一坂太郎『吉田松蔭 ---- 久坂玄端が祭り上げた「英雄」』

私はときどき、現代日本というのは、なんらかの「分裂症」のような状態になっているのではないか、と思うことがある。
それは、たとえば、日本の安倍首相が「テロは絶対に許されない」といったようなことを一方では言っておきながら、他方では、ことあるごとに、明らかに

  • テロリスト

そのものである吉田松蔭を「尊敬する人」と言ってみせるところにある。
しかし、こんなふうに言ってみたところで、安倍首相にはなにを言っているのか分からないのではないだろうか。小泉元首相にひき続いて、尊敬する人として、吉田松蔭を、ほとんど唯一の存在として名前を挙げる、その姿には、なんのけれんみもない。いや。彼が吉田松蔭を唯一の尊敬する人として掲げるから、彼は二度の総理大臣の座を奪うことに成功したのであって、このことは無関係ではないのであろう。
たとえばここで、日本のアニメの歴史を考えてみたい。初代ガンダムがあのように注目された背景には、ここで採用されている「ニュータイプ」といったアイデアがあった。つまり、ここで注目されていたのは

  • 子ども

たちの「過激」さにあった。このことを前回問題にしたマルクスの「疎外」という概念の「規範」性が、左翼嫌いの連中によって、ほとんど「無視」されてきたこととも関係している。
なぜ左翼嫌いは、マルクスの「疎外」論を無視したのか。それは、「ニュータイプ」と関係している。

このようなバートリーの考えは、次のようなカール・ポパーの思想に基づいている。

私の意見では、人は《疎外》について多くを言い過ぎである。私ならば、生命自身が絶え間なく疎外を求めていると言うだろう。生命は、冒険に走り、疎遠なニッチに入り込むことによって、その自然な生態学的ニッチから絶えず自身を疎外する。裸の遺伝子が膜を発明したり、あるいは我々がコートを着るのは、裸であることに対する疎外現象なのだ。疎外についての無駄話は、危険で滑稽な無駄話だと私は思う。そこで起きているのは、新しくて疎遠な手間を敢えてし、それらの手間を探している生命の冒険なのだ。そして、これが高次進化において、重要な役割を演じている(Popper/Lorenz 1985: 21-22. ポパー/ローレンツ 1986: 23-24)。

マルクス疎外論の諸相

マルクス疎外論の諸相

ニュータイプは「進化」と関係している。つまり、ニュータイプにとって「疎外」は疎外ではなくなる。この強引な理屈は、もちろん、普通に考えるとおかしい。しかし、彼らにとって、大事なポイントは、国民とは「戦争の道具」だ、というところにある。つまり、一般の「労働」など、どうでもいいわけだ。そこにおける理屈と、戦争における「戦士」の役割は、まったく異なる。
たとえば、次のように考えてみるといい。国家と国家の戦争においては、一方が他方を滅ぼした方が「勝ち」ということになる。この場合、自分たちの兵隊が相手の兵隊よりも、より「強く」働いた方が、勝利に近くなる、と考える。その場合、上記のマルクスの言う「疎外」はどうなるであろうか。
マルクスの言う「疎外」は、それがあまりに「非人間的」な扱いであることが問題とされている。つまり、そういった扱いを、国民全員にしていても、結局、国民自体がヘタってきてしまって、長期的な戦略が続かないわけである。
しかし、戦争は、その「一つ」の軍人の行動が、戦局を決定する。よって、むしろ、軍人を「疎外」することは戦争に勝つために「選択」しなければならない、ということになる。映画「アメリカン・スナイパー」で描かれたように、軍人は精神をやられて、ボクシングのパンチ・ドランカーのようになっていく。しかし、たとえそうだとしても、戦争に勝つことを目的としている連中にとっては、そういった一人一人の軍人

  • 自体(の健康)

は、たいした問題にならない。なぜなら、戦争に勝つことが目的なのであって、軍人はその手段にすぎないからだ。
例えば、テレビ版アニメ「エヴァンゲリオン」において、使徒と呼ばれている「敵」とは一体なんだったのだろうか? 一見すると、彼らが戦っている相手は、SF的な設定が与えている「空想」的な存在にすぎないように思えてくる。しかし、この

  • 平和

が実現された、今の日本を非常に意識させる町並みの風景を見たときに、彼らは、

  • 日本の戦前の敵(=当時の中国、当時のアメリカ、当時のソ連

と戦っているんだな、ということが、なんとなく伝わってくる。彼らが生きている風景は、現代の、この平和な時代の風景である。つまり、何が変なのか。

  • 焼け野原がない

ことなのだ。アメリカ軍に、首都を爆撃されて、焼け野原になっていたり、原子爆弾を落とされて焼け野原になっていない。まったくもって、「平和」な町並みの中に急に、「敵」が現れるわけである。
このアナロジーは「明治初期」を意味していることが分かるのではないか。
明治初期において、日本は江戸時代の「平和」な「日常」において、急に、「敵」があらわれる。つまり、黒船である。彼らアメリカ人でありロシア人は、エヴァンゲリオンにおける「敵」である。そして、こういった敵に正面から立ち向かうのが

  • 子どもたち

なのである。

さて、十七歳の玄端が松蔭に送り付けた手紙は「義卿吉田君の案舌に奉呈す」とした、時局に対する所信を述べた内容だった。玄端は共通の知人であり儒者の土屋矢之助を介して、松蔭のもとに届ける。
玄端は幕府がアメリカの恫喝に屈し、開国したと激しく非難。かつて、鎌倉幕府の執権北条時宗が元の使者を斬り、断固たる態度を示したように、幕府もアメリ使節を斬って捨てるべきだとし、
「ああ我れに男子国の称ある、うべならずや」
などと、過激な攘夷論を展開する。

吉田松陰は、30歳で江戸幕府によって処刑されている。驚くべきは、この「若さ」である。そして上記の引用における久坂玄端が、松蔭に手紙を送ったのは、玄端17歳、松蔭26歳くらいである。そして、松蔭がペリー暗殺を計画していたのが24歳くらいとなる(未遂で終わているが)。私たちが注目すべきは、彼らのこの「若さ」なのだ。つまり、彼らは、言わば

  • 子ども

だということなのである(彼らは子どもであるが、武士として、特に、松蔭は学者になるための英才教育をされている。松蔭は学校に通うことなく、学校の教師にすらなっている)。なぜ玄端はこのような手紙を送ったのか。それは彼が松蔭が、ペリー暗殺をくわだてていたことを知っているからであろう。だから、「挑発」しているわけである。
玄端は「原理主義」である。それに対して、松蔭は「だったら、やってみろよ」と挑発する。暗殺をやってみろ、やったら、一丁前だと認めてやる、と。綺麗事言ってんじゃねえ、と。しかし、それでも玄端の「原理主義」は止まらない。やるべきはやるべきであって、自分はなにも間違っていない。自分は正しいことを言っている。論点をそらすんじゃねえ、と。
それに対して、松蔭は次のように言う。

それによると松蔭は、いまや徳川氏はすでに二虜(アメリカ・ロシア)と和親したのだから、わが方より断交すべきではないとし、日本側から「断交」すれば、国際的な「信義」を失うと言う。
だから、いまからは国内静かにさせ、条約を厳に守って、「二虜」をつなぎとめ、その隙に、
蝦夷(北海道)を墾(開拓)し、琉球を収め、朝鮮を取り、満州を拉し、支那を圧し、印度に臨み、以て進取の勢いを張り、以て退守の基を固める」
というのが、松蔭の戦略だった。
日本が先頭に立ってアジアを制し、西洋列強に対抗するというのである。
そうすれば、神功皇后の遂げられなかったこと、豊臣秀吉が果たせなかったことが実現でき、アメリカ・ロシアを自分たちが思うま「駆使」できるのだとも言っている。

いわば、これが今の安倍首相にまで繋がっていることが分かるのではないか。今、アメリカの大使館を、松蔭が焼き討ちをしないのは、彼らを今は、うまく泳がせておくうちに、蝦夷琉球、朝鮮、満州、中国、印度を

  • 征服

するためなんだ、と。だから、それが成功するまでは、アメリカやロシアと「友好」を継続する。安倍首相が今行っている、アメリ面従腹背外交も、この一貫であることが分かるであろう。安倍首相が中国と仲良くできないのは、この松蔭の「意志」を引き継いでいるからであるから以外に、ありえない。しかし、である。このことは、もし

  • エゾ、琉球、朝鮮、満州、中国、インドに対する「征服」が成功した暁には

アメリカ、ロシアとガチンコの対決、つまり、上記で玄端が諫言している

  • 使者の首切り(=宣戦布告)

を行う、と言っているわけで、アメリカは安倍首相は「いずれは危険人物に豹変する」ことを十分理解した上で、まったく、信用できない政治家だ、と思っているわけであろう。
安倍首相は、松蔭信者である。無理矢理、NHKのドラマに松蔭を押し込んだくらいの、狂信者である。彼は上記の松蔭が描いた、

  • 世界征服

フレームを今も信じている。これを実現させるためなら、なんでも行うのであろう(それが、彼が松蔭を唯一にして無二に、尊敬する人物としている意味なわけであろう)。
驚くべきは、久坂玄端は27歳で亡くなっていることである。つまり、この「若さ」である。玄端は上記の松蔭の「世界征服」遺言を実行する上で、何が必要かを考えた。例えば、玄端は、アメリカ大使館の焼き討ちを行っている。そういう意味では、彼も「テロリスト」である。私たちが歴史で学ぶ「尊皇攘夷」とは、こういう人たちのことである。
しかし、他方において、それだけでは不十分であることを彼は分かっていた。

また、井上勝生『幕末維新政治史の研究』(平成六年)に紹介された永井が切腹する七日前に、兄永井井与作に宛てた遺書を読むと、その経緯はもっと鮮明になる。まず、山本と永井は、大谷の首を梟す目的で大坂に行ったおのの、自分たちが犯人ではないのだから、切腹するつもりはなかった。ところが、時山直八・杉山松介・野村の三人(いずれも松下村塾出身)が「忠義」をほのめかしながら、自決を強要する。しかも、「京師において決定つかまつり候事ゆえ」
という。「京師」とは、玄端を中心とする京都における藩首脳部だ。驚いた三人は一旦は逃げ出す。しかし、品川・野村が追いかけてきて、逃げられないと観念する。こうして二人は、「切歯に堪えず」との思いを抱き、命を奪われたのだ。
二人の死により、薩摩藩の評判はがた落ちとなり、長州藩への同情が寄せられる。真相を知らない世間の人々は、二人を「古今未曾有の大忠臣」などと呼び、切腹現場には現世利益を求める民衆が押しかけて、信仰の対象にまでなってゆく。

玄端が考えたのは、マキャベリ的な「政治戦略」である。目的は、松蔭から授かった「世界征服」である。これを、どうやったら、実現できるのか。それはまずは、

  • 味方を「だます」

ことだ、と考えた。これが、日本の歴史であり、長州藩の歴史である。日本の歴史は、特に、明治以降の今の政府に「繋がる」政治には、こういった「嘘」がたくさんある。果して、こんな歴史を私たちは「誇り」に思えるでしょうかね。こういったことは、別に、南京虐殺従軍慰安婦に限らないわけである。いっぱいある。特に、ある一人一人で見ていったときに、残虐でマキャベリ的な権謀術数を駆使した、まったくもって、過去から日本の政治を誇れないような、ひどいことを行っていながら、まるで

  • 立派な日本人

であるかのように顕彰されている人がたくさんいる。
普通に考えて、おかしくないだろうか。日本は、ポツダム宣言を受諾して、敗戦した。しかし、戦中において、ひどい作戦を強硬して、多くの日本軍人を死なせたような、どうしようもなく問題のあった司令官を一人として、戦後、日本人によって裁かれたであろうか。戦前の公安で、どう考えても、市民を残虐に扱った司令官で、戦後、日本人によって裁かれた人がいたであろうか。
裁かれていないということは、彼らの中では、それは「罪ではない」ということになる。今の自民党が、そういった戦前、戦中に政治家や官僚や軍司令官であったような人の孫が多いのは、彼ら自身がなんらかの「名誉回復」を求めているからであろう。彼ら孫たちにとって、どうなれば、じいちゃんたちの名誉回復になるだろうか。それは、あらゆる戦中の

  • 日本

が復活すれば、ということになるであろう。そして、戦中にじいちゃんたちが行ったような、「残虐」な行為を含めて、彼ら孫たちが「再現」して、さらにそれが

  • 賞賛

されることの再現される「時代」に戻ることによって、ようやく彼らの「名誉回復」が達成する。日本は、戦後、まったく戦中の反省を自らによって行わなかった。今残っているのは、「憲法」しかない。もしも、憲法が戦前に戻されたとき、あっという間に、日本は、

に戻されるであろう。よく考えてみよう。この動きを止めるようなモチベーションが日本国内に、「内面」的にありうるであろうか。戦後、なんの反省も行わなかった日本に、である。つまり、そんなことが可能なのか、ということである。
今週の videonews.com では、島田さんによるオウム真理教事件の総括が行われている。この総括において、二つのポイントが指摘されていた。
一つは彼らオウムが最初に関わることになった、殺人事件であるが、そのとき、その犯罪は、それ以降と比べたとき、そこまで意図的ではなかった、ということなのである。つまり、最初はどこか事故に近かった。しかし、その人殺しに一部のメンバーが関わったことによって、彼らはどこか集団内において、過激派になっていった、ということなのである。オウムは内部に、一般の信者には秘密にしなければならない「人殺し集団」を内包してしまう。すると、何が起きるのか。彼らの「暴走」である。彼らは、組織内の「秘密」を、「脅し」にして、

  • 勝手に行動を始める

わけである。こうして、組織は、だれの歯止めも効かないものへと変貌していく。
もう一つの彼らの契機は、ソ連での布教活動だっと、と。当時、ソ連からロシアに変わった混乱期において、3千人近い信者がロシアにいた。この繋がりから、サリンの製造などの影響も受けているのではないか、という考察であった。
このように考えてくると、

は、暴力的な革命集団ということでは似た印象を受けることになる。そして、もう一つの彼らの特徴がその「若さ」だということである、つまり、「子ども」なのだ。
エヴァンゲリオンの子どもたちが戦っているのは、日本の戦中の、朝鮮、中国(、アメリカ、ロシア)である。彼らは、タイムスリップして、その時代に送り込まれて、当時の日本軍の敵と戦わされている。彼ら子どもたちは、

  • 吉田松蔭による日本の「世界征服」計画

を実現するために、その見えない敵と戦う。そして、この戦いに勝ち、朝鮮、満州、中国、インドを「征服」した後、

  • アメリカ、ロシアへの「宣戦布告」

を行うことによって、最終目的である、世界征服を達成する。エヴァの子どもたちは、これが実現されるまで戦い続けなけれなならない。これが「原理主義」である。子どもたちは、何と戦っているのか分からない。しかし、これを決めているのは、子どもたちの過激思想(=原理主義)でも、あるわけである...。

吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」 (朝日新書)

吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」 (朝日新書)