暴力の相等性

ISと日本政府との一連の事件において、犠牲者となった後藤さんが「キリスト教徒」であったことは、少し考えさせる要素ではあった。

先日、私はイスラム文化研究家でジャーナリストのフマユン・ムガール氏と殉教死について語り合った。彼はテレビ朝日の「朝まで生テレビ」にもよくひっぱり出される著名人である。ムガール氏は「後藤健二氏はクリスチャンでしょう」と言い放つ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/matsumotomichihiro/20150324-00044171/

週が代わり、3月16日のTIMEの11ページ。「Spotlight:Papal Report Card」にこんな箇所があった。

On Feb 16, Francis condemned the beheading of 21 Egyptian Coptic Christian in Libya by
ISIS-affiliated militants and called the slain hostages martyrs.
(2月16日、フランシスコ法王は、リビアでISISグループの兵士たちを非難する一方で、斬首された21名のコプティック・クリスチャンは全員、殉死者と呼んだ という)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/matsumotomichihiro/20150324-00044171/

私たちは一方において、この後藤さんへの対応に対する日本政府の対応、特に、安倍総理自身の振舞いに対して、批判的に挑んできた。しかし、他方において、犠牲となった後藤さん当人、また、彼の母親が、実際のとこと、あの過酷な状況において、何を考えていたのかは、まったく別のことなのではないか、とも思うわけである。
後藤さんは結果として、「殉教者」となった。
このことは、何を意味しているのか。
ISにとって、この二人の日本人の殺害は、動画配信を使った、またとない「宣伝」になった。もちろん、こういった行為自体の非人道的な意味から、これを「宣伝」と言うことには、批判もあるであろう。しかし、彼らの中核に存在しているメンバーには、フセイン時代のイラクの圧政を担った「官僚」も多くいる。むしろ、彼らにその暴力の「正当性」がないことを示すためには、彼ら自身に、フセイン時代の暴力への「反省」が発生する「契機」がなければならない。
暴力とはなんだろうか。暴力は常に、その「相等性」を伴って発生していく、と考えられる。
例えば、私たち日本人自身を考えてみよう。暴力を行ってはならない。これは、現在の「ルール」である。しかし、私たちの先祖は、この暴力によって、政治を行ってきた側面がある。長州藩は、テロを行い、内戦を行い、徳川幕府を転覆することで、明治革命を果たした。その延長において、日本は、台湾、朝鮮を植民地にして、中国大陸において、満州国をつくり、長い、中国内での戦争を続けた。そして、国内では公安などの官憲による、国民への蹂躙が起きていた。
しかし、それは「戦争」と共に、水に流される。あらゆる戦争中の「犯罪」は、なぜか、戦後一切、振り返らないことになった。

  • だったら、それって「やっていいことだった」と言われていることとなんの違いがあるのか?

犯罪に対して、それを罪としないということは、どういうことになるのだろうか? もしもこれを、彼らの「子孫」たちの側に立って考えてみよう。子どもたち、孫たちは、親が確かに「暴力」によって、多くの人たちを傷つけたことを知っている。しかし、その親は、なぜか、だれからも「裁かれない」。その場合、子どもたち、孫たちは、それをどう思うだろうか。
たとえば、子どもたち、孫たちが学校に行くとする。すると、そこでは、彼らは、その親の行った「暴力」をネタにして、

  • いじめ

られることになる。「お前の親って、こんな残虐なことをしたんだってな。どうして、それなのに、死刑になってないんだよ。どうして、お前が産まれることができたんだよ。本当は、犯罪者として、とっくに死んでいて、子どもなんて産めなかったはずなのに。お前が、今、ここにいいて、いいのかよ」。
これは、一種の二つに一つの選択を迫られているわけである。親は悪かった。親の行った暴力は、それに見合う「罪」として裁かれなければならない。だとするなら、なぜ親を裁いてくれないんだ。裁かれないということは、見過ごされている、ということになる。ではなぜ、見過ごされているのか。こう考えてくると、究極的には、それが「罪じゃない」から、なのだろう、という結論に行くしかなくなる。
親は何も悪いことなんかしていなかった。一見、暴力を振ったように見えたとしても、それには十分に「正当化」される理由があった。というか、むしろ、「その」暴力は

  • やっていい

のだ。いや。もっと言えば、「やらなければならない」のだ。親は、暴力をふるった。そのことは、今は「悪い」こととされている。しかし、<本当>は行わなければならない暴力って、あるんだ。今は人々にそのことを認めてほしくても、うまくいかないかもしれない。しかし、最終的に私は、親の名誉の回復のために、その「暴力」が

  • 正しい

ことを、その親が行った暴力と「同じ」ことをすることで、「世間」に認めさせなければならない。これが、唯一、自分たちの家系の「名誉」を回復する手段なんだ、と。
これはなんだろう?
これは、一種の「ミーム(=文化的進化論)」だと言えるだろう。親は子供に、暴力をふるう。いわゆる、ドメスティック・バイオレンスである。ところが、その親も、その親から、子供の頃に、暴力をふるわれていた。こうして、何世代にも渡る暴力の連鎖は途切れることがない。
前回、このブログに書いたように、私は、将来において、本質的に戦争はなくなると考えている。それは、戦争によって敵を殺すことは合理的ではないからだ。なぜなら、相手は「敵」ではないから。つまり、彼らは自分たちのために働いて、税金を払ってくれるなら、それは一種の「味方」なのだから、殺すことは合理的ではなくなるからだ。つまり、あとは、戦争を行おうとしている人自体の

  • 感情(=文化)

の問題でしかなくなる、ということなのである。
相手がどんな振舞いをしたから、「これは戦争をして、相手を殺すしかない」と「思う」のは、それぞれの「個人」である。この怒りの沸騰点にまで高まったから、「やるしかないよね」っていうのは、その「個人」の判断でしかない。つまり、たとえ、その人がどんなにそのことが「自明」に思えたとしても、たんに彼らが

  • 勝手

に働いて(自治を行って)、税金を払ってくれれば、「こちらは儲かる」わけである。つまり、あとは

だけが問題だ、ということなのである。だとするなら、暴力など行う理由はない、というのと変わらないわけであろう。自分の感情など、適当にストレス発散して、適当に「人間関係」を、あまり一つに固定せずに、流動的にバランスをとって生きればいいのだから。
しかし、多くの場合、それは、なかなかうまくいっていない。
なぜか?
例えば、オウム真理教を考えてみよう。彼らは、その初期において、すでに、かなり「過激」な修行をしていた。つまり、かなり「生死」のギリギリの修行を一部には行われていた。もちろん、信者にとっては、それは「悟り」に至るためには、必要なことと考えられた。
しかし、マルクスがこだわった「疎外論」を考えてみるなら、もしもそれが「企業」の「労働」なら、あまりにも非人道的な環境における、重労働、長時間労働は問題なんじゃないか、ということになる。では、それが「宗教」の場合にはどうなるのか。
私たちが子供の頃、学校は「宿題」なるものを課す。つまり、家に帰ってまで、教室での行為と「同じ」ことを強いてくる。これは一種の「時間外労働」なんじゃないのか、という議論があった。子供は一体、どれくらいの「残業」をさせられているのか。
しかし、他方において、これを「子供の主体的な行為」と考えたとき、つまり、一種の「遊び」と同等のものと考えたとき、その子供の行為を「止めさせる」ことには、一定の正当性があるのか、という問題になる。子供が好きでやっていることを、どうして「働き過ぎ」と言って、非人道的と言わなければならないのか、ということになる。
こういった状況において、オウムは最初の「殺人事件」を起こす。つまり、オウムの修行をしている信者が、修行の最中に、「事故死」をするわけである。しかし、ここで

  • 問題

が生まれる。それは、本当に「事故死」なのか。その信者は、かなりの「厳しい」修行を行っていた。つまり、そういった極限まで挑戦するようなことをしていれば、こういった「結果」が、確率的に起きることは、ほとんど必然だったんじゃないのか、と。
つまり、ここに至って、「自分たちが行っていたこと」を振り返ることになるのである。実は、オウムの修行は「結果」として、死人を、ある一定の確率において「生み出す」ことを、ほとんど避けえない事態だと分かっていてやっていたんではないのか。つまり、一部の「エリート」を生み出すために、一定の割合の

  • 死者

を、言わば「生み出す」ことをも「目的」にしていたことと、自分たちのやっていたことは、同じなんじゃないのか、と。
つまり、どういうことか。オウムは「犯罪組織」だったんじゃないのか、ということである。このことに気付き始めた信者の一部は、この重大な「秘密」について、考え始める。もちろん、殺人は、国の法律において「犯罪」である。よって、オウムが実際に殺人を行ったのであれば、麻原を始めとして、「犯罪者」として、国の牢屋に入らなければならなくなる。しかし、その秘密を知っている、一部の信者が

  • しゃべらなければ

国の法律によって裁かれることもない。今まで通りの活動を続けられる。つまり、そこで、その「一部の信者」たちは、「暴力」によって、その組織内において、「特殊な発言権」をもつようになるわけである。つまり、特別視をされるようになる。そして、その特別視を「獲得」した理由が、

  • 自らが犯した暴力という「犯罪」

による、という形になっているわけである。この一部の過激派は、たんに「それ」だけでは終わらない。なぜなら、自らの「権力」を獲得した手段が「暴力」なのだから、今後、より発言権を強めようとすれば、この暴力を「拡大」すること以外にはないからである。まあ、一種の

  • 成功した範例

というわけである。
中東情勢は、ISにとって捕虜の首切り映像が「宣伝」としての効果を感じていたことと対称的に、アメリカにとってISは、彼らの掲げる現在の中東の国民国家の枠組み「自体」への異議申し立てを、今のアメリカを中心とした国際秩序への反対行動を受けとることによって、

  • 絶対悪

のような位置付けになったことが分かる。つまり、アメリカは中東各国の一切の「国内向けの犯罪」に目をつぶるかわりに、ISの、この世界からの「排除」を目指すことになった。
つまり、中東は今、非常に特異なまでに「アメリカの暴力」が目立つ構造になった。アメリカにとって、ISは、たんに過激派組織というだけでなく、「究極的な悪」のようなものになった。
しかし、このことは、中東のイスラム勢力において、一つの「バランスの悪い」状態を生み出している、と言えるだろう。それは、ISがイスラム教徒における「多数派」であるスンナ派だからである。つまり、結果として、アメリカは「シーア派」を

  • 応援

するような形になっている、ということであろう。

サウジアラビアは26日、イエメンのハディ暫定大統領が逃れた同国南部の都市アデンに進撃しているイスラムシーア派系の武装組織「フーシ派」に対する空爆を、湾岸諸国とともに開始した。
当局者らによると、アデル・ジュベイル駐米サウジ大使が空爆開始を発表した直後、国籍不明の軍用機がイエメンの首都サヌアの空港や空軍基地を攻撃した。
ホワイトハウスは25日遅くに出した声明で、湾岸協力会議(GCC)加盟国が主導する軍事作戦への支持を表明。オバマ大統領が「物資・情報収集面での支援」を承認したと明らかにした。
イエメンが内戦の危機に陥ったことで、事態はスンニ派が大半を占めるサウジアラビアと、フーシ派の後ろ盾になっているとされるシーア派イランとの宗派対立を背景にした代理戦争に発展しかねない様相となっている。
ジュベイル大使は、サウジおよび湾岸諸国がイエメン暫定政府の要請に応え、フーシ派への空爆を開始したことを明らかにし、イエメンのハディ暫定大統領が率いる「正統な政府を防衛する」ため、10カ国が作戦に参加したと述べた。
【イエメン防衛】サウジアラビアなど10カ国が「フーシ派」への空爆開始

暴力は常に、なんらかの「バランス」を実現しようとする力学が働く。スンナ派の過激派の暴力が問題なら、当然、シーア派の過激派の暴力も問題だ、ということになる。しかし、こういった過激派は、日本で言えば、

にあたるような存在であって、彼らに「暴力はいけません」とか言ってたって、しょうがないわけであろう。つまり、そんな「建前」を言って、彼らを追い詰めたって、なんの解決にもならない。
この場合、どこにその「特異点」があるのだろうか。私は上記で、将来的に戦争はなくなる、と言った。しかし、こうして今、この暴力の連鎖は続いている。だとするなら、そこにはなんらかの、

が、この中東には働いている、と考えられるだろう。もちろん、そこにイスラエルであり、キリスト教徒たちの「殉教」精神もある。しかし、もっとも大きいのは「アメリカの態度」にあることは間違いない。長期的に、アメリカは、こういった中東の過激派と

  • 手打ち

をすることになることは間違いない。それは、実際に、今までアメリカが行ってきたことであり、やらない理由がないからだ。そして、今、彼らがISを、言わば「根源悪」のように、この世から殲滅しようとしているのは、なんらかのアメリカ国内のコンテクストであり、彼らを「アメリカ主導の国際秩序への挑戦者」と解釈している文脈とも関係しているのであろう。また、中東の石油利権も関係がないわけではない。
しかし、いずれにしろ、アメリカが、この中東へ暴力に対する「エントロピー」の注入が、この暴力の

  • 相等性

の性格によって、一定のエスカレーションを起こしていることが分かる。アメリカがこの中東に、どこまでその「情熱」を注ぎ続けるのか、いつまで「あきない」でやることになるのか。つまり、暴力は「暴力行為の継続を続けたい」と考える立場の人がいる限り、その

  • 相等性

によって、続いてしまう。しかし、こんなふうに考えてみないか。もしも、オバマ大統領が、映画「アメリカン・スナイパー」のように戦場の最前線にでて、戦っていたら。そして、彼が腕の一本や二本、足の一本や二本、なくして、大統領業務を行っていたら。これは、中東で戦っている武装勢力側にも言えるだろう。軍隊は司令官は戦場に出ない。オバマアメリカ国内にいて、中東に来ることはない。アメリカにいて、

  • 命令

だけを出している。しかし、その「命令」が現場において、どんな非人間的な行為を強いていることになっているのかの想像がおよばない。それは、マルクスが考えたような、一種の

  • 疎外

になっているんじゃないだろうか...。