なぜ人類の歴史において総力戦は終わったのか?

映画「イミテーション・ゲーム」は、驚くべき史実である。数学やコンピュータについて詳しい人なら、だれもが知っている、アラン・チューリングが、あそこまで、第二次世界大戦に深く関わっていたという事実は。
前回、吉田松蔭について書いた。そこにおいては、彼の考える「世界征服」の「遺言」が、彼ら長州閥の流れをくむ人たちにとってのスティグマとなっていることから、その「世界征服」のための、あらゆる

  • 手段

として、すべての日本の「行動」が考察される形になっていたことが、特徴であった。このことを戦中においては「国体」という名で呼ばれていたわけであるが、本当の意味で彼らにとって重要なのは、天皇ではなかった。そうではなく、松蔭の遺言を達成することだった、ということが分かるであろう。
しかし、そういう意味で言うなら、戦中のナチスは、まさに世界征服を目指してヨーロッパを席巻していた。日本はナチスの尻馬に乗ってさえいれば、そのおこぼれにあずかれるという目算が、第二次世界大戦の基本的なスキームだったわけである。
しかし、この「フレーム」を完全に破壊したのが、アラン・チューリングだったと言えるだろう。
チューリングが行ったことは何か。
総力戦という「ゲーム」を、まったく違うものに変えてしまった、ということになる。
なぜ、それが、これほどまでに重要なのか。
言うまでもなく、大規模戦闘は、自軍の間の綿密な連携が、勝敗を決する。つまり、重要なことは、自軍内での「通信」ということになる。この場合、私たちはその「通信」の質を問題にしがちだ。例えば、ナチスエニグマを使って通信を暗号化して行っている。では、連合国側は、通信を使うのか使わないのか。まあ、古代ギリシアじゃないんだから、電波を使った通信は行うだろう。
つまり、戦争という場合、お互いの「通信技術」の基本的なフレームにおいては、相等性が前提になっている。一方が、衛星通信を使っているのに、他方が伝書鳩では、話にならないわけである。
しかし、だからこそ、戦争の「快楽」がある、と言える。つまり、「作戦」である。司令官がなんらかの作戦を立てる。その作戦が「成功」すれば、自軍が有利になる。その司令官の官職が高くなる。優秀な司令官であると、国民からも評価され、承認される。
これが、戦争の「原因」である。
戦争は、人々に自分が「すごい」ことを認めさせる「手段」として機能する。少なくとも、自分がいなければ、国は滅んでいた、といった「脅し」を行うことができる。戦争は、国民に、自分がいなければ「ならない」ことを認めさせる機能をもっている。
ところが、である。
チューリングが行ったことは、この機能を完全に無意味にしたことにある。
チューリングが行ったことは、ナチスの暗号のエニグマを解読したことにある。いや、違う。確かに、チューリングエニグマを解読した。しかし、そうだと言えるのは、こうやって歴史を未来から振り返ったからにすぎない。当時の人は、誰もチューリングエニグマを解読したことを知らなかった。つまり、ナチスも連合軍も、イギリスがエニグマを解読したことを知らなかった。というか、イギリス軍も知らなかったのだ。
チューリングが行ったことは、世界中の誰にも自分たちが、エニグマを解読していることを知られないようにすることであった。
これによって、戦争は、まったく意味の違うゲームになった。
イギリス軍も、連合軍も、普通に作戦を立てて、戦争を続けていた。ナチスもそうであった。ところが、

  • ある一定の割合

で、確率的に、連合軍は、ナチスに対して「勝率」が上向いてきた。ところが、その勝率は完全に、「確率」の世界であった。イギリス軍の、これらの作戦の戦略を立てている将軍たちでさえ、自分が今、行おうとしている作戦が、

  • 成功する作戦

なのか

  • 失敗する作戦

なのかを知らされなかった。チューリングにとって重要なことは、自分たちがエニグマを解読していることをナチスに悟られないことであった。悟られないまま、全体の趨勢において、戦局が連合軍に傾き、そのまま、雌雄が決することであった。よって、戦争「ゲーム」の<快楽>の場所が、まったく変わってしまったのだ。

  • 将軍たちの<戦略>の優秀さ --> 暗号が解読されているかどうかを知られずに<確率>的に戦局を比較的優位に進める

ここにおいては、ある将軍が戦略を立てることは、なんの意味もなくなる。つまり、その将軍の戦略が成功するか失敗するかは、しょせんは「確率」的に、暗号解読チームが

  • 塩梅

をすることに過ぎなくなる。やたらと、連戦連勝をする将軍は、むしろ相手に「暗号の解読」を疑われるだけであり、邪魔な存在となる。つまり、将軍は

  • 適当な確率で戦場で死ぬ

「から」優秀な将軍であることを意味するようになる。つまり、最初から将軍たちは、適当な確率で作戦を失敗して、戦場で死んでくれることが「求められる」ようになった。
これが、第二次世界大戦の後、世界中で総力戦が失くなった理由である。
このことを前回とりあげた、久坂玄端の「戦略」にてらして考えてみよう。まず、最初の段階は、久坂が17歳のときひらめいた

である。ここにおいては、たんにやるかやられるかの「戦争」の初期段階だと言えるだろう。この段階がしばらく進んだとき、次にあらわれるのが

  • 味方を殺す(=騙して殺す)段階

になる。まさに、マキャベリ的権謀術数の段階であり、非常に残虐な印象を受けるが、少なくともこの命令を行う久坂玄端にとっては、教祖である「吉田松蔭」の遺言をかなえるための、やむをえない段階と受けとられているわけで、本人には、なんの良心の呵責もない。
そして、最後の段階が今回のチューリング的段階

  • 敵に味方の変化を悟られないために(自軍の誰にも知らせずに)一定の割合で「わざと」負ける段階

である。この場合、あまりに勝ちすぎてもいけない。負けすぎてもいけない。戦局は、一見すると「どっこいどっこい」に進んでいるように見える。しかし、結果として、自軍が長期的に勝利に近づくようにする。
さて。
私はここで、ちょっとニヒリスティックに考えてみたいわけである。この段階において、久坂玄端はどう思うだろうか、と。彼は戦争を行う。ところが、その戦争は、言わば、「確率論」的にしか、勝ったり負けたりしない。ということは、軍人は、確率論的にしか、生き残れない。いや、生き残ってはいけないのだ。なぜなら、それほどの確率で生き残っては、相手に暗号解読の疑いを抱かせるからだ。
いわば、これが「戦後世界」だと言えるのではないだろうか。
つまり、なにが勝利でなにが敗北なのかが、まったく分からなくなった。なにを行っても「快楽」がなくなった。もしかしたら、今自分が行っていることは、他人による暗号解読によって、勝ち負けが確率的に決められたことによる「結果」なのかもしれない。つまり、すでに、だれかによって、自分が勝つか負けるかを

  • 塩梅

されたから、今こうあるだけなのかもしれない。そう思うようになったとき。人間は、あらゆることをやる気がうせてくる。戦争は暴力の「快楽」によって続くのだとするなら、戦争は人々に

  • (自分以外の他人の)暴力の快楽「によって」振る舞わされているだけなんじゃないのか

と疑わせることによって、人々の「やる気」をなくさせる。もしも自分の生き死にが、コンピュータによって勝手に決められていた上を「踊っていた」だけだったと知らされたら、多くの「英雄」気どりたちは、インポテンツになるのかもしれない。チューリングは世界中の暴力エリートたちを、こうしてインポテンツにすることによって、総力戦のない世界にしてしまった。
(ある意味において、この世界はエヴァンゲリオンの世界に似ていると言えるだろう。子どもたちは、使徒と呼ばれている、なんだか分からない相手と戦う。一応、戦っている、ということになっている。しかし、相手がなんなのかを子どもたちは知らない。知らないけど、とっくみあいのようなことを毎日やらされる。どうやれば勝ちなのか、どうやったら、使徒に勝ったことになるのかも分からない。なにもかも分からないが、なんだか分からないが、毎日、エヴァに乗って、よく分からない躍りをし続ける。この世界は、ほとんど、上記の「確率的世界」と変わらない、と言えるのではないか。ここにある、一つだけ確かなことは、「戦う」という言葉だけだ。なぜ、自分が今行っていることが戦いなのか、なぜそう呼ばれるのかも分からない。そもそも敵とされているものがなんなのかが分からないのだ。自分に求められることは、なんだか分からないけど、「必死」になってやっていることであり、それだけ。勝ってほしいのかも分からない。勝つというのが、どういうことになることなのかも分からない。なにをすること、どうすること、どうなることが求められているのかもわからない。ただただ言えることは、ある「確率」的な

  • 結果

がどこにいるのかも分からない。敵なのか味方なのかも分からない、この行動を強いている誰かを「満足」させる、ということだけであって、なぜそれが相手を満足させるのかも分からない...。)