河野裕『その白さえ嘘だとしても』

今回も、前作の『いなくなれ、群青』と、基本的な構造は変わっていない。なぜ彼らは階段島にいるのか。それは、実際には彼らはここにいないから。つまり、彼らは普通に都会の街の中で、

  • 大人

になったから。つまり、彼らは、ある彼らが「抱えていた」幼児性を「捨てる」ことで、大人になった。彼らが「大人」になるということは、彼らが抱えていた、なんらかの「幼児性」であり「野生の思考」を捨てた、ということである。それが、大人になる、ということであった。
つまり、彼らがこの階段島にいるということは、彼らの「捨てた」彼らの幼児性がここにある、ということを意味する。
彼らは大人になった。しかし、彼らはそうして「大人」になった、自分を認めない。この階段島にいる「彼ら」は。つまり、この小説は彼ら階段島にいる彼らによる

  • 反抗

の物語でなければならないことを意味する。しかし、そんなことは可能なのか? もちろん、それは絶望的なまでに不可能だ。なぜなら、そんなことができるなら、こんなことにはなっていないのだから。
つまり、彼ら階段島にいる彼らが、本当の意味で、街中を生きる、「大人」の彼らになるためには、なんらかの意味において、こういった過去の幼児性を捨てて、大人になることを選んだ、彼らの「悟り(さとり)」を克服する姿勢が必要となる。
では、この階段島にいる彼らを特徴づけるものはなんだろうか? ここで、もう一度、主人公の七草と真辺の関係について、検討する必要がある。
七草が真辺にコミットメントをするようになったのは、小学生の頃、真辺が「いじめ」られていたからだ。ここに「ニヒリズム」がある。つまり、この物語は最初から、このニヒリズムの回りを回るようにできている。
七草にとって、真辺は「不快」な存在である。つまり、七草にとって、真辺は「他者」である。ところが、七草は真辺が行うことには、決して介入しない。彼女が行動しようとすることに対して、決して、反対をしないわけである。それは、彼女の「権利」だと思っている。七草が行っていることは、最初に彼女と出会ったときと変わっていない。彼女が「いじめ」られ、危機に直面したとき、七草はなにかの助けを自分ができればいい、と考えている。
しかし、この二つは矛盾していないか?
七草は一方において、真辺に対して、コミットメントを行っておきながら、他方において、デタッチメントが成立しうると思っている。彼はこの二つが矛盾していると考えないわけである。
これは、一種の「現代病」と考えられるのではないだろうか。

「気を悪くせずに聞いて欲しいんですけど」
「うん。なに?」
「真辺さんには、少し問題があると思うんです」
「少しどころじゃない。たくさん問題があると、僕は思うけどね。委員長はどの問題のことを言っているの?」
「主に人間関係の。なんていうか、ちょっと身勝手ですよね」
「とても身勝手だよ。相手を思いやって、雰囲気を察して言葉を選び、求められている言動を心掛ける。そういう、友達付き合いにおける当たり前のルールを、彼女は知らない」

このことは、一見すると、真辺がKYであり、クラスの雰囲気に馴染めない、まさに「いじめ」の対象として「ターゲット」とされるのは、しょうがないことであるかのように分析される。しかし、他方において、このパースペクティブは以下のような認識によって「反転」されるわけである。

結果を出せなくても、精一杯の努力をしたのだとわかれば、みんな満足してくれるはずだ。今できる、精一杯の努力とはなんだろう。いったいどうすれば、みんな納得してくれるだろう。
とにかく演じきるんだ、と水谷は決める。
心優しい少女を。誰も傷つけない善人を。文句のつけようのない優等生を。
記憶にある、真辺の声がリフレインする。
----人に合わせてばかりだと、自分にできることがわからなくなるよ。
水谷は首を振った。
そういうことではないのだ。「できること」と「できないこと」なんて、はっきりとわかっている。問題を解決するのは、できないことだ。できるのは、優しく声をかけること。相手に合わせて頷くこと。無力でも味方として振る舞うこと。本当の意味で正しい魔法の鏡でいること。

水谷は確かに、クラスの共同体のコードを読み、自分が「いじめられっ子」にならないための、さまざまな手管に通底し、実践している。しかし、他方において彼女のその行動は、徹底して「利己主義」である。つまり、彼女は

  • 自分に得になる

から

  • 他人に優しくする

ということで、逆に言えば、自分に得にならなければ、彼女は他人に優しくしないのだ。水谷の「優しさ」であり、クラスの皆のことを考える「思いやり」は、徹底して、利己主義に「汚染」されている。彼女は自分が「いじめ」られないためなら、

  • だれにでも優しくする

のであり、こんなにみんなに優しくしている自分は、絶対に、クラスのみんなから「いじめ」られてはならない、と思っている。「いじめ」られるのに

  • ふさわしい

のは、真辺のような「他人に優しく」するのが「下手」な奴なのであって、自分がその対象から逃れられるのは「当然」だと言いたいわけである。

----ああ、このパターンかよ。
思い当たって、佐々岡は無理に笑う。
苦手なんだ。弱音ばっかり吐く主人公。つまんないことで悩んでさ。仲間に慰めてもらって、なのに八つ当たりしたりして。「どうしてオレが戦わなきゃいけないんだ」みたいな、そういうのって、いらっとする。
お前は世界を救えるんだろう? ちゃんと倒すべき敵がいて、ストーリーがあって、仲間までいて。苦労の先には、ベストなエンディングが待ってるんだろう?
どこに不満が、あるっていうんだよ。
そんな主人公で世界を救うのは、気分が乗らないこともある。でもまったくダメってわけでもない。最後にひとつ、どん底まで追い込まれてから一度だけ、そんな奴が前を向いて立ち上がる瞬間は最高だ。
意外とやるじゃん。そう言われたくて。
見直したよと言われたくて。

七草、水谷、佐々岡に見られるのは、真辺を「鏡」にして、示される。彼らは、この「思いやり」「気づかい」共同体に順応した、いわば、「思いやりエリート」である。そんな彼らにとって、真辺のようなKYは、まるで彼ら「思いやりエリート」の、卓越した能力を侮辱されているように感じて、不快になる。彼女は、自分たちが「誇り」に思っている

  • 「いじめられないために磨いてきた」メソッド

を否定されているように感じて、不快になる。
しかし、問題はそんなところにないんじゃないのか?
例えば、七草は真辺に対して、一方でコミットメントを行うようなことを言いながら、他方で彼女が行おうとすることに「絶対」に反対しない。おかしくないか? 確かに、後者の「行動の自由」を認める態度は、道徳的には立派であろう。リベラリズムの鏡であろう。しかし、それがどうした。七草は真辺にコミットメントをすると決めているんじゃないのか。だったら、彼女が間違っていると思うなら、止めさせればいいだろう。
水谷にしても、佐々岡にしてもそうなのだ。彼らは中途半端に「ルールに従う」わけである。なんで? ルールなんて破ってしまえばいいだろう。ルール以上に大切なことがあるなら。
私はこういった特徴は、一種の「現代病」なんじゃないか、と思っている。
ゲーデル不完全性定理は、対角線論法と呼ばれる、一種の

の構造をしている。つまり、対角線という「一点」「不動点」によって、この

  • セカイ

は、宙吊りにされている。この世界においては、あらゆることはこの世界を支配する「ルール」によって、規律化されていながら、他方において、ある

  • 例外

がある。つまり、不思議なことに、この一点においては、あらゆるそれらのルールは無視され、どんなアナーキーも成立しながら、なぜか、彼らはそのことをまったく意識している様子がない。
これを西田幾太郎の言う「絶対的矛盾的自己同一」と呼んでもいいし、日本国における天皇の、東京における皇居の、

  • 無の中心

と言ってもいい。自由主義者(=オタク)が一方において「あらゆる」自由を訴えながら、他方において、「彼らの唯一のトモダチ」である、国家による「強制」を、諸手を挙げて賛成する「全体主義ファシズム」とも似ている。
ここは、一種のブラックホールになっていて、あらゆる「矛盾」はこの中に吸い込まれていくが、だれも、この中心について語らない。一種のタブーとなっている。
つまり、「無意識」である。
彼らは心のどこかで、自分を「守ろう」としている。だから、彼らにとって矛盾は

  • 自分には許されなければならない

なにかに思われる。確かに自分は卑怯だが、自分は「弱い」のだから、自分が矛盾によって守られなければならないのは、必然と考える。
彼らは「分裂病」という現代の病を生きている。
そういった彼らの前に、真辺は「他者」として現れる。真辺はたんに、首尾一貫しているだけであるが、そのことが彼らの「不純」さを明みにだし、彼らをいたたまれなくする。真辺さえいなければ、彼らのセカイは「幸せ」なのだ...。

その白さえ嘘だとしても (新潮文庫nex)

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