3D数学

近年、3Dプリンターのようなものが普及してきたり、アニメのフィギアのようなものが、あれだけの量で販売されていたり、また、アニメの制作においてさえ、3Dグラフィックの技術が不可欠になってきたことで、私たちの感覚において、この3次元ユークリッド幾何学といったものに対して、人口に膾炙してきた、といった側面を感じなくはない。
そもそも、こういった認識は、中世以降の近代における、デカルト哲学から始まっているわけで、どこか今さらな印象がないわけではないが、問題はここにおいて、どんな差異があるのか、なのである。
つまり、問題は3次元なのだ。2次元であれば、私たちの「直観」は、分かりやすい。それは「見たまんま」なのだから、そして、中学生くらいで習う、2次元図形の幾何学は、まさに「見れば分かる」という意味で、非常に豊富な内容をもつものであった。ところが、3次元は、そうではない。例えば、絵画の技法において「遠近法」というのがある、これはちょうど、人間の目が、外界から来る光の光線を網膜に受けるときの、

  • 射影

として、理解している、ということがわかる。しかし、射影とは、言わば、3次元から2次元への情報の「縮小」が行われているのであり、実際に多くの情報が捨てられている(そういう意味で、哲学における「遠近法的倒錯」という表現は、いいえて妙な感じで、正確だ、ということになるだろう)。では、なぜ人間は、そうでありながら生きてこれたのか。つまり、それは目が二つあることによって、と考えられる。私たちはあまり意識をしていないが、二つの3次元から2次元への「射影」情報を使って、実際の三次元を、

  • 感覚

として、脳の中で「再構成」している、と考えられる。
しかし、である。
このことを、例えば、私たちが「学習」をしようとする場面では、なかなか難しい問題に直面することが分かる。教科書のどこかのページに、この3次元の「何か」を記述しよう、と思ったとしよう。そして、なんらかの「図」を書くことになるが、ここで困ったことになる。なぜなら、それは「不可能」だからだ。必ず、なんらかの「情報」を犠牲にしなければならない。それは、上記でふれたように、3次元を2次元に「落とした」時点で、不可能な話だからだ。よって、どうしても「誤解」や、「学習」の「不到達」が起きやすい。
しかし、3次元は私たちが生きている「空間」である。この「特性」についての把握は、私たちが生きていく上での「基礎」の「基礎」と言うべきものであろう。なぜ日本の企業は「合理的」に行動できないのか、なぜ、不合理な「ビジネス」戦略を選んでしまうのか。こういった問題の全ては、私たちの

  • 理性的な判断

の質の低さに関係している、と言える。そして、そういった一つ一つの中にこの、3次元の世界把握の「能力」の低さもあるのかもしれない。
こういったことを、私はこのブログで最近、「方法」の問題と言っている。それは、デカルト方法序説からの類似で考えているのだが。
この三次元のユークリッド空間を考える上で、技術的な二つのアイデアがある。一つは内積で、これは二つのベクトルから一つのスカラー値を与えるものだが(菱形の面積と考えればいい)、これによって、その二つのベクトルの「角度」の大きさが見積られている、と考えればいいだろう。もう一つが外積であるが、これはその二つのベクトルからもう一つのベクトルを与えるものだが、こんどはこの二つのベクトルと、ちょうどそれに直行するものの「方向」が見積られていると考えればいいだろう。だいたいこの二つがあれば、おおよその3次元世界の様相が分かってくる、といった感じがわかるのではないか。
さて、先ほど、私は3次元の情報を「正確」に記述することは難しい、と言った。それは、3次元の風景を遠近法で記述した2次元上の「座標」を、その画像の上で表現しようとした場合を考えてみればわかるだろう。なんとなく、

  • この辺り

くらいの正確さでしか、この方法では表現できない。この問題を回避する方法はあるだろうか。この一般的な方法として、その物体を二つの角度から撮影した「二つの画像」で表現する、といったものがある(人間が二つの目を使っているのと似た方法と言えるだろう)。いわゆるエピボーラ直線と言われるもので、一方の画像上の一点を確定すると、これを表現できる3次元上の点は、他方の画像上では

  • 直線

であらわされることがわかるであろう(本当は、その画像の物体の裏側に「隠れている」場所があることの問題もあるが、今はそれを考えない)。では、この直線上にない点を指定した場合に、その「ずれ」の大きさは、どのように記述しコントロールすればいいだろうか。これは、いわば、3次元上の2直線における「ねじれ」の関係の問題であることが分かる。上記の二つの撮影している視点から、それぞれの点に引いたねじれの関係にある2直線には、最短の距離になる場所がある(そこは、唯一の共通の法線になっているが)。これによって、その「誤差」が見積られる。
そもそも、幾何学とはなんだろうか。それは「形」の学問である。そしてこの「形」こそ、最も哲学において「多用」される言葉の一つであろう。ある形を「形」たらしめているものはなんであろうか。近年の数学ではそれを、

  • 等長変換

にみいだす。今、私がアニメのフィギアを手にもっているとする。それを、手の中でぐるぐる回しても、机の上に置いても「長さ」が変わらない。ところが、3次元において、この「変換」を表現するものは「平行移動」「回転」「折り返し」の三つしかないことが分かっている。しかし「折り返し」という現象を意識しなければならない場面は、リアル社会の現象として、あまり想定できないから、実質的な問題は「回転」にあることが分かる。
ここで回転とは「方向」のことである。この場合の3次元における「方向」は、直感的に分かりにくい。飛行機が進む方向を変えたり、傾いたり、ねじれたり、といった、まさに「方向」に関する直観のことである。これについては、それぞれx軸、y軸、z軸回りの回転を、それぞれ行う角度という三つの数によって決定されることが分かっている(ただし、その順番は可換ではない)。これらの値は、上記の点を三つ採用すれば決定されることが分かるであろう。
(ところで、3Dコンピュータでよく四元数というのが使われる。それは、上記の方向の三つの値が、そもそも一意に記述できないことに関わる、滑らかな補完を行う技術的なテクニックであるわけだが、四元数とは、複素数のアナロジーで、w + xi + yj + zk という三つの「虚数」を使って表現される「数学」だ、ということである。ここでのポイントは4次元になっていることであるが、なぜそうするといいのかというと、ちょうど「4次元空間の球面」からの射影によって、上記の三点の滑らなか軌跡を見つけられる、ということらしい。)
だいたいこれによって、3Dコンピュータ・グラフィックの基礎が表現できた、と考えられるだろう。大事なことは、近年のコンピュータの普及によって、なんらかの「形」といった、私たちの直感的に理解が難しい対象に対して、人間の側の

の向上が望まれる場面が増えてきた、ということなのである(つまり、そういった認識の補完を、かなり強力にコンピュータが「人間の能力をサポートする形で」行えるようになってきた、ということである)。その場合に、そういった認識に至るアプローチの「方法」はなんなのか、ということになるわけだ...。