石井洋二郎『フランス的思考』

ここのところ、厚労省の年金機構の個人情報流出問題がマスコミでかまびすしい。しかし、この問題を聞けば聞くほど、そもそも人間とコンピュータは共存可能なのか、といったことについて考えさせられる。
もちろん、こういったセキュリティの専門家に聞けば、非常に常識的な回答が返ってくる。ウィルスに感染したメールを開いてしまうことはだれでもありうる(言うまでもなく、ウィルスに感染したから、攻撃側がどこまで情報収集に成功したかは、また別の話である。なにも個人情報を取得できなかったかもしれないし、個人情報以外にも重要機密情報が流出したのかもしれない)。しかし、それに対して、基本的な対策を外部から指摘されても行えていなかった、この組織の闇は深い、と。データベースから個人情報の一部をファイル形式でダウンロードすることは、業務上、考えられないことではない。だとしても、ファイルサーバに置くことは論外としても、ファイルにパスワードを設定する、ローカルPCにも置かない、使ったら、すぐに消すなどの対策も必要ではないか、と。
さらにこの問題を深刻にしているのは、お役所官庁の、無謬性原則であり、徹底して、内輪でもみ消そうとして、なかなか上に上がってこない。そもそも、お役所に自浄作用があるのか、というのがあるのだろう。
しかし、ここで私が考えたいことはそういうことではない。
例えば、バブル以降にできたIT系企業はどこも非常に社員が若い、という特徴があった。というのは、年配の方で、スキルがあり、そのスキルに年齢に見当った高額の給料を払いたくなる人が少なかった、というのがある。つまり、上の世代はITのリテラシーがそもそもない。今の50代以上はのきなみ、そんな感じで、そういったリテラシーがある人となると、大学の理工学部にいたとか、特殊な人材ということになって、そもそも、探してもそういない人たちだった、というわけである。
大事なポイントは、日本のサラリーマン社会は、つい最近まで、ITスキルはまったく評価の対象ではなかった。つまり、一種の「おたく」が趣味でやっていたにすぎない。ところが、その知識がここまで各企業の基幹システムに浸透してくると、この技術との「共存」が、必須の事態に、いつのまにかなっていた。しかし、そもそも日本のサラリーマン社会は、ITスキルによる人物評価もしてこなかったし、能力開発もしてこなかったわけで、つまりは、会社の上層部を固めている人材がのきなみ、こういった分野に対する皮膚感覚をまったくもっていない、という「使えない」人材によって運営されているという「危険」な状態にある、ということである。
IT無知の人間がリーダーなのだから、そのリーダーをもつチームは、リーダーから「IT的な危機」への感受性が弱くなってしまう。つまり、IT無知リーダーは「よくわからない」から、「きっと大丈夫」と、危険なIT的慣習に慣れていく。その「皮膚感覚」が、自分がどれだけ危険な行為をしているのかという、感覚を生み出さない。
早い話、こんなことなら、若手のITに詳しい人間を、とりあえず「リーダー」ってことにしておいた方が、まだ「安全」だという話にもなりかねない、ということなのである。ここには、日本の年功序列型の出世システムの限界を示していると考えられるかもしれない。
コンピュータと人間の関係を考えると、以下のようになっている。

  • 人A:存在X --> 重要情報W

ここで「存在X」と呼んでいるものを、いったん、パソコンと考えてくれていい。まず、人Aは、パソコンXの中に、重要情報Wを保存している。このとき、そのパソコンXは、人Aの「私的所有」だと思ってくれていい。人Aは、この重要情報Wを、自分以外の他人に渡っては困ると考えている。しかし、他方において

  • 自分

にとって、その重要情報Wへのアクセスは容易であってほしいと、考えている。そこから、次の関係が問題とされる。

  • 通信:存在X <--> 存在Y

人Aは、、パソコンXを便利に使いたい。そのため、ある程度のことは、「自動」でパソコンX自身に判断して、動作してもらうことは、当然必要なことになる。なぜなら、そうでなければ、やること、いちいちに人AがパソコンXに「許可」を与えなければいけないということになるからだ。当然、現代のインターネット時代においては、パソコンXが、さまざまな情報をネットから集めたりするには、外との通信を行わなければならない。つまり、ここに別のパソコンYの存在があらわれる。すると、結果として、次の命題が発生する。

  • 人B:存在Y --> 存在X --> 重要情報W

ある世界中のパソコンから、なんらかの「宝の山」を探している人が、パソコンYを使って、世界中のパソコンに、「通信」をする。つまり、ある「プログラム」の実行をパソコンXに対して要求する、というわけである。さて、これをパソコンXは、

  • どうやって

やらないようにすればいいのだろうか?
人Aの、パソコンXに対する指示は以下である。

  • パソコンXの中の重要情報Wへのアクセスを人Aが便利になるようにしろ。
  • 人Aが便利になるために、パソコンXは「自分自身」で、いろいろ考えて行動しろ。

ここで問題なのは、後者である。パソコンXは、人Aが便利に感じるように、さまざまな行動を「自分」で「考えて」行う。当然、インターネットで通信もする。しかし、そうすれば、パソコン内の重要情報Wを、外部に漏らしてしまうようなことも、行うことだって起きるであろう。言うまでもなく、パソコンXが行う行動は

  • 全て

人Aが「便利」に感じるようにするため、である。しかし、その結果として、どうして、重要情報Wが外部に漏れないことを担保できるであろうか。

  • 人Aは自分が便利になるために、存在Xの「自由(自分が許可を与えていない行為でも、その範囲でなら自動で行なってもいい、と言っていること)」を許している。
  • 人Aは自分が便利になるために、存在Xに外部の存在Yとの「通信」を許している。

例えば、子どもを例に考えてみよう。親は子どもに、危ないことをやらないように「監視」しているし、子どもの一個一個の行動に「許可」を与えている。これをパソコンXにさせたら、どうなるか。パソコンXは、「あらゆる」行動を、いちいち、人Aに確認を求めてくることになる。この場合に、何が起きているのか。

  • 人Aは、なにをするにも、いちいち確認を求めてきて、それをやらない限り、なにも先に作業を進めてくれない存在Xを「便利」と思うだろうか?
  • そもそも、人Aは、存在Xがやろうとして、確認を求めてきているその行動を「やってもいいかどうか」を判断できるのだろうか?

はて。
これは何が起きているのだろうか? コンピュータは確かに、リバタリアン的な意味で「私的所有権」の産物である。上記であれば、人AはパソコンXを所有している。しかし、そのことが、パソコンXの中にある、重要情報Wを、

  • 人Aにだけは、アクセスを容易にして、
  • 人A以外には、アクセスを不可にする

ということを少しも意味しないわけである。パソコンは、外部装置からのアクセスを容易にすれば、「だれにとっても」その外部装置からのアクセスは容易になるし、アクセスを厳しくすれば、「だれにとっても」その外部装置からのアクセスは難しくなる。人Aはこれは自分のものなのだから、自分にだけ「やさしく」ある

  • べき

だといくら言ってみたところで、そんなことを可能にする「からくり」はない、ということなのである。
よく考えてみよう。
ここで、何が起きているのかを。
ここでの問題は、人Aと存在Xの「関係」にあった。存在Xは、人Aの「私的所有権」の範囲のものである。しかし、他方において、存在Xは、人Aにとって、さまざまなことが「便利」になるために、さまざまな「行動」をする存在なのである。
つまり

  • ロボット

なのだ、このことを分かっていないのである!
もう一度、デカルトの「我思うゆえに我あり(I think, therefore I am.)」について考えてみたい。デカルトがここで「私は考える」と言ったとき、このことの含意は三つの場合が考えられる。
一つ目は、単純に「私は計算する(コンピュート)」と考える場合である。この場合、言うまでもなく、コンピューターは「人間」だということになる。つまり、コンピューターと人間を区別する境界線はなかった、ということになる。
しかし、それではデカルトは、人間以外の存在にも「自我」を想定していたということになり、あまり建設的な議論にならなくなる。むしろ、デカルトの主張の文脈を考えたとき、彼の関心の眼目は、人間とか民族が行っている「慣習的」な行動、ワンパターンのなにかに対する「疑い」を、「考える」と言っていた、という側面があるわけである。では、これをどう考えるか。例えば、日頃は、メモリの片隅に保存されていて、使われることのないプログラムなのだけれど、なんらかの非常事態に直面すると、そういった眠っていた情報を倉庫からひっぱりだしてくる、といったような「場合」で考えるというのが、二つ目になるだろう。
もう一つは、もっとラディカルだと言える。あるいは「メタ」の思考とも言える。日常的に行っていることが「慣習的」だとするなら、それを「疑う」とは、言わば

から考える、というのに似ている。つまり、外部のシステムが「考え」て、その結果によって、パソコンXが「改変」されるような事態を考えてもいいし、パソコンXが、自分で自分の「プログラム」を改変し、自分の行動自体を変えている、と考えてもいい。
(後者の二つを、心理学のように「無意識」と言ってもいい。)
つまり、いずれにしろ、こういった、さまざまなヴァージョンの違いは、人間の「自我」が、例えばコンピュータといったような、他の存在には「ない」、というような、

  • 人間の定義

をどこかで模索していたものだったはずで、そのデカルトのアプローチを「救済」できないかが模索されている、とも考えられるわけであるが、いずれにしろ、その説明は難しくなり、あまりうまくいっていない、という印象はまぬがれないのではないか。
それに対して、詩人のアルチュール・ランボーは、ある有名な言葉で、このデカルトの命題を否定する。

  • 人が私において考える(on me pense)

と。

ところが日本語やフランス語といった個別の言語(正確にいえば言語体系(ラング))は、私たちが誕生したとき、すでに無条件の前提として与えられていたものであって、けっして固有の人格に属するものではない。つまり、それらはあくまでも私たちにとっては純粋な「外部」であり、絶対的な「他者」である。そんな言語を通して紡ぎだされた思考が、どうして「私」という個人のものでありえよう?

だが、そのいっぽうで、思考はけっして「私」を完全に離れたどこか非人称的な空間で営まれているわけではないというのも、また否みがたい事実である思考は「私」が主体として実践しているものではないとしても、確かに「私」の中で、あるいはより適切にいえば、「私」を通しておこなわれている。とすれば、《on pense》という表現のどこかにそのしるしを刻んでおく必要があるだろう。それがここで《me》という単語が果たしている機能なのではないか。つまり、これはいわゆる目的語というよりも、むしろ行為が実践される「場」を指し示す言葉と解するべきなのではないか。「人が私において考える」という訳文を選んだのは、そうした意味による。

ランボーの指摘はむしろ、上記のコンピュータの「存在」の事態をより整合的に説明しているように思われる。つまり、そもそも「私は考える(Je pense)」という場合の「自我」が、そんなに自明なのか、と問うているわけである。
考えるという行為は、基本的には「計算する」ことと同値である。計算とは、プログラムのことである。プログラムとは、いわば、計算の型のようなもので、インプットに対して、アウトプットを返すようなものを意味していて、カントで言う「カテゴリー」に近いものと考えられる。このように考えたとき、ランボーは「ミーム」について語っている、とも考えられるであろう。ミームにとって、人間は「ヴィークル(乗り物)」であるが、コンピュータも乗り物であるわけである。
コンピュータは考えない、と言ってみても、コンピュータに、ある文字列を「生成」する能力がある限り、そこには「意味」が発生してしまう。
上記の事態をもう一度考えてみよう。人間の「自我」と「私的所有権」は非常に似ている、と言えるのではないか。デカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったとき、それは「自我」の定義として言ったのであって、ということは、この自我が、自分以外のものを「私的所有」をする、ということの「意味」が、ここにおいて成立した、ということになる。
このことは、一見すると自明のことに思われる。私はこのコンピュータを自分のものにしている。しかし、ここにおいて問われているのは、

  • 自分のもの「だから」自分に対して「特別」になければならないといった場合の「自分」ってなんなんだ?

ということになる。私はこのコンピュータを私的所有することで「便利」になりたい。自分がその中の重要書類を簡単に閲覧したい。しかし、そう言っておきながら、この書類を自分以外に渡したくない。結局、ここにおいてコンピュータはダブルバインドにおちいる。コンピュータにとって、なにをすることが、そうなって、なになら、そうならない、ということになるのだろうか? つまり、この二つをどうしても自動的に「決定」できない。よって、だんだんとコンピュータを「私的所有」するという意味がよく分からなくなってくるわけである。
これに対して、ランボーの言っていることは、二つの点でラディカルになっている。そもそも、人間とコンピュータを「区別」していることに無理がある。もちろん、コンピュータと人間は見た目も、その構成要素も違っているが、コンピュータだって「考える」わけである。つまり、計算をするわけである。だとするなら、その点において、コンピュータと人間は「違わない」ということを素直に認めないといけない。もう一つは、<私>の「自我」というものが「ある」と言うことは、

  • あやしい

ということである。デカルトの定義は、「考える」ことと、<私>をまるで「私的所有」のような形で、まさに「属性」という形で一対一で結びつけることによって「自我」を定義している。しかし、ランボーに言わせれば、「考える」のは

  • 私という媒体(=場)において行われている

にすぎず、ランボーが言いたいのは、人間の「考える」という機能だって、一種の「コンピュータ」なんじゃないですかね、と言いたいわけであろう。
ここのところ、沖縄の辺野古基地建設への反対運動が県知事、県の国会議員、地方議員、もちろん、県民のオール沖縄で抵抗している。しかし、なぜこの反対はここまで拡大しているのか。そこには、おそらくウィキリークスによる内部告発が大きく影響しているのではないか、と言われている。
というのは、その内部告発文書から、むしろ日本政府の方からアメリカ軍に辺野古にいてくださいとお願いをしている姿が見えてきたからであろう。しょせん、海軍なのだから、沖縄にいようが、グアムにいようが、どっちにしろかけつけて作業をするのだから、あまり変わらない。というか、むしろ、アメリカ軍は、日本が辺野古に基地をつくっても、

  • いない

わけである。グアムでいいのだから。日本政府が言っていることは「いることにしてくれ」ということにすぎない。そういう意味で、沖縄は「内地が嘘を言っている」という認識が彼らの強い反発の動機となってしまっている。
ウィキリークスは、福田元首相が辞任した原因が、アメリカからの自衛隊派遣の要請に反対したことであったといったことも記事としてあったが、こういったように、どうも世界のコミュニケーションが変わってきているようにも思われる。私たちがコンピュータを自分にとって便利だと思って使う限り、あらゆる情報は、こんな感じで世界中に漏れてしまう。今それに対して、セキュリティ対策と称して行っていることは、それに対する「弥縫策」にすぎず、真に確実に情報漏洩をさせないためには、コンピュータをネットに繋がないとか、コンピュータを使わない、というところまで行かなければ「ありえない」という事態にまで進んでいる。
人々はそういう事態において、ウィキリークスによって「あらゆる内部情報は漏洩する」ということを前提に、行動するようになる。今、日本政府はウィキリークスの情報をまるで「存在しない」かのように、裸の王様を演じているが、国民はどんなに政府が機密情報を隠しても、どっかから情報が漏れて、白日の下にさらされると考えるようになっている。
こういった事態において問われているのは、デカルト以来の「自我」であり「私的所有」だと言えるだろう。「自我」は自分が考えたことは自分の中に秘密にしておける(自分だけに「所有」しておける)と考える。それは自分の「意志」でなんとかなることだから、と。しかし、無意識に行ってしまう場合はどうだろう。というか、そもそも、どんなときは、話してよくて、どんなときは、話してはならない、と自分で分かるのだろうか。どんなルールなら、これを「安全」にすることができるのか。
このように考えるなら、それはミスなどというなまやさしい話ではなく、人は必然的に情報を漏らしてしまう、と言っているのと変わらなくなってくる。そして、この状況は「コンピュータ」も

  • 同じ

なのである...。

フランス的思考―野生の思考者たちの系譜 (中公新書)

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