イランの若者

今週のサッカー日本代表の対イラン戦は、試合の内容はともかくとして、印象深く思われた。
それは、試合の内容において、日本が前半、まったく試合にならなかったことに対して言いたいわけではない。というのは、そういった光景ば、別に、W杯でも見れたことであるし、東アジア杯における、韓国や北朝鮮の試合でも見られる光景であった。つまり、日本はあのように「ハイプレッシャー」で、フィジカルで負ける相手に来られると、往々に見られる状況であったわけである。
まさに、ハリル監督の言う「デュエル」において、一対一で前半は「ほとんどすべて」で負けていた。
そういう意味では、日本はずっと同じことを繰り返している、と言ってもいいのかもしれない。
こういった状況に対して、日本はもっと「ワンタッチプレー」を行うべきだとか、イランの前半の姿こそ、日本が目指すべき「守備の姿」だとか、人によって、いろいろ言いたいことはあるのかもしれないが、私が言いたかったことは、そういったことではない。
私にとって興味深かったのは、あの「アザディ・スタジアム」そのものだった、と言えるのかもしれない。
イランの選手は、若い選手が多かった、というのはあるのかもしれない。日本より平均身長が高く、フィジカル的にたくましく見えたのかもしれない。彼らの表情は、どこか「生き生き」していた。地元での試合であり、日本よりFIFAの順位も上で、それなりに余裕もあったのかもしれない。いずれにしろ、彼らの表情には輝きがあった。
それは、日本が今、人口減少社会に突入しようとしている最中であり、若い人の人口の減少が社会の雰囲気に、どんよりとした閉塞感と、若者の「ひ弱さ」を招来している状況において(過保護さ、と言ってもいい)、イランのような中東の若者の

が、彼ら若者の「タフさ」「ハングリーさ」「ギラギラとした出世欲」のようなものが、彼らの「一発当ててやる」といったような、どこか攻撃的な力強さがそこには現れていたのかもしれない。
例えば、「アザディ・スタジアム」は10万人は収容できるという話もあり、しかも、シーア派イスラーム教徒の国民は、そのスタジアムを埋める人々は、宗教的な理由もあって、ほとんど全てが

  • 男たち

という異様な雰囲気をかもしだしている。
私はこのスタンドの光景を眺めて、まったく日本とは違った「別世界」を思わせるわけである。
日本において、サッカー日本代表の試合は、まさに、

である。アイドルやJPOPのコンサートと変わらない。どうせ、試合なんて見ちゃいない。チャラい男女がいちゃいちゃ乳くりあっているのがスタンドであって。試合なんてほっぽりだして、愛の言葉をささやき合っている。
他方どうだ、アザディ・スタジアムは。むっさい男たちが、純粋に「サッカーを見に来ている」。むっさい男たちが、先進国の日本のもやしっ子連中を、ふるぼっこに、ボコるその光景を一喜一憂しながら、真剣に眺めているその「男たち」のギラギラした視線は、私に、かつてない衝撃を与える。
この現代という「ポストモダン」の時代に、なにもかもが真剣に行われることがなくなった、チャラい時代において、彼らイランの男たち、若者たちの、そんな純粋な姿が、私にはどこか、うらやましかったわけである...。