阿部将伸『存在とロゴス』

レヴィ=ストロースが『野生の思考』で考えていたような、未開社会の「野生の思考」であり、子どもたちの「野生の思考」であり、といったものは、私たち大人がほとんど意識することなく、日々の日常において行っている、なんらかの

  • 自明性

であり、共同体の「コード」を、侵犯していくという意味で「タブー」を犯す思想だと言うこともできる。
その「徹底」した思考は、私たちの共同性、自明性を「不安」にする。そういう意味で「野生」の思考なのだ。
このことは、一般に「現象学的還元」と呼ばれている作法と深く関わっているように思われる。

たとえば、われわれは講壇を、交差する茶色の面 --> 箱 --> 台 --> 大学の教壇・講壇という「基礎づけ連関」に則して見るのではなく、話をするために大学講堂内に置かれたものとして、その上に本が一冊置かれているものとして、私には高すぎるものとして、これらすべてのことを「いわば一挙に見る」のである(GA56/57,1)。まず客体としての物があってそこに後から意義が付着するのではなく、最初から周囲世界のうちでの意義あるもの、つまり<...としての何か>が体験される。周囲世界内で「何かを体験して生きること」(Er-leben von etwas)」、「何かへ向けて生きること(Leben auf etwas zu)」(GA6/57,68)が、現事実的生の解釈学の出発点を成す。

初期ハイデガーが、ほとんど自らを「アリストテレス」と同一視するまでに、そのアリストテレスを内部化して、自らの哲学を醸成していたことは、よく知られていながら、実際にそのとき、ハイデガーがどんなことを考えていたのかについては、あまり知られれいない。というのは、そういった初期ハイデガーの成果物をつまびらかにするような資料が、なかなかでてこなかったこととも関係している。
だとするなら、初期ハイデガーは何をしていたのか、ということになる。現象学とは一種の経験論である。すべてを「経験」の過程によって説明しようとする野心的なアプローチだと言える。例えば、上記の引用において、大学の教師は、その目の前にあるものを「講壇」を、その素材的連関の段階を経て解釈するのではなく

  • 一気に

「それ」として「体験」されている、と言う。つまり、ここにおいて「意義」などといって、人間的な解釈が、後付けの説明として、後ろからついてくるのではなく、それらが「一度」に「まとめて」来るという意味において、

  • その時点で、最初から、これらの体験は「ロゴスに汚染」されている

と言うことができる。つまり「大人」にとって、最初から、世界は「ロゴス」化されている、というのだ。

道具が故障したとき、あるいは機器の新たな機能を模索するとき、われわれは、それらがそのように作られているのかに思いを凝らし取扱説明書に目を通す。このような知の動向をハイデガーはテクネーと解しているのである。個々の道具・機器との円滑な交渉からひとまず身を引き、それらの根源を問い尋ね、当の存在者がそもそも有しているべきはずの在り方を、取扱説明書やそこに描かれた組立図を通じて理解すること。これこそテクネーであり、取扱説明書や組立図はアルケー的なエイドスを具現化したものに相当するだろう。そして取扱説明書の理解起点として、そのつどの個別的な道具との交渉の場があらためて照らし出される。

ある道具は、言うまでもなく、たんなるモノである。しかし、その発生的な営みを考えるなら、その道具が作られるまでには、何人かの人の間を介した「言語的行為」なしには、絶対にありえなかったような様態を示している。それはまさに「取扱説明書」が、象徴している。その道具がそのようにあらしめられている構造において、その道具の制作に関わった人たちの思考であり、行動の過程において、このような「取扱説明書」にあるような「ロゴス」を非常に意識して、介在され、印づけられている。つまり、そのモノは、たんにモノと言うには、あまりにも「人間」的に「ロゴス」によって汚染されている、ということになる。
これを一種の現象学的還元と言っていいだろう。私たち大人の「ロゴス」の世界は

されている。つまり、大人はセカイを「単純化」せずに見ることができない。それなしに見るということは、「未開民族」のように見るということであり、「子ども」のように見るということであり、つまりは「狂気」において、生きることと同値ということになる。

一般的い言えば、存在者を何かとして語るときには当の存在者にとって異質な観点がしばしば入り込んでくる。あるいは、異質な観点を恣意的に持ち込むこともあるだろう。これに対して「何かをそれ自体において語ること」としてのホリスモスは、そのような「アッロ(異他的なもの)を締め出し」(HJ3(1922/23),41)、当該存在者にまさにふさわしいアルケー的存在という観点のみに準拠するのである。

初期ハイデガーにとっては、現実的生の遂行性がアリストテレス存在論との共鳴の基礎になっていた。このことを如実に示すのが、『ニコマコス倫理学』第六巻第一三章1144a5-6に言及した以下の文言である。

いまやアリストテレスは次のように言う。哲学者の純然たる観想は実際に何かを結実させる、つまりポイエイ。しかもトー・エケスタイ・カイ・トー・エネルゲイン、《その観想が所持され遂行されることによって[何かを結実させるのである]》(1144a6参照)。すなわち、成果によってではなく、だひたすら私がこのテオーレインのうちを生きることによってである。(GA19,169)

ハイデガーが言いたいことは、アリストテレスを介することによって、私たち「大人」が徹底して

  • ロゴスによって汚染されていること

への自覚を強いている、ということになるであろう。つまり、私たち大人は、さまざまな意味において「現象学的還元」を生きているのであって、そうでないと考えることが一つのドグマ=謬見なんだ、ということを徹底した、ということになる。
私たち大人は「ロゴス」的な存在であり、私たちのセカイはロゴスによって汚染されている。徹底して、隅から隅まで汚染されている。この外に出ることは、私たちが「ロゴス」的存在でなくなることを意味しているという意味で、そもそも想像すらできない境地だと言ってもいい。
しかし、他方において、私たちは最初から「ロゴス」的存在であったのではない。それは、子どもや、未開社会の人たちや、過去の人間たちを見れば分かるように、そこには間違いなく「野生の思考」がある。
ハイデガーは、この私たちの「ロゴス」性を、上記にあるようなその、私たちの

  • 自体性
  • 遂行性

の二つによって説明しようとしている、と考えられるだろう。つまり、私たちが、この「ロゴス」的な存在として今あることが、まったくもって避けられない事態として描くと同時に、こうなっていった過程を、その「遂行」性において、説明する。つまり、このようにある存在形態と、実際にロゴス的な行為を「遂行」してきたこととを区別できない、ということになるであろう。
このような意味において、ハイデガーの哲学は徹底して、この「遂行」という行為全体による、ホーリズム的性格と切っても切れない関係になっていることが分かってくる。この遂行を「自体」的に、生きるのが

  • 人間

であり、大人となる「ロゴス」を自体的に内部化していく存在(=大人)なのであり、こういった存在様態を、人間はそう簡単に離れることはできない、ということを繰り返し強調した、ということになるだろうか...。