福島第一はチェルノブイリの「何分の1」?

3・11以降、福島第一事故によって、多くの福島県民が「避難」を余儀なくされた。また、福島県産の農産物の検査によって、自由に農産物を全国に売れない、という事態にもなった。
この3・11を境にして、福島第一原発の事故処理の状況は、たんにこの原発が壊れて使えなくなったことを意味するだけでなく、

をこれからどうしていくのかの「廃炉」問題とリンクされて議論されてきた。
原発を動かすべきという論陣をはった人たちの主張の論点は、原発を動かす方が経済的に安いんじゃないのか、というところにあった。つまり、原発を止めることが可能なのは「富裕層セレブ」の、

  • あり余るお金

がなせる話であって、貧乏人には無理な政策だ、と主張した。そして彼らのもう一つの、その主張を補完する論点が

  • 安全厨

と呼ばれるカテゴリーに関係していた。つまり、放射性物質は「物理学」のカテゴリーであり、それが実際のところ人体にどのような影響が与えるのかは、多くのことは分かっていない。分かっていないにもかかわらず、特に医療分野では、かなりの高線量放射線を人体に与えてきたのが、放射線撮影や放射線治療と呼ばれてきた分野であり、むしろ今の医学がそういったもののなしには成立しないものになっていることもあり、それの人体への影響を語ることはデリケートな話として昔から扱われてきた。
(例えば、ある薬が人体に「無害」であるなら、それは「体に影響を与えない」ということを意味するわけで、医療行為とは、そもそもの最初から、なんらかのリスクと隣合わせでなければ成立しえないところがあるのであろう。例えば、心臓移植という手術があるが、あの手術直後に「成功」とか「失敗」という話は聞くが、それから10年、20年後も生きて、なに不自由なく天寿をまっとうした人はどれくらいいるのだろうか。医療行為はどこか「ゲーム」に似ていて、その治療行為が具体的に何を意味しているのかは、そんなに簡単なことではないのであろう。しかし、たとえそうであっても、患者はその治療を受けるかどうかを「決断」するわけである。それが「ゲーム」だと、私は言っているわけである。)
その時、安全厨が言っていたことの中に、「比較」という話があった。低線量被爆で死ぬ人と、自動車事故で死ぬ人の「比較」。タバコの癌で死ぬ人の「比較」。彼らは、この比較は重要だ、と言った。ようするに、低線量被爆は「たいしたことはない」と言いたかったのであろう。
しかし、そういう意味で言うなら、ここには非常に重要な論点があるように思われる。

である。
これについて、なにか「公式」な発表がされたことはあるのであろうか?
はっきり言って、細かい話はどうでもいいわけである。危険厨の言った「ある発言」がデマだったとか、そういったことは科学的に、どうぞ、延々とやっててください。
多くの人たちは、今回の事故が「どれくらいの規模」なのか、にあるわけであろう。そのように考えたとき、これくらいの規模の原発のシビア・アクシデントが起きたのは、チェルノブイリしかない。だったら、チェルノブイリと比較するしかないのではないか。
ITの世界でも、なんらかの発注を受けたら、まず行うのは

  • 概算見積り

である。そして、最後の検収の頃には「正式見積り」が決定して、商品の販売となる。安全厨に言わせれば、今回の福島第一の被害はチェルノブイリより小さいと言いたいわけであろう。だったら、細かいことはいいから、

を発表するべきなのではないか。そうすれば、私たちはチェルノブイリの今の状況から逆算で、これからの福島第一の被害の「大きさ」を見積れる。福島第一はどれくらいの「ボリューム」なのか? あれだけ、「自動車の事故」や「タバコの癌」との

  • 比較

が重要だと言った人たちには、ぜひ「チェルノブイリとの比較」の重要さを理解してもらって、その「概算」の算出の意義を理解して実行してもらえないだろうか? 私が不思議なのは、まずはこの「概算」をベースにして話をするべきだと思うのだが、多くの人があまりこういった「作業」に興味を見出していないことではないだろうか。
当たり前であるが、ある福島第一の被曝を受けた人、福島の農産物を食べて、たとえ少量であれ被曝をした人が、「それ」のよって病気になったのかどうかといった判断は、難しいわけである(この状況は前回の記事で書いた「誰が靖国神社に合祀されるべきか」や「誰の家族が恩給をうけるべきか」に似ていなくもない)。だとするなら、ここで言う

  • 科学的

とは何を言っていることになるのか、というわけである。

  • その病気の「原因」が福島第一と言うことが「正しい」かどうか?

しかし、このような命題において、それが「正しい」と<決定>するための、「科学的プロセス」などどうやって成立できるであろうか? つまり、「科学的」と言うなら、あらゆる命題はこの判定プロセスではじかれざるをえない、ということになり

  • これが科学だ

ということになってしまうであろう。ようするに、安全厨が行っていることはこの一つ一つの事例について「証拠がないじゃないか」「証拠もなしに判断するならそれはデマであろう」と、科学的真実決定プロセスの原則論を一貫して言っているだけなのである。
こういった状況において、多くの場合使われる手法が

である。統計学において、具体的な一人一人の「標本事象」がどうなのかは問題とされない。つまり「その」決定は難しいのだから、そういった難しい決定の神学論争を避けるわけである。
そして、代わりに行われるのが、統計的な傾向性の解釈ということになるであろう。
根本的に間違っているのは、実際にどう「である」のかなど、そこに住んでいる人にはどうでもいい、ということである。そこに住んでいる人にとって重要なのは、実際にどう「なる」のかなのである。どうなっていくのか。
しかし、その場合、それを考えるのに非常によい「サンプル」がチェルノブイリなのであろう。この二つを「比較」することは非常に重要である。それはもはや「科学」の範囲では絶対に収まらない。被曝地域の人口動態の変化からなにから、より社会学的な分析が求められる。むしろ、福島第一の前にチェルノブイリがあったということは、私たちには非常に参考になる「前例」があることを意味する。
どうか頼むから、「自動車事故」や「タバコの癌」との<比較>が重要だと一度でも言ったことのある人は、「チェルノブイリ」との比較を本気で行ってもらえませんでしょうか。そして、それによって示された

  • 何分の1

かの「見積り」によって、始めて、この話は前に進むんだろうと思っているわけです...。