東北の復興

四年目の3・11を迎え、videonews.com では、宮城県石巻町の仮設住宅の診療所の所長の長純一さんに話を聞いている。その内容は東北の復興と言いながら、今だに多くの仮設住宅が残り、とにかく、阪神淡路大震災のときとの大きな違いとして、これが

  • 田舎

を襲った大地震であって、津波だった、といった部分にあったように思われる。つまり、確かに多くのボランティアやNGOが今でも彼らの復興のために尽力してくれているのだと思う。しかし、根本的に、その地域が「老いている」側面が、どうしてもぬぐえない。今だに仮設住宅に住んでいる人がいる割合が多いことからも分かるように、人がピチピチと流動していかない。まったり、としてしまっている。被災者なんだから、悪いのは国なんだから、いくらでも国からお金をむしりとって、新たな

  • フロンティア

にチャレンジしていく、といったヴァイタリティが、どうも感じられない。しかし、おそらく、それもそうなのだろう。圧倒的な高齢化の人たちなのだ。そもそも、お年をめした方たちに、若者と同じ行動力を求める方が、どうかしている。彼らには余生をむしろ、ひっそりと暮したい、といった程度の控え目な認識なのだろう。それは、おそらく「復興」といったような、若者文化とは異質な性質のものなのだろう。
いや。おそらくこれは、日本中の「田舎」で起きている現象の、災害に見舞われたがゆえに、よりラディカルに現象した、一つの先鋭的なサンプルでしかないのではないか。
日本中の田舎は、どこか「廃れて」きている。いや。これは、日本だけではない。世界中で起きている現象だとも言える。つまり、

  • 都市化

ということである。都市は、さまざまな田舎から若者を吸収するので、どこか「元気」な表情を見せている。もちろん、田舎に若者がいないわけではない。むしろ、近年では若者が、無理して都会に向かわなくなっているといった傾向も見られるという。しかし、そう言うなら、その田舎には何が「ある」のか、を彼らは示さなければならないだろう。
田舎は食べていけるのか。外貨を稼げるのか。長期的な、持続可能性を担保できるのか。
つまりは、田舎には「競争力」があるのか、ということになるだろう。
それに対して、こと日本において、都会とは、ほどんど「東京」のことである。まあ、関東圏のことである。これだけ、大企業の本社が集中して、国の機関が集中していて、東京以外の都市が「都会」になれるとしたら、その方が異常なんじゃないか。
そういう意味では、東京圏以外は、ほとんど独自の経済圏を構成できていない。つまり、東京圏以外のあらゆる日本の地域は、すべて、東京の衛生都市であるし、東京のベット・タウンであるし、東京の潜在的労働力の供給地域であり続けている。
もしも、東京圏以外の田舎が、一つの

  • 生存圏

として、

  • 東京から独立

するためには、一体何が必要なのかと考えたとき、あらゆる意味で、「そこで飯が食えて」いけることや、「そこで文化が生まれ」ることや、「そこでなんらかの先端的な文学や情報が若者を刺激し」、それが、流行となり、常に、若者たちの日常の

  • 熱中

でき、没頭し続けられる、ディープな「日常」を提供できなければならないはずなのだが、一体、そんなことが、東京以外の場所から、できているのだろうか。
というか、私には、東京圏以外の地域の若者たちが、果して、この問題をどこまで考えているのかが、はなはだ怪しいわけである。

  • そこ

は、「あえて」外の人が、なんの土地ももっていないくて、なんの因縁もなくて、なんの人間関係もなくて、それでも集まってこようと思えるような、そういった人を引き付けてこようと思わせるような、なんらかの「引力」があるのだろうか。むしろ、そういった「戦略」があるように思えないだけに、なんとも言えない悲観的な気持ちにさせるわけであろう。
田舎の人たちは、その地域に誇りをもっているのだろうか? 自分がその地域に生きることにプライドをもっているのだろうか。彼らのメンタリティの中に、どこかしら東京に対して、「気後れ」のようなものはないのか。東京人に向かってさえ、自分たちの町を誇れるような、そういった「世界の最先端」としての発信基地としての我が町といった、先鋭性を意識できているのだろうか。
こういった視点において、私が田舎を

  • 東京の植民地

としてではなく、「東京に対抗する」地域として、なんとか意識しようと考えてきた人間として、福島県の現状について語ることは、むしろ、上記の意味において、つまり、東北の復興の問題とは分けなければならない、と思ってきた。
たとえば、言うまでもなく、福島県中を今も覆っているセシウムは、今のチェルノブイリと同じように、そう簡単に、その地域から無くならない。確かに、ある一定の狭い地域は、除洗をすれば、一時期は濃度は低くはなるが、山には今も大量に降り積っているのだろうし、全体としてのパイが、そんなにドラスティックに減っていったりはしない。
同様に、そこで取れる食料だって、結果として低く抑えていけるとしても、例えば、野生の動物は、野生の野菜を食べているんだから、かなりの高濃度の濃縮が見られたりは、普通に見られるわけで、そもそも、そういった環境であることが、普通の状態だとは思えない。
つまり、私が言いたかったことは、福島県が、今、普通の感覚ではまだ、何十年も、そう簡単には暮らせないことが「分かっている」事実がある限り、そこを「あえて」選ぶ人たちには、なんらかの「覚悟」のようなものがあるのだ、と思っているし、そういった思想をもって生き方を選択している人たちは、それはそれで尊重されることには意味があるのだろう、と思っているが、しかし、だとしてもその意志は「特殊」なんだ、ということは理解する必要があるだろう。
例えば、こんなふうに考えてみてもいいだろう。福島第一原発は今、廃炉も遅々として進まない状況だが、同じような事故が、今度は、福島第二で起きたとしよう。または、柏崎で起きたとしよう。その周辺に住んでいる人たちは、真っ先に逃げるだろう。では、

  • 東京人

はどうだろうか? それは、今回の福島第一の事故で、「逃げた」人たちは、また逃げるんじゃないだろうか。それと同様に、彼らは、福島県から「逃げる」んじゃないのか。それは、福島県に来ない、ということを意味しない。観光をしない、ということを意味しない。福島で採れる食料を食べないことを意味しない。
私は、もしも福島県にコミットしたいのなら、一年の大半を福島県で住めばいい、と思っている。東京人は、福島ビジネスで儲けたいなら、福島県人になって、最低、年の12分の11は、福島県内で、過ごすべきだと思っている。自分の余生を福島に捧げるべきだと思っている。 そうすれば、いかに田舎で、地元で採れる野菜や地元で取れる動物を食べないですませられるか、という生活が異常なのかがわかってくるんじゃないだろうか。
私は今の福島は「特殊」だと思っている。だから、田舎問題を福島に「代表」させるべきではない、と思っている。そういう意味で、田舎問題の文脈で、福島に言及するのは適当ではないと思っている。このことは、福島を「元気」にすれば、日本中の「田舎」が元気になる、といったような

  • 空想論

と徹底して戦う、ということを意味する。福島は特殊なんだから、福島だけをグロテスクに注目しても、日本の田舎問題は解決しない。例えば、福島第一の事故は、「世界史的な事件だ」といったような表現がある。しかし、こういった言説に私は徹底して反対だ。なぜなら、福島第一が今どんな状況であろうが、日本の田舎問題が、それによって解決されるわけではないからだ。そんなことを言うなら、イラクとシリアの間のISの地域は

  • 世界史的な地域だ

とか言い始めるのと変わらないわけであろう。私は、たとえ百年後、人間が滅んでいなくなったとしても、今の私たちが今やれる「倫理」はなにかを考えるべきだと思っている。そういう意味で、福島が世界史的事件だとかいった能書きは「非倫理」的なのだ。
私は東京人は、日本の田舎に「移住」すべきだと思っている。
いや。むしろ、日本の法律で、東京人は、一年の12分の11を、ある一定の田舎の地域で住んで、その外に出てはならない、と決めたらいいんじゃないのか、と思っている。言わば

  • 逆「参勤交代」

である。なぜそう思うのか。それは田舎が元気がなく、活力がないからだ。これを「問題」だと思わない(これを問題だと思わないなら、東北復興だとか、東北「応援」だとか言わなければいいじゃないか!)東京人は、非国民なんじゃないか。なぜ田舎には、ほとんど出版社がないのか。漫画雑誌を地元の漫画家を使って発行しないのか。なぜ、地元でアニメーターを育てて、地元でアニメを制作しないのか。なぜ日本の田舎は、カリフォルニア・イデオロギーのように、ITヴァレーができないのか。
なんらかの「パワー」を、その地域に持続可能な形で、維持していくための必要十分条件はなんなのだろうか。私は東京さえあれば、田舎は東京の植民地であればいい、という連中は、東京と心中して滅びればいいと思っている。むしろ、東京を滅ぼして、

  • 日本(=日本の田舎)

を自律的ななにかとしてあらしめていく条件はなにか、と考える。そういう意味では、東京などどうでもいい。むしろ、東京が滅びることで、そういった可能性が田舎に生まれるなら、その方がずっといいとすら思っている、ということになる...。