戦争と国家

戦争に勝つとはどういうことであろうか?
まず考えるのは、最終的な「勝利」。つまり、ポツダム宣言が分かりやすいが、相手が「負け」を認めるような例であろう。
しかし、問題はそこに至るまでのコンテクストだと言える。しかし、コンテクストがどういうものであれ、最終的に勝利したか負けたかだけが問題だ、という考えもある。
もちろん、なるべく最短の距離で勝利に到達した方がいい。自軍の被害も少なく抑えられるのだから。しかし、それが何なのかは難しい。なぜなら、その短いルートを選んだ結果、負けるということになることもありうるのだから。
このように考えてきたとき、戦争は一種の「外交」なんだ、という視点が重要なことが分かってくる。つまり、戦争は「政治」の延長なのだ。
つまり、戦争は相手からの「合意」をとりつけることが目的だ、ということになる。つまり、それが「実現」できるのなら、暴力的な衝突をやる必要がない、ということなのである。
では、どういった場合に、これは問題になるのだろうか?
その一つとして、こちら側の要求が「曖昧」な場合が考えられる。こちらが求めていることが、今一歩、よく分からないので、相手はこちらの要求の「最大公約数」のように、かなり相手を不自由に縛る要求になりがちになる。
(例えば、ナチスの生物学主義を考えてみるといいだろう。)
曖昧であるということは、文学的ということでもあるわけである。
たとえば「征服」という言葉を考えてみよう。同盟は「征服」だろうか。これも一種の「征服」だと考えられるであろう。なぜなら、こちらの求めているように相手は従ってくれるのだから。つまり、条件付きの「征服」なのだ。
私たちはこういった場合に、「征服」という言葉がもたらす、なんらかの「意匠」にこだわってしまう。つまり、この言葉が私たちにもたらす、どこかロマンティックな「イメージ」を、あらゆる「事実」のベースに置きたがる。
しかし、よく考えてみよう。今まさに戦争を行おうとしている相手との交渉において、私たちは一体、何を求めているのか? もしも彼らが毎年、一定の「みかじめ料」を払ってくれると言ったらどうか。彼らは勝手に自治を行い、私たちのために、働いて、お金を貢いでくれる、と言っているのだ。これで、どうして、彼らと「戦争」をしなければならない、と思えるだろうか。
よく考えてみよう。私たちは、一体、何を求めているのか、と。
吉田松蔭は、一種の「世界征服」フレームを呈示した。しかし、このフレームを、

  • 平和条約(=同盟=条件付き「征服」)

によって、世界中の国々と平和条約が結べたとするなら、それは、一種の

  • 世界征服

だということになるんじゃないのか? だって、彼らは私たちが求めている「よう」に、行動してくれる、と言ってくれているのだぞ!
このように考えてきたとき、何が彼らを不満足にさせるのか、といったことの考察が求められてくる。なぜ、世界の独裁者は、上記の「同盟」による、世界征服に満足できないのか。それは、おそらくは、ある「快楽」に関係している。こういったものの一つの例として、

  • SM

が分かりやすいであろう。私たちにはどこか、相手を「奴隷」的に扱って、相手に

  • 屈辱感

を味わせること自体に「快楽」を感じるところがあるのだろう。相手がどこか、「屈服感」を与えられたと感じたような、なんともいえない「不快」な感情に満たされているとき、なんとも言えない、愉楽の感情が湧いてくる。
しかし、よくよく考えてみないか。
私たちは一体、いつの時代の人間なんだ、と。原始人じゃないんだろ? そんな表面的な「欲情」に動かされて、「国益」を損ねるのか。いくらでも、相手に侮辱的なことを言われても、嘲笑的な態度をとられても、いいではないか。

  • 結果的に、こっちが「得」ならば

であろう。そういう意味でも、上記のSMは分かりやすい。多くの場合、SMは「ビジネス」なわけでしょ。そういう特殊な「性欲」のある人は、そういう店に行って、

  • お金を払って

そういった「プレイ」を買うんでしょ。それでいいじゃない。それで、自分の「性欲」なんて、その程度で満たせるんだから、勝手に、家で奥さんとイメージ・プレイでもやってればいいんであって、そういった「私情」を国益に関わる「外交」にもちこむんじゃねえ、というわけである。
私はこういった意味において、長期的には、戦争はなくなると思っている。つまり、彼らには

  • 働いてもらう
  • 税金を払ってもらう

この二つを、なにかしら行ってもらうことによって、こっちにとって得になるのだから、相手を殺さなければならない「理由」がなくなる。この二つ「さえ」行ってもらっていれば、ある意味において、

  • 彼らがなにをしてたって、関係ないんじゃない?

ですかね。
ここから少し、ナショナリズムについて考えたい。ナショナリズムは「自民族だけ有利に扱ってほしい」という「仲間意識」に、起源があると考えられるだろう。自分を有利に扱ってほしい。同じ民族同士、助け合うべきだ。ここには、明確な「区別(=差別)」があるべきだ、と。しかし、実際には、次のように言うことになる。

  • 同じ国の同じ国民同士、助け合うべきだ。

この違いは、国家と「仲間」が文章上「置換」される関係になっていることが分かるであろう。
私たちの「生活世界」は以下のようになっている。

  • 自分たち - よそもの

ここに国家が挟まったとき、以下のようになる。

  • 自分たち - 国民 - よそもの

さて。国民は「自分たち」なのだろうか、「よそもの」なのだろうか。このことを日常の文脈で考えてみるとき、それぞれ「文脈」によって違っていることが分かるであろう。そして、この感覚は、日本においては江戸時代からあったはずだし、似たような感覚は、ドイツのような国にもあったはずである。
どうしてこうなるか。
例えば、江戸時代の日本を考えてみよう。その当時、「国」と呼ばれていたのは、今の都道府県であった。では、日本国とはなにかというと、どこかしら「世界」を思わせるような概念であった。彼らは日本の「外」というのを、ほとんど意識していなかった。では、何を意識していたかというと、各都道府県「同士の関係」の方にあった。この、諸関係の「総合」が、日本であり、「世界」だったわけである。
ところが、このフレームが幕末崩れる。黒船来航である。黒船の登場によって、日本の

があることに、彼らは嫌でも意識させられるようになった。つまり、次のようになったのである。

  • 自分たち - よそもの(=国民) - 本当のよそもの(=外国人)

しかし、である。
私などから見れば、これも一過性のものなのではないか、という印象を受ける。つまり、確かに幕末の日本人たちにとって、上記の

  • よそもの(=国民) - 本当のよそもの(=外国人)

の区別は明確であった。しかし、そこから何百年と経つうちに、この「区別」があまり明確ではなくなってきたのだ。
よく考えてみよう。
私たちの、「自分たち」の地域にいる、身の回りの人たちが「自分たち」といった感覚の自明性は、おそらく、いくら時代が経っても変わらないであろう。それに対して、なぜ、

  • 日本の反対側で育った人

  • 外国人

を「同じ」ように扱ってはならないのか。よく考えると、ほどんどそこになんの理屈もないことが分かってくる。
こういった感覚を私たちにもたらしているものとして、おそらく、「日本語(=日本標準語)」がある。
たとえば、日本の教育システムを考えてみよう。
日本の教育システムを特徴づけているものはなんだろうか。おそらく、

  • 非常に丁寧で隅々まで手当が行き届いた「日本標準語」の学習

なのである。これに対しては、小学1年生から、非常に丁寧に合理的に学習が身につくように設計されている。それに対して、

  • 外国語(=英語)
  • 地域語(=方言)

については、ほぼ、まったくといって成功していない、ということが分かるであろう。私が不思議なのは、なぜ地方の子どもは、地元の方言を学ばないのか、なのである。どう考えても、この地域で生きていくには、早い段階で、効率的に学ぶことは必須なように思われる。
同じように、なぜ英語の「会話」の学習は日本の英語学習では、一切、顧みられてこなかったのであろう。日本の英語学習は非常に多くの時間をかけているのに、なぜか、子どもたちは英語を話さない。会話をしない。まるで、英語を話すことが「禁止」されているかのように、英語を話すことを「禁欲」させられる。日本の英語教育システムは、英語を「身につけさせない」ために行っているかのように、だれも英語を話せない。
つまり、私が言いたかったのは、上記の「日本標準語」に対する「手とり足とり」の丁寧さに対称的なまでの、地域語、外国語に対する「やる気のなさ」なのである...。