アニメの終わり

エヴァの監督の庵野さんが、アニメの終わりについて言及していたが、私は彼とは違った意味で、アニメは終わるのではないかと思い始めている。
なにかの「終焉」と言うとき、それは、その対象が存在しなくなることを意味しない。そうではなく、その存在が、ある「目的」に対しての何かにおいて、「囲い込まれる」ことを意味している。つまり

  • 概念的

にアニメとは何かが、包含され、ここにおいてアニメについて語ることに、批評的な意味がなくなっていく、ことを意味する。
私がアニメについて、いわば「批評」的に考え始めた最初と言っていいものはなんだったのかと考えたとき、それは、このブログの以前の記事でもあるが、アニメ「かなめも」の最終回で、両親が幼い頃に亡くし、そして育ての親であった、おばあちゃんも最近亡くし、天涯孤独になった中学生の「かな」に、新聞配達バイトの仲間たちで、彼女が欲しがっていた一冊のノートをプレゼントする、という場面であったかもしれない。そこで、「かな」は、ひかえめな女の子だけに、そのまま自腹で買ってプレゼントをしたり、そのノートを買えるお金をプレゼントするような行為は、親切の押し付けとして断られる、という認識があった。
もちろん、この場面は、原作を見てみると、本当に「ありふれた」一つの日常のページとして、描かれている。しかし、このアニメを見た人には、なぜこの場面が最終回で描かれなければならなかったのかが、よく分かるわけである。
例えば、アニメ「とある科学」の第一期は、佐天涙子という、なんの能力もない「落ちこぼれ」を中心に描かれる。そこには、明確な「不良」であり「成績落第生」に対しての、反転した「評価」を描こうという姿勢が、作品の隅々に見つけられる構成になっている。御坂美琴佐天涙子に「能力なんてどうでもいいじゃない」と言うとき、彼女は伏せ目がちに、御坂の気付かない角度で、そっと拳を握る。そこには、佐天涙子を中心にした、世の中のいわゆる

に対する「反抗」の視線から、なにかを眺めようとした作品として、野心的な作成側のモチベーションを読み取ることができた。
しかし、興味深いことに、こういった作品「解読」の視点は、ほとんど人口に膾炙することはない。まず、作品をそんなふうに読解しようというモチベーションをもった人たちがいない。まず、大手マスコミで活動している文筆家さんたちは、まったく、こういう視点からは「明後日」のことばかり書いている。
しかし、である。
こういった視点は、いわば、「見る人が見ると分かる」わけである。例えば、一時期はやった「MAD動画」というのがあった。これらの作品を見ていると、よく、そういう細かいところを見ているな、という作品があったりする。それは、例えば、ブルーハーツの曲を聞いて、「俺のことが書いてある」と思うような感性なのかもしれない。一方の極にある「大人」たちはブルーハーツを「不良のゲテモノ」と毛嫌いして、他方の極にある「優しい不良」たちは、彼の伝えようとしているなにかに「気付く」わけである。
たとえばこのことは、こう考えたらいいんじゃないのか、と思っている。日本のエスタブリッシュメントたちは、例えば、東大出身のエリートさんたちである。彼らの友達は同じ東大出身である。そうすると、彼らのいつもの話し相手は、同じ東大出身者ということになって、つまりは、「お金持ち」というわけである。そんな、いつもお金持ちとしか話さない彼らが、大衆の気持ちを分かるわけがないのだ。

  • 彼ら大衆が頭が悪いのは、彼らが「道徳的」に劣っているからだ。
  • 彼ら大衆が馬鹿なのは、彼らが努力をせず「貧乏」であり続けようとしたからだ。

彼らエリートは「大衆」の「非道徳」性を指摘するのが「大好き」である。しょうがねえな。俺たちエリートが「大衆」を先導してやらなきゃ、日本は滅びるんだから、大衆は生かさず殺さずで文句は言わさねえ、というわけである。まあ、毎日、東大出身の「お金持ちエリート」としか話さないんだから、彼らの脳味噌がそんなテーストになっていくのも、無理はないのかもしれない。
問題は、こういった連中が、大手マスコミの全ての部署を支配し、まるで、

  • これこそが日本の「常識」

であるかのような雰囲気が、この日本全体の空気となっているところにあるのであろう。
アニメが「サブカルチャー」であるとは、そういった意味で、作品が下品だとか、幼稚だとか、余計なお世話だと思うわけである。お前がたんに「お行儀がいいお坊ちゃん」だっていうことを意味しているだけなんじゃねえの、とか思ったりもする。ようするにさ。アニメは

  • 高級住宅街に住むお嬢ちゃんお坊ちゃんの「教養」のためにならないものは「あってはならない」

みたいな「価値観」と戦っていける視点がなくなったら、終りなんじゃないのか、と思っているんですけどね。
このことを、もう少し別の角度で考えてみると、声優の問題というのがある。つまり、日本のアニメ作品の多くは、ほとんど同じ声優が、まるで使い回しのように、いろいろな作品の主要キャラをやっていたりする。
しかし、そういった視点で作品を見始めると、それはそれで、楽しめるようになる。正直、アニメというのは非常に大変な努力によって、セル画を描いて、動く人間を見せようとしているのだろうが、なかなかそれらを目で追うのは疲れる作業だったりする。実際に、本当にこんな場面を、滑らかな流線型で、人々が動いていく、なんていう

  • 努力

をしてまで描かなければならない理由なんてないんじゃないのか、と思わされることはよくあるものだ。実際、ラノベを読んでいて、挿絵で

  • 十分

にお腹いっぱいという感覚もあるわけで、だいたいの話の流れの分かるような場面は、画面を見ずに、音だけ聞いているなんていうことはよくあるわけである。実際、大人はいろいろやること(デスクワーク)があるわけで、そんなにアニメの娯楽の場面を、映画館のようににらみ続けているわけもいかない。
しかし、それはそれで、けっこう楽しめるもので、声優というのは、ドラマの俳優と違い、子どもの声を実年齢が老人に迫ろうという人でさえやってたりするわけで、つまりは、まったく俳優とは違った

  • 特殊技能

として成立しているところがあって、聞いているだけで、楽しかったりするところがある。実際、声優とは声に特化しているという意味では、学校の成績が優秀じゃなきゃなれないというような世界ではないわけだから、上記の「リア充エリート」には不評の職業なのだろうw
こういった観点は、「偶像崇拝の禁止」とも関係しているところがあって、いわばアニメの「絵」は、もろそのもの「偶像」でもあり、それを描いた人の「ナルシシズム」がどうしても反映されてしまうところがある、という部分もあるだけに、こういったアニメの世界の

  • 中心

に声優たちの「声の世界」を置くべきなんじゃないか、というのはそれほど突飛でもないんじゃないのか、と思ったりもする。
この前、京都アニメーションの最新作の「響け!ユーフォニアム」を見ていて、私は正直、残念な印象を受けた。というのは、原作の小説を読んだから、という部分があるのだが、そもそも、原作は主人公の黄前久美子(おうまえくみこ)を除いて、

  • 全員、関西弁

なのだ。まあ、当たり前であろう。作品の舞台が関西なんだから。ところが、アニメ版では、当たり前のように、原作の関西弁は「日本標準語」に直されている。
私はこれを見ていて、残念な気持ちがわいてきたのと同時に、なぜ製作者側は、「日本標準語」にしたがるのかを考えさせられた。つまり、「日本標準語」は

  • コミュニケーション・コスト

を非常に削減するんじゃないのか、と思ったわけである。その地域の言葉は外の人にとって、

  • ノイズ

である。よって、じっくり考えないと意味が入ってこない。つまり、努力をしないと作品の話についてこれない。作品の制作側はこの「コスト」を嫌がるわけである。
これは一種の「フラット革命」である。
しかし、これはおかしいのではないか、と思ったわけである。どういうことか?

もしかすると、秀一と久美子近すぎる存在なのかもしれない。一緒にいるのが当たり前すぎて、互いに抱く感情に気づけないのだろうか。だとすると、幼馴染みというのは厄介な関係だ、と葉月はやや呆れ気味に考えた。
「あかんで塚本。久美子って鈍いんやから。積極的に行かんと」
「そんなもんわかってるわ。付き合い長いねんから」
反射的に言い返したのだろう。彼は自分の言った台詞に、気まずそうな顔をした。しゅんとうなだれるその姿がなぜだかひどく可笑しくて、込み上げる笑いを隠そうともせず葉月はケラケラと笑い出した。秀一がますます顔を赤くする。可笑しくて仕方ないのに、泣きたくなるのはなぜなんだろう。葉月は目に浮かぶ涙を拭い取ると、それからあっけらかんと言い放った。
「ま、久美子はうちの大事な友達ですから。二人がくっつくよう協力したるわ」
あのとき、気ぃ遣わせてしもうたし。つぶやいた声は秀一には聞こえなかったらしい。え? と彼が不思議そうに首をひねった。
「なんでもない!」
そう言って葉月は笑ってみせた。その声に釣られたように、秀一もまた笑った。夜の空気に二人の笑い声が溶ける。それはひどく作り物めいていたけれど、二人とも互いに指摘しようとはしなかった。

これは久美子の親友の葉月が、久美子の幼ななじみの秀一に告白してふられた後の場面であり、アニメの第8話で、この同じ場面が描かれたわけであるが、正直、アニメの方は、最後の秀一が急にケラケラと笑い出す、その不気味な印象ばかり残り、その描かれ方が、非常に不自然な印象を受けたわけである。しかし、こうやって原作と比べると、明らかに原作の方は、自然に描けている。つまり、

と言わざるをえないんじゃないのか。アニメ「響け!ユーフォニアム」を失敗作にしたのは、関西弁を東京標準語にすることによって、「コミュニケーション・コスト」をけちった「フラット革命」なんじゃないのか。そんなに、東京人にこびを売りたいのか。よく考えてみろよ。

  • 関西の日常の関西弁での会話を、まるでアメリカ人の日常会話を、中学英語の直訳文法で「機械語訳」したような文章で、東京標準語を話している東京人は「日常会話」をしているのか!

こういう気持ち悪い「フラット革命」バカ作品を作っているから、アニメは滅びるんだよ。こんなんだったら、原作のラノベを読んで、それを優秀で個性的な声優さんたちで、ドラマCDにしてもらって、才能あるラノベの挿絵師や漫画家に個性的な絵を描いてもらって、もう「お腹いっぱい」だよな。つまり、アニメっていらないんだよw