加藤恵介「いくつかの区別について」

国連のユネスコの記憶遺産に中国が申請した南京大虐殺が採用されたことで、安倍政権は、戦前の松岡洋右を彷彿とさせる、国連脱退騒動でわいている(彼らにしてみれば、国連というより、ユネスコなのだろうが、まあ彼らの剣幕は、それくらいの勢いであることは間違いないわけだ orz)。
しかし、いくら話を聞いても、彼らが何にプンスカしているのかが分からない。目をつり上げて、憤怒の形相で彼らが怒っているのは、誰に、一体、なにに対してなのだろうか?
ようするに、彼らは自分たちの主張する何かが、今回のこのユネスコの決定で

  • 後退

した、と思っており、その「後ろに下がった」という「事実」が気に入らない、と言っているようにしか聞こえない。
安倍首相にとって、「南京大虐殺」と「従軍慰安婦」は

そのものであり、彼はおそらく、世界中から、この二つがなくなるまで戦い続けるのであろう。まず、彼らが最初に目指したのは、教科書から、この二つを無くすことであった。そのため、育鵬社の歴史教科書を日本中の学校に採用させる運動の先頭に立って活動している。
大事なポイントは、安倍首相は、別に自分が「マジョリティ」だと思っていない、ということなのだ。彼は、むしろ「日本中」と戦っている。つまり、自分は「差別されている」と考えている。自分は「弱者」だと思っている。つまり、「抵抗」している。レジスタンスをしていると思っている。日本を「クーデター」「革命」しようと思っている。
つまり、彼は彼など到底、およばないと彼自身が思っている

  • 巨大な<敵>

と戦っている「つもり」になっているわけである。
私たちから見れば、彼は日本の首相であり、権力者であるわけで、独裁者として、どんなことも自由にできる立場だと思っているが、彼自身の意識としては、自分「たち」は、巨大な敵に立ち向かって行かなければならない、と本気で思っているわけである。
さて。彼にとっての「巨大な敵」とは誰か?
まあ、ようするに「サヨク」なんですよねorz そこには、中国共産党も含まれている。日教組サヨクさんですし、彼の絶対譲れない最後の線である、「南京大虐殺」と「従軍慰安婦」を

  • 正義

の名の下に「押し付けて」くるのが、日教組であり、大学教授であり、日本の左翼系マスコミというわけである。
安倍首相は、この

  • 巨大な敵

と戦っているつもりなのだ。彼は本気で、巨大な「抵抗勢力」と戦っている、と思っている。
ここで大事なポイントは、安倍首相の「マイノリティ」感情だというのが分かるのではないか。彼らは、あくまでも自分たちの側は

と思っている。彼らにとって、サヨクは圧倒的なマジョリティなのだ。大学はサヨク教授の巣窟であるし、学生自治会サヨク学生によってぎゅうじられている。マスコミもサヨク知識人で占められ、自分たちは風前の灯だと思っている。
彼らは「そのため」には、多少の強引さが必要だと思っている。造反有理なのだ。
このサヨク帝国に、レジスタンスとして抵抗するためには、「南京大虐殺」と「従軍慰安婦」は、

  • まったくなかった

と主張するくらいが「ちょうどいい」と思っている。彼らは、今にも、中国が日本に戦争してくる、侵略してくると主張するわけで、「それくらい」の強引な主張をしなかったら、一瞬で、自分たちが

に握り潰される、と思っている。大事なポイントは、彼らが

  • 巨大な敵

と戦っているマイノリティだと思っていて、今にも、自分たちは握り潰されそうだと思っている。その彼らの「被害妄想」が、脅迫的な

  • 抵抗=反発

となってあらわれる。
ネトウヨによる、在日朝鮮人への差別には、どこか反ユダヤ主義を思わせるところがある。つまり、この二つの現象には、どこか似ている様相がある。
こういった現象を、エーリッヒ・フロムなら「都市化した個人の<孤独>感情」にその原因を帰結させるのであろう。
ネトウヨとは、都市を浮遊する、

  • 東京人

のことと同値だと言っていい。それはより正確に言うなら、哲学者のハイデッガーがそうであったように、田舎出身者が都会に出てきて感じる「差異」でもあるわけである。彼ら田舎出身者が都会に浮遊することで、そこで、なんの人間的な繋がりも、自らの「出自」に関係する

  • 自明さ

も実感することなく続く「日常」の中で、感じる、なんとはなしに、よくわからず、ふとした時間に自らの内面をよぎる「不安」。これこそが、ネトウヨの「本質」なのだ。

『論理学』講義でハイデガーは「我々とは民族である」と宣言する。しかしその際、「我々」についても、民族についても、一切の客観的規定を、直前性(Vorhandenit)の存在論に属するものとして退けている。「我々の外的および内的同一化」、すなわち「外的」な地理的場所や天文学的時間による規定も、「内的」な生物学的な規定や経歴の規定も、「我々自身を捉え損なう」(/GA38,4-6/66-68)。それらは、「我々」を「何であるか」(Was)という形で、つまり直前存在として対象化するものである。「我々」である現存在は、「何であるか」すなわち直前存在としてではなく、「誰であるか」(Wer)として捉えられねばならない。

現存在が直前存在と見なされてはならないことに関しては、初期フライブルク講義における対象化への批判に端を発している。『存在と時間』においては、「主観」「心」「意識」「精神」「人格」さらには「生」「人間」という伝統的な概念が使用を禁じられている。それらは存在論的に「基体」概念に基づき(SZ,46/65)、伝統的な「理性的動物」というギリシア的定義と、「被造物」というキリスト教的定義の帰結であり(48/68)、いずれも「直前存在」としての存在理解に基づいている(49/70)。人間を「身体、魂、精神」という三層から構成されたものとする図式は、この直前存在の存在論に基づいている。

ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、ハイデガーはこのニーチェの命題に忠実に従った、ということになるのであろう。ニーチェ以降の哲学は、実際は哲学を自称しておきながら、相変わらず、ニーチェ以前のように、伝統的な

  • 神の差配

を自明として語った。それは「神の視点」から描かれる哲学であって、ニーチェが宣言した意味での「人間の哲学」ではなかった。
私たちは簡単に「客観的」だとか「普遍的」だとかいった「視点」を自らの内面にもちこむ。これは、ニーチェ以前の

  • 伝統的

な哲学の作法なのだ。つまり、哲学を知っていればいるほど、この「誤謬」を繰り返すことになる。しかし、よく考えてみると、この認識は恐しい。なぜなら、それをまぬがれて、本当に私たちは「積極的」なことが語れるのかが、まったく不分明だからだ。ハイデガーのラディカリズムは、上記の引用にあるように、自らを「民族」という言葉で、しかも

  • 無定義

で表現「するしかない」ところに追い込まれている。しかし、大事なポイントはこの「民族」がなんなのかを考えてはいけない、というところにあるのだ。
それはどういうことか? ようするに、私たちの「自明」性は、私たちが「田舎」で過ごした、

  • その時

の「自明性」のことなのであって、それはその「経験」とひき離して、なにものかであるのかを考えることは、原理的に無理だ、と言っているわけである。私たちは「それ」をたんに「それ」と受けとることしかできない。なぜなら、「それ」はそれ以外によって説明されて、意味のある「指示」になることを担保できないような一回性においてしか、ありえないのだから。
ようするに、ハイデガーはなんらかの意味での「保守主義」の立場を提唱している。上記の二つ目の引用は、例えばネトウヨが「人権」という言葉や「自由」という言葉に過剰に反発している光景を思わせる。彼らはここで、そういった、なんらかの

  • 普遍的

な特性をもった言葉の「出自」の不純さを受け入れられない。その飛び道具的に、どこからから導入された概念には、「故郷」的な自明さがない。つまり、なんらかの「飛躍」がある時点で、信頼に値しないわけである。
ハイデガーは「不安」の哲学である。この不安は、故郷喪失であり、

  • 都会の孤独

から生まれる何か、として描かれる。しかし、そもそも「そこ」から逃れることなどできるのであろうか? ハイデガーは「問題提起」をした。彼はそれを皮肉混じりに、あげつらわずにいられなかった。しかし、彼は実際にそこから「脱出」する抜け道を提示できたのであろうか? 大事なポイントは彼の「問題提起」が必ずしも、「答」を用意したものでもなかったわけであり、現在においても、その「悩み」に世界中は統計的に覆われている、と言わざるをえない、ということなのであろう...。
[rakuten:book:17623527:detail]