲーデル・コードであれば、あらゆるその形式体系における論理式や、その証明は、それをある自然数に一対一に対応させることで、ある一部の自然数の集合が、その形式体系における、論理式や証明を、完全に「表現」してしまった。

それにしても皮肉である。我々は、純粋に数学をするだけの存在として人工数学者を作ろうとしたのであるが、ひとたび初等数論の言語を与えるよいなや、彼女らは純粋数学を超え出て、自分自身ついての事柄をも証明する能力を得てしまったのである。たとえば、仮にQ氏は文Aを証明できるとしよう。すると

  • Q \dash A \Rightarrow (定理2.14)
  • N \models prov_Q(\lcell A \rcell) \Rightarrow (定理1.3)
  • Q \dash prov_Q(\lcell A \rcell)

となる。すなわち、もしもQ氏がAを証明できるならば、彼女は「自分はAを証明できる」ことも証明できてしまう! ある意味で、彼女らは自分たちの証明能力について、少なくとも部分的には "認識" できるのである。

しかしね。よく考えてみようじゃないか。これのことじゃないのか。「自我」って。自我とは自分で、自分の考えていることを「対象」とすることである。つまり、自分の思考を「対象」化することである。しかしそれって、つまりは、自分の思考の「モデル」、ミニチュアを、自分の中に作る、ということであろう。だって、自分自身「自体」を、対象にできるわけがないのだから。その場合に、なぜそのミニチュアが「自分」だと言えるのかが問題になる。一つは、上記の自然数と偶数の一対一が現しているように、その「相等」性において、それを表現するのに十分な「濃度」がある、というところにあり、もう一つは、これはあくまで、「リアル」なそれそのものを表現しているのではなく、それの「ある側面」についてを表現しているのだが、それで「この場合の目的」には十分だから、これでいい、といった関係になっている。しかし、やっぱり、この二つは違っている。それを示すのが「対角線論法」である。

n を集合 X_n の "名前" だと思うことにすれば、「 n \in X_n が成り立つかどうかを考える」とは「自分(の名前)が自分の要素であるかを考える」ことに他ならない。上の証明のポイントは、このような自己参照を2度行っているところにある、この二重自己参照こそが対角線論法の本質であるといってよい。

対角線論法の特徴は、自分で自分の「全体」に言及しながら、上記の自然数全体と偶数全体のように、「違うのに同じ」といったような、どこか「矛盾」を思わせるような対象の存在を示唆するところにある。ここで、確かに「違って」いながら、しかし、あくまで「同じ」と言わざるをえなくしているのが、いわば、自然数全体と偶数全体を「同じ濃度」のものとして、一種の「同一」性の相のものとして解釈させる「モデル」という考え方にあることが分かるであろう。
少し前まで、「人工知能」といったことが、さかんに研究された。コンピュータは人間になれるのか、と。しかし、このように調べていくと、実際にそのことが可能かどうか(これは、人間というコンピュータが進化論的な問題構成の中から、歴史的に生まれたことと関係している)にかかわらず、

  • 人間の行っている「大抵」のこと

は、むしろこのように、「自然科学」的なアプローチによってモデル化されてきた、ということなのである。つまり、いわゆる「哲学」や「心理学」の中で「タブー」とされてきたことが、さまざまに「対象」化されてきた、ということになる。もちろん、そのことが、いわゆる「人工知能」の存在を示すことを意味しているわけではないが、少なくとも、哲学や心理学といった人文系学問の「聖域」性を、はぎとってきている、ということは言えるのではないだろうか...。