キャッキャウフフの「サッカー」盆踊り

ハリルジャパンは、W杯予選のマレーシア戦で、終始攻め続けながら、ゼロゼロの引き分けとなった。ハリル監督は、この結果をなにかの「奇跡」のように語っていたが、私たち日本人にむしろこの光景は、

  • いつもの見慣れた

なにかのようにしか思えない。W杯でのギリシア戦では、相手が試合早々えにレッド退場によって、一人少ない状態で引き分け、この前のアジア杯でのUAE戦でも、似たような展開で引き分けPK負けという結果であった。
マレーシアのナインバックで、ゴール前を固めて、前線には一人しか置かないという、まったく点をとろうという気概の感じられない姿勢を、試合の最後まで「一貫」して続けた、私たち日本人にはどこか「卑怯」にさえ思わせかねない彼らの戦略は見事に「はまり」、この結果は、私たちにどこか「ニヒリズム」を感じさせられる。
しかし、そうは言ってもマレーシアは「合理的」であったことは確かなのである。彼らは日本チームを徹底して研究してきた。ナインバックの前は、三人のボランチを置き、日本がサイドを使い攻めてきたら、必ず、二人で日本選手を囲みに来るという、日本の攻めを徹底して

  • 潰す

という意味では、彼らの戦い方は、近年の日本の「負けパターン」から言っても、「合理的に導かれる」なにかであったことは確かなわけである。
日本の選手たちは見る限り、別に「手を抜いていた」わけではない。それは、彼らがどこか「必死」にやっていることが見ているからに伝わってくるところから分かる。彼らは、相手選手の何倍も給料をもらっていて、そして、それに見合うくらいに彼らは走っていた。
しかし、この情けない体たらくを前にして、一言だけハリル監督は「アンビリーバブル」な観察を告白している。つまり、彼は「もしこれがイタリアチームだったら、3点は、PKをもらっていた」と言っていたわけである。
私たちはサッカーとは「どういうものか」を、その「ルール」と「慣習」によって

  • 知っている。

しかし、サッカーとは「それ」ではない。サッカーとはたんに「ルール」が示す「それ」に過ぎない。マレーシアの今回のような戦い方は、たんに「卑怯」であった。しかし、それは日本ローカルの「感覚」について述べているに過ぎないのだ。サッカーはたんにその「ルール」が指し示すなにかにすぎない。そうであるから、こうある、というわけである。
もしも敵がゴール前に固まるなら、本来なら、日本選手はペナルティエリア内で、多くのファールをもらえる「アドバンテージ」があったはずなのだ。こういった戦い方は、そもそも、審判だって気に入らないはずなのである。つまり、こんなゴール前にずっと居たがるようなチームは、なんらかの「ペナルティ」を行い、試合を流動的にしたいと、審判は思っているはずなのである。
ところが日本選手たちは

  • 正々堂々

なので、決して、ペナルティエリア内でのファール狙いの動きをしない。彼らの倫理からすれば「そんなことはやっちゃいけない」から、というわけである。きっと日本選手にとっては、サッカーは90分間、キャッキャウフフの「サッカー盆踊り」でもしているなにかと思っているのであろうorz。
まあ、これが日本選手が「高く」売れない理由であり、彼ら日本選手が世界のサッカー通から

  • なにか別のことを行っている

と嘲笑される理由ということになるのであろう...。