田上孝一『マルクス疎外論の諸相』

前回書いたモンスター社員問題は、別に、労働者側だけの問題ではない。同じことは、経営者側においても見られるわけで、つまりは、それが会社が維持されていく条件を問題にしているわけである。現在の会社法が簡単に経営者による社員の解雇をできないようにして、また、簡単に社員による退社を可能にしていることは、「モンスター」経営者の他人の人生設計を、簡単に破壊する権利を与えないために用意されている、と言えるだろう。しかし、いずれにしろ、社員がその会社にいづらくなった場合、なにもその会社にい続けることしか「選択肢」がないかといえば、そんなことはない。
つまり、別の会社に移って、別の生活を送るようになることは可能であり、普通のことだと言える。現代社会は、こういった「バッファー」に解放されている社会だと言えるのかもしれない。このことの意味は大きい。つまり、完全なる

  • 切断

が可能な社会を、現代の資本主義社会は目指してきた、ということになる。ある共同体の中で「うまくいかなかった」人は、それで人生が終わりではない。別の「フロンティア」を探し、そこで再チャレンジができる。もちろん、そこでも同じ問題が再燃する可能性はある。しかし、いずれにしろ、なんらかの「完全なる切断」の可能性を与える社会は、どこかしら「健全」な何かを与えているのかもしれない。
ある人が、ある犯罪を犯したとする。その場合、その人も反省して、なんらかの謝罪や賠償を当事者に行ったとして、

  • どうやったら許されるのか?

という問題が残っている。許すという言葉は、どこか、おこがましい印象を受ける。その犯罪によって失った何かは、もう二度と返ってくることはない。たとえ、それに対応する謝罪や賠償があったとしても、それも一種の擬似的な代替行為にすぎず、なぜそれで満足になるかを説明するものではない。
しかし、一つだけ言えることは、その人がもう二度と、その人の前に現れなければ、一つの「忘却」として、機能するかもしれない。傷ついた現代人は、その自らの「傷」を、言わば

  • 見て見ぬふりをする

ことによって、自らのその「日常」を維持する。忘却は本当に忘れたことではないのと同様に、本当に許したことでもない。忘却は、そのことを「考えない」という無関心に近い精神態度を意味する。忘却は真の解決ではないが、それ以上に、その人にとって大切なものがあると思えるときに、発動する人間の心の習性だと言えるだろう。つまり、忘却は「無意識」である。私たちの行動は、実際はこの「忘却」によって無意識に規制されていながら、その忘却が決定的なカタストロフに至らないように回避するための忌避行動となる。
私たちは「忘れた」ことを思い出さないわけではない。では、どういったときに思い出すのだろうか。それは、思い出すことが「合理的に功利的」な場合と言える。なんらかの困難な事態に直面した、とする。その場合、私たちは「日常」のメソッドによって、これに立ち向かうには、あまりにも脆弱と感じる。そうした「危機」において、私たちは自らの「自我」を守るために、そういった無意識の森の中から、なにかを選択的に選んでくる。「忘却」は、しばしば、自己保身の「ため」に呼び出される。それは、それに「直面」することが、むしろ、目の前の困難に立ち向かうには「好都合」だから、ということになる。
こういった現代社会における、さまざまな「生きづらさ」のようなことを考えるとき、私たちは何度も、マルクスが考えた理想社会の基本形に自らの思考を戻される。

疎外とは、その最も抽象的な定義からすれば、人間がそれであるべきであり、それでありうる者ではないことである。そうあるべき人間の在り方を適切に提起できるためには、我々は価値の問題にそうあることのできる可能性なるものでなければならないのは、マルクスヘーゲルから学んだとこである。そすて可能性を適切に把握するためには、人間と彼の社会、彼を取り巻く自然の事実を的確に認識しなければならない。この事実認識を適切な方向に向けるためには、唯物論的な存在論と認識論という哲学的立場をとる必要がある。だから、人間が疎外されれいるという議論は、それが真の深みを持つためには、世界が何であり、その中にある人間が何であるという事実(存在論)と、人間が自己及び自己の外の世界とどのように関わり、知的生活を営んでいくか(認識論)という事実を究明し、人間が自己の生活過程の中で諸対象に与えていったり、諸対象の中から発見してきたりした諸価値を明確にし、取り分けそれらの価値の中でも、人間をそのあるべき未来に導く規範的価値が適切に提起される必要があるのである。このような疎外論としてマルクスの哲学を捉え、それを発展させていくことが我々にとっての課題だと私には思える。

掲題の本でも書かれているが、マルクスが使ったこの「疎外」という言葉は、近年においては、「心理学概念」になってしまっている。つまり、「承認」と同じ意味になっている。よって、人の

の問題さえ解決すれば、あとは、なんとでもなる、といったような「文系」的発想が大勢を占めるようになった。こういった流れの中で、オウム真理教の問題を考えることができるであろう。オウム真理教においては、仏教的修行のテクニカルなツールによって、心は「管理」されるものとして扱われる。つまり、この「管理」が

  • うまくできていない

から、さまざまな現代の問題が解決しない、といった流れになっている。極論を言ってしまえば、オウム真理教は信者がもしも、犯罪を行ったことで、なんらかの「良心の呵責」に悩むことになったとしても、この「心の管理(=コントロール)」さえ、十分に行えば、「良心の呵責に悩まない」状態を維持できるのだから、

  • 犯罪を行っても「いい」

といった結論に至ったと言えるだろう。心のコントロールは「科学」である。つまり、科学的に良心を「コントロール」する。人殺しをしても、なんにも感じずに、日常生活を行うことは、「科学」の領分である。つまり、

  • 心さえなんとかすればいい(=科学でなんとかすればいい)

というのが、現代の「心理学主義」の一つの帰結だということになるだろう。
オウム真理教は、ドラックによって、仏教の高僧が長い修行の果てに至れる「悟り」の境地に、「脳の状態」が至ることに注目する。彼らは、脳を、そういったドラックなどにちょって、直接「操作」することによって、「良心に悩まない」、より

へと至る手段を考えていた。つまり、心とは「脳への直接の<操作>」によって、いくらでも「コントローラブル」だと考えられた。しかし、このことは、

においては、究極の「ユートピア」だったわけである。私たちは、例えば、お金が自分の家になくて進学をあきらめた人がいて、そのことをずっと根にもっていたとしても、

  • 脳を直接操作して「進学をあきらめて」得をしたと思うように「変え」てしまえば

その人にとって、この問題は「問題でなくなる」と考える。つまり、その人はこのことで「承認」の困難から回避されたんだ、というわけである。これが

  • 心理学主義

である。これによって、あらゆる「問題」は問題でなくなる。私たちの承認を求める欲求を、脳の改造によって、その「欲求」の消去によってなくせば、

  • なにも悩まない

ハッピーな人間が作れるじゃないか、というわけである orz
しかし、である。
上記の引用を見てもらえば分かるように、マルクスの言う「疎外」は、そもそもの定義からして「心」の問題ではない。そうではなく、それは、なんらかの「規範」の問題だということが分かる。例えば、どこかに、長時間の「奴隷」的な重労働を強いられている人がいたとする。ここで問われていることは、その人の今の

  • あり方

が、本来こんなふうにあってはいけないんじゃないのか、といったように「倫理的」に考えるべきなんじゃないのか、といった「規範」に対しての逸脱への異議申し立てなわけである。
じゃあ、この問題を「心理学主義者」は、どう考えるか。そんなのこの奴隷の脳を作り変えて、こういった長時間重労働を「楽しい」と思うようにすればいいんでしょ、というわけである。また、この労働者を見て「かわいそう」と思う側の大衆の脳を、手術で変えて、「全然かわいそうじゃない」「むしろ、そうしてあげて、よかった」と思うようにすればいい、ということになるわけである。

このようなわけで、マルクスの哲学を《実践的唯物論》と称すること自体は異論ない。ただしここで注意しなければならないのは、「実践的」という言葉の使用法である。ここでいう praktisch は、単に能動的活動性を強調するために、静止的という意味での観想的に対置される言葉ではなく、ミハイロ・マルコヴィッチのいう practice と区別される paxis の意味において理解されなければならないということだ。

実践(praxis)は純粋に認識論的にカテゴリーとしての実践(practice)から区別されなければならない。後者の「実践」はたんに客体を変革する主体の何らかの活動を指すにすぎず、この活動は疎外されうるのである。それにたいして、前者の「実践」は規範的概念であり、理想を、つまり目的そのものであり、基本的諸概念の担い手であり、同時に他のすべての諸形態の活動の批判の基準でもある特殊に人間的な活動を指しているのである。実践はまた労働および物質的生産と同一視されてはならない。後者は必然性の領域にぞくしていて、人間が生き延びるための必要条件であり、役割の役割、型にはまった操作、服従ヒエラルヒーをふくんでいなければならない。仕事(work)が実践になるのは、それが自由に選択され、個性的な自己表現と自己実現のための機会を提供する場合のみである(マルコヴィッチ他 1987:43)。

近年の左翼嫌いが言うマルクス主義とは「スターリン主義」であることを、彼ら自身が分かっていながら、あえて彼らは、その用語を使う。彼らはマルクスを「無視」することによって、なんらかの、保守的な主張によって、功利的にさまざまな利害のある場面で、「ポジション・トーク」を行おうとしている、と考えられるのかもしれない。
この世界の全ては「心」であると言うなら、福島第一のセシウムも、中東の暴力の連鎖も「幻想」だと言っていればいい、ということになる。もしもこれらの「実在」をうるさく言ってくるなら、そいつの脳をいじって、そういうことを言ってこない連中に変えればいい、というわけである。

  • これは自由だろうか?

言わば、左翼嫌いの攻撃する「マルクス」とは、彼らが、その「疎外」という言葉から連想されるものを「心理学」で言うところの「承認」と同一視したところから始まっていた、と考えられるのかもしれない。つまり、彼らはもしも「承認」が問題であるなら、

は「幻想」なんだから、端的にマルクスは「間違っていた」と考えて、マルクスを「嘲笑」し始めたわけであろう。
すべては「心」の問題であり、この「心」を解決(=操作=コントロール)すれば、すべてが

  • ハッピー

になるというのは、オウム真理教の「悟り」であったわけであろう。しかしそれは、上記の引用の言葉でいえば「practice」であって、「疎外」になりうるわけである。むしろ、心は「解決」してはならない。そうではなく、最初に言ったような、「職業選択の自由」のようなものによって、

  • 心が比較的に問題にならない

システムを目指していく、ということになるであろう。人間なんだから、だれだって感情的になることはある。その縁(えにし)によって、その関係がうまくいかなくなることもある。しかし、なにかのきっかけて、また、うまくいくようになることもある。そういった「心」といったバイアスによって、社会システムが不安定にならないような条件を考える。つまりは、人々が「疎外」されないような条件を考える、ということである...。

マルクス疎外論の諸相

マルクス疎外論の諸相