熟議民主主義を否定する「オタク」

私が考えていることは結構、単純で、ようするに、「集合知」の存在を認めろ、ということになるであろう。それは「集合知」の結果が正しいかどうかを聞いているのではなくて、こういったアプローチは事実上、さまざまに公共的に有効なのだから、まずはこの「集合知」という考えの一定の正当性を認めたらどうなんだ、ということになる。
ようするに、なにが言いたいのかというと、いわゆる「オタク」論の延長で行われた「熟議民主主義」否定論に対する、私なりの

  • 反対運動

だと捉えてもらってもいい。
なぜオタク論が熟議民主主義の否定になっているのかというと、熟議民主主義というのは「理解し合う」ことを目的にしている、と解釈されるから、ということになる。それに対して、オタクとは、そういった人間的な繋がり(「理解」)を拒否するところに論点がある。つまり、理解し合った結果として、人間的な「繋がり」ができるわけだから、その人間的な「繋がり」を拒否する「オタク」が、熟議民主主義を否定するのは当然、ということになる。
つまり、オタク論は、結果として「熟議民主主義」の否定を出発点にして始まる、ということである(「熟議民主主義」なしでの、社会システムを考えるのがオタク論だ、と)。
ここで「オタク」と言う場合、それは、なんらかの「オタク」的な偏執。つまり、その「モノ」に対する変質的なまでの「ハイコンテクスト」を含意している。つまりこのハイコンテクスト性が、

  • 他者との理解

を困難にしている。むしろ、たとえそうであったとしても「そのオタクへの承認を可能にする」、なんらかの外部からのルートを、どのように確保するのかが問われている、と考えてもいい。
重要なポイントは、オタクとは「ひきこもり」のことを事実上、言っていると解釈していい。どうやって「ひきこもり」を社会が承認するのか、どういったロジックによって、その「ひきこもり」を社会が承認することを可能にするのか、それが問われている、と考えてもいい。
これに対して、なぜ私がここで「熟議民主主義」の重要性を主張しているのか、ということになる。それは、熟議民主主義が「理解し合える」から、というところにあるわけではない。そうではなく、シャンタル・ムフの言う「闘技型民主主義」が、一種の

  • ゲームとしての「戦い」

を比喩として繰り広げることになることが象徴しているように、その戦いの

  • 真剣さ

が、言わば「公共」的に重要な恵みを、大衆にもたらす、と考えているからなのである。大事なことは結果として「理解し合う」かどうかではない。そんなものは、ある意味、死ぬまで分からないものである。そうではなく、「手段」として徹底した「闘技」が行われるから、人々は

  • 自分が他人に「演技」をすることで見せようとしている

もの以外の「本質」が、そこにあぶりだされてしまう。大事なことは、こういった「ゲーム」を真剣にやるからこそ、相手が予想をしていなかったトラブル、事件、真実、が顕現してしまう。つまり、それが「集合知」なのである。
なにもかもが予定調和の、なんの驚きもない、決まりきった手続きをやっているだけなら、だれも「恥」をかかない。しかし、もしもそんなものを行わなければならないとするなら、そんなものは止めてしまえばいい。だって、意味がないのだから。なぜやらなければならないかといえば、そういった「誰も予想をしていない」ような発見が、いわば「外部」からもたらされるからなのである。
安倍総理の国連での記者会見における、外国人記者の質問が話題を呼んでいる。日本人記者は全員、一言一句変えず、前から取り決めていた「しゃんしゃん」質問だったと言うw

  • 死ね、ゴミクズ

私はここで、あえて「死ね」という強い言葉を使う。なぜなら、もしも以前から内輪で決まった質問しかやらないなら、それに総理大臣が答えることに意味がないから。後から、ペーパーを官僚がマスコミに配ればいい。つまり、そういうことをしている時点で、それは

  • 聞きている人を欺く行為

だということになり(つまり、人前で「演技をしている」だけ、ということになり)、報道倫理に反するからなのである。
こういう

を人前で行う連中と私たちは闘っていかなければならない。
そういう意味で、マスコミにとって、政府の記者会見の場は「戦い」の場であるわけであろう。この戦場で戦わない奴を私は、戦士を偽装して戦おうとしない(政府という「敵」を利する行為)、という意味で「万死に値する」と言っているわけであって、そういった職業倫理とはなんなのか、と問うているわけである。
私が日本共産党嫌いの連中を信用しないのも、そこにあると言っていい。こういった連中のたいていは、ようするに自分を「官僚」の

だと思っている。しかし、よく考えてほしい。もしも、ヒットラーナチス・ドイツのように、一切の法律が国会で審議されることなく、官僚が書いたペーパーを政府だけの「閣議決定」で、そのまま「法律」になっていたら、一体、どういうことになるか?
まず、法律は「書かれた」時点で、その意味が確定するわけではない。
これが分かっていない、法哲学者が、憲法第9条削除論などということを唱えているがw、文章は「それ」だけで意味が確定しない、ということなのである。

  • これがどういう意味なのか

が、野党からの与党への「質問」の中で、「確定していく」のである。大事なことは、その「文言」ではない、ということなのである。なぜ日本の憲法に第9条があるのに、日本に自衛隊があるのか、それが「違憲」だとして、自衛隊が解散させられていないのかは、あくまでも、そういった「野党から与党への国会での質問」の積み重ねの中で、事実上、形成されてきた「秩序」なのであって、

  • 文言通り

ではない、ということなのだ(これに対して、素朴哲学者たちが、その「文字通り」の、リテラルな矛盾をもって、その事実性を嘲笑するのは、ではなぜお前は、この「憲法違反」を解消するために、選挙に立候補して、デモを組織して、国民運動を今まで展開してこなかったのか、と問われていることと変わらないわけであろう。つまり、自らの「出自」をごまかして、リテラルな「論理学」にもちこんでいる時点で、なんらかの欺瞞が隠されている、というわけであろう)。
法律はそれが「書かれた」文言においては、なんの「意味」も発生していない。それが

  • 他者

によって、まな板の上にあげられて、批評にさらされて、「始めて」その意味が意味となる。そういった「事件」を経て、始めて、なにごとかの「外部」性がそこに挿入されることで、始めて、なにかがそこに「ある」ということになる。これが、

  • 熟議民主主義

だと言っているわけである。
私は「恥」をかかない人を絶対に認めない。私はこういった「他者」の批評をくぐりぬけたものでないものにその存在意義を認めることに批判的だ。それはまさに「オタク」の自意識の吐露を、それそのものとして「価値」とする

  • 正義

を認めない、ということになる。もしも「オタク」が自らの存在意義を主張するなら、それは「公共」の場での

  • 議論(=熟議)

を通過することなしにはありえない。
西尾維新物語シリーズは『続終物語』で、最終回となったわけだが、最新刊の『愚物語』は、オフシーズンとして、傍流のエピソードが語られている。物語シリーズの特徴は、阿良々木暦という主人公の「僕」の人間的な「成長」を、その彼をとりまく

  • 不幸な女の子

たちによって「補填」されていく。まさにエヴァと同型の「人類補完計画」であった。主人公の高校生の少年は、なんのとりえもない、ちょっと、人付き合いの「苦手」な、クラスの「ぼっち」であったが。なぜか、その少年を、彼の廻りの

  • 美少女たち

が放っておかない。クラスでもまともに廻りとも話せない「キモい」少年に、「わざわざ」話しかけるという

  • 労働

をしてくれているはずの、彼女たち「美少女」がなんで、嫌がりもせずにそんなことをやっているのかと話を追っていくと

  • 必ず

あらわれるのが、彼女たちが「不幸な生い立ち」をしている、というサイドストーリーなわけである。つまり、この主人公は、彼女たちの不幸な生い立ちに

  • つけこんで

「自分のもの」にしてしまう。つまり、この「トレードオフ」を当然のことだと自らを納得させてしまう。
これが「文系メソッド」である。「俺の元カノの不幸自慢」というわけである。帝国日本軍の兵士が、自らが、中国の農民を、どれだけ残虐に辻斬りをして、その

  • 伝説

を自慢げに競ったのと同様に、文系エリートは、自分の元カノが悲惨な生い立ちであればあるほど、

を競う、というわけであるw 「俺の元カノは、自殺しました。こんな文学的な貴重な体験をしている俺の文系スキル、はんぱねー」というわけであるw
対して、最新刊の『愚物語』の第一話「そだちフィアスコ」は、『終物語 上』において、阿良々木暦の「成長」にとっての邪魔な存在として、作者によって、直江津高校を転校させられた、そしてもう、忍野扇の口を借りることによって、作者によって

  • 幸せを約束されている

その、転校先での、老倉育(おいくらそだち)の物語である。しかし、この短編小説は異様である。まず、阿良々木暦は一切現れない。だったら、ここには何が書かれているのか? まず、「怪異」があらわれない。すべてが老倉の「モノローグ」で書かれている。そして、もっと異常なのが、彼女が母親の死において、行っていた「行為」が思い出される場面が一切ないことである。
この老倉の転校生活に描かれている学校生活は、いわば「どこにでもある」学校の風景である。もっと言えば、そこには不良もいるし、不登校生徒もいる。いじめもあるし、派閥もある。しかし、決定的に違うのは、老倉が自らの「追い立ち」に関係するために、

  • 普通

の側に、たんに自らを置けない、ということなのだ。ここにおいて、彼女は、そういった「いじめられっ子」「不登校生徒」、そういった

  • 側から

どうしても学校の風景を見ずにいられない。つまり、自らの立場がそういった位置に自らを置かずにはいられなくさせているわけなのだ。
この短い小説は、最後において、作者が何をもって、老倉育(おいくらそだち)の「幸せ」と言おうとしていなのかを匂わす場面を描いて終わるわけだが(つまり、彼女の父親の登場)、いずれにしろ、ここで私が言いたかったのは、この短編にはまったく「怪異」があらわれなかった、ただの普通のストーリーだったことの意味なわけである。
つまり、ここにおいて作者は、この物語シリーズにおいて始めて「他者」を描いた、と言えるのではないか?
この老倉育(おいくらそだち)にまつわる短編小説は、言ってしまえば「なにもおもしろくない」。つまり、「オタク」要素がどこにもない。むしろこれは、社会学におけるフィールドワークに近い。なんの特徴もない、平凡な、ある田舎の高校のクラスの

  • 構造

が示されているにすぎない。そういう意味で、おそらく、世間的にはなんの反響もないのであろう。しかし、だからこそ、この短編は重要である。ここには、阿良々木暦という「僕」の視点がない。しかし、恐しいことに、それによって

  • 始めて

私たちは「クラスの構造」を知ることになる。どういった「いじめられっ子」がいるのか。どういった「不登校生徒」がいるのか。どういったクラスの階級秩序になっているのか。つまり、こういったことが、「始めて」

  • 老倉育(おいくらそだち)の視点

によって、示されたわけである(あなたは、あれだけの長い小説を読んで、阿良々木暦の三年時のクラスに「誰」がいたかの言えるだろうか。言えるわけがない、なぜなら、それが説明されている場面はないのだから)。
この短編小説には、次々と「むきだし」の

  • 固有名

があらわれる。つまり、彼女の転校してきたクラスの生徒の名前が、その生徒が「ここにいる<べき>、物語的な必然性があるかどうか」、この物語シリーズに現れる<べき>存在なのかどうかが、まったくもって判然とする

に異様なまでに、その固有名だけが「むきだし」に、突然、あらわれる。これが「他者」なのである...。