丸山眞男「個人析出のさまざまなパターン」

60年代に政治学者の丸山によって書かれたこの論文を、なぜ、今になって再考する必要があるのかといえば、ここにおける分析がまさに、現代における「オタク」論を、ほとんど先取りしているから、と言うしかないであろう。
さて。「オタク」とは何者か?
例えばそれは、東浩紀さんの『動物化されたポストモダン』においては、ある種の「SFオタク」という形でカテゴリー化されていた(そこにおいては、その「SFオタク」の中に、東さん自身が入っているのかどうかは、彼の論考そのものとしては重要な論点とはされていなかった)。
しかし、ここで「SF」というカテゴリーを、この文脈において導入するとき、それは現代社会における「テクノロジー」との観点において考察されてきた傾向がある。このことが何を意味しているかというと、その「テクノロジー」の

  • 主体

が「国家」になっている、というところに特徴がある。つまり、「SF」とは、

  • 国家論

だ、といった解釈が根強く存在している。
近年の思いつく限りで、拾い出してみるならば、伊藤計畫さんの『虐殺器官』は、アメリカのCIAのような組織が舞台であったし、アニメ「サイコパス」は管理社会における、警察組織が舞台であったし、エヴァンゲリオンネルフという軍事機関であったし、パトレイバーも、まあ警察組織であり、攻殻機動隊も「機動隊」という言葉にあるように、未来の警察みたいなものであった(ちなみに、西尾維新物語シリーズの主人公の阿良々木暦の親は、警察官である)。
こういった傾向に対して、あえて無理をして、こういった作品群の中で、それに反するものを挙げようとすれば、アニメ「コードギアス」が、戦前の帝国陸軍の残党のような人たちが、レジスタンスとして、日本を代表している、といった例があるが、このアニメにおいても、主人公のルルーシュはそういった「レジスタンス」としての日本人からは「浮いた」感性の存在として、そういった結社的なものから「疎外」された象徴として描かれていたわけで、そういった意味ではこの「構造」は変わっていない、と解釈できるわけである。
しかし、ここで「SF」と呼んでいるなにかしらが、なにか、ここでの文脈において重要だと言いたいわけではない。そうではなくて、こうやって「SF」という形によって表現されることにおいて、この作品の主体の

において、典型的な近代小説の体裁をとっている、というところに、その特徴があるわけである。
上記の作品群における一つの特徴を言うならば、なんらかの意味における「ハードボイルド」性と言ってもいいであろう。つまり、それは、なんらかのクール・ジャパン、つまり、余裕の態度、冷静さが、そもそも、どこから生まれているのかが、一つの

として描かれる。主人公の「クール」さは、どこか、レイモンド・チャンドラー推理小説を思わせるわけであるが、その一人称の、一人の主人公の人物の視点から、徹底して描かれる

には、一見すると「不安」が表面化しない。しかし、その表面化しないということが、逆説的に、「不安」がどういう形で抑え込まれているのかを示唆するような構造になっている。
近年における「オタク」批判は、その「オタク」と「ネトウヨ」との同一性をめぐって行われることがしばしばである。そして、その場合に、「オタク」側の、その批判に対する「反論」は、例えば、東京都青少年育成条例における、

が、実際の「個人の犯罪行為」に直結しているのかどうか、といった「事実」問題に極限されて行われている印象がある。
つまり、なんらかの「趣味」を、この場合の「ネトウヨ」といったような「政治思想」と、右寄りの「イデオロギー」と同一視することは端的に事実ではないし、そもそも、ここで言っている「趣味」が多様であることから考えても、その指摘は当たらない、というわけである。
しかし、ここで問題にしたいと考えていることは、上記における「オタク」といったカテゴリーが、例えば、エーリッヒ・フロムが分析した「自由からの逃走」における

  • 都市化した個人

の問題と非常に近い存在として理解されうる、といった認識があるのであって、掲題の論文において、丸山がリースマンの分析を敷衍して、「原子化」と呼んでいる存在が、基本的にはこの「ネトウヨ」と「オタク」の同型性を示唆している、という解釈になるわけである。

要約すれば、自立化は遠心的・結社形成的、民主化は結社形成的・求心的、私化は遠心的・非結社形成的、原子化は非結社形成的・求心的、である。これらが、ホール教授が先の章で要約した、近代化とともに進行する合理化・機械化・官僚制化といった諸側面に対する個人の反応の、理念型としてあげられたにすぎないことは、言うまでもないであろう。

右に述べたように、自立化した個人は遠心的・結社形成的であり、自立独立で自立心に富む。英国のヨーマンリから生長した上昇期ブルジョアジーや、合衆国を建国した植民地時代のピューリタンのパースナリティは、このタイプを代表している。このタイプはリースマン教授のいわゆる内面志向型パースナリティにほぼ相当するといえ、従ってこれについて多くの説明は不要であろう。
このタイプと全面的に対立するのが原子化した個人で、求心的・非結社形成的で他者志向的である。このタイプの人間は社会的な根無し草状態の現実もしくはその幻影に悩まされ、行動の規範の喪失(アノミー)に苦しんでおり、生活環境の急激な変化が惹き起こした孤独・不安・恐怖・挫折の感情がその心理を特徴づける。原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義的リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。このような型の個人析出の噴出は、一般的には、ヒトラー直前のドイツが典型的にそうであるように、近代化の高度の段階の現象であるが、例えば多くの発展途上地域の場合のような近代化初期の局面でも、都市化した個人の間にはみとめられる。

ようするに、丸山は何が言いたいのか? 民主化、自立化、私化は、どれも近代社会における「徳」をそれぞれ分有している、と言える。つまり、近代社会は、この三つの「徳」のバランスによって成立している。
他方、丸山の言う「原子化」とは何か?
これが、彼にとっての最大の「敵」である、「ファシズム」の底流だ、ということになる。この「原子化」は、都市化と非常に深く関係している。都市において、個人が

  • 孤立

することと非常に深く関係している。孤立している個人が、「オタク」として「引きこもり」をしている個人が、たんにそのような形態として存在し続けることは、ニーチェ的な意味における「強者」と言うことができるであろう。しかし、彼らがそういった「強がり」を維持できるわけがない。それは、まさに弁証法的に人々をある存在様式に強いて行く。
それは例えば、ライプニッツの言う「モナド」を思い出してもらえばいい。モナドは孤独ではない。というのは、モナドには「隠し窓」があるから。それは、一種の「抜け道」として、

  • 外部

モナドを媒介する。
都会の孤立した個人は、たんにそのように存在しているのではない。つまり、都会の孤立した個人は「強く」ないわけである。彼らのその脆弱な心の統一を担保するものが存在するのか、と問うてはならない。つまり、それがあるかないかが重要なのではない。そうではなく、それを

  • 本人は何だと思って生きているのか

が重要なのである。都会の孤独な個人が「頼れる」ものは、理論的にはない。しかし、彼らはそう考えない。彼らは

  • 論理的になければならない

と考える。つまり、それは、たとえ「不可能」であったとしても、提供されなければならない、と考える。それが

  • 国家によるセキュリティ

である。私が日本人ならば、私には日本人としての「権利」が国家によって提供されなければならない。つまり、「法律」は国家の権力を使って

  • 僕を守らなければならない

と考える。そして、この解釈は「反転」する。もしも、自分が国家によって守られなければならないとするなら、他人はどうなるか。当然、国家によって守られる。つまり、どういうことか?

  • <僕>は国家の命令によって、他人を守る

ということを意味することになる。いや、実際に他人を守るかどうかは、どうでもいいわけである。

  • <僕>は国家の命令に従う

ということである。都会の孤立した個人は、一切の媒介なく国家と関係する。このことを象徴的にモデル化するなら、

  • 僕+国家 vs 他人(近所の集りから始まる、さまざまな結社)

ということになる。なんらかの他者との繋がりは、必然的に、その他者と一緒に所属することになる「結社」の理念と、国家の理念の「対立」を発生させる。都会の孤立した個人は、これを嫌う。彼らは

  • 純粋

なのである。純粋に国家に「心頭」している。一言一句たがえることなく国家の法律に従おうとしている。そして、それを実現させるためには、原理的にどんな国家以外の結社に所属することもできない。
もっと言えば、彼らは「一般意志」に従いたいわけである。
「オタク」は、たしかに「ひきこもり」であり、そういう意味で、「反道徳的」ではあるが、

  • 反国家的

ではない。なぜなら、国家は自らの「身体」であり、自らの「ライフライン」であり、

  • 国家なしでは生きられない

ことを彼らは十分に理解している。彼らが困ったときに助けてくれるのは国家であり、国家以外に考えられない(それ以外の「繋がり」をもっていないのが「オタク」だから)。オタクにとって国家とは一種の「災害」のようなものと考えてもいい。もっと言えば、災害と区別がつかない。3・11の津波で死ぬことになったとしても、それが「国家の意志」で自分が殺されたのか、そうでない、たんなる「災害」なのかが区別がつかない。国家とは「体の一部」と言ってもいい。
丸山にとって、民主化、自立化、私化は、言わば、近代社会の「ポジ」であるのに対して、

  • 原子化

は、「ネガ」だと言えるであろう。もっと言うなら社会における「癌細胞」と言うこともできる。オタクは「反国家的」ではないが

  • 脱社会的

な側面がある。丸山がなぜ「原子化」にこだわるのかと言えば、それが「ファシズム」分析において、非常に重要なポイントだと考えたから、というわけである。つまり、戦前の日本のファナティズムに直結して彼はこの「原子化」を

  • 都会の孤立する個人

と結びつけて考える必要性を考えた。確かに「オタク」は「ネトウヨ」と同値ではない。しかし、この二つが共通した「磁場」に置かれているなにかであるという認識は必要だ、ということなのではないか...。

丸山眞男集〈第9巻〉1961−1968

丸山眞男集〈第9巻〉1961−1968