ドローン国家=国民のいない<国家>

たとえば、社会学者のルーマンにしても、国家の近代化と、その「テクノロジー」は離して考えられないものであった。というのは、そもそも、国家というのはある矛盾を抱えているからである。
国家は非常に人口の単位が大きい組織である。人類の歴史を考えても、その規模になった大きさの組織を差配するといった人類社会はついぞ存在しなかった。昔の帝国にしても、それは基本的には

であって、現場で自分たちがやりたいように勝手にやってくれ、というのが基本ルールであった。帝国が行ったのは、基本的な「税金=ヤクザのしゃば代」を払わせるといった原始的なもので、そのお金を払っている限り、何も言わない、というのが「帝国」であった。
ところが、現代社会になって、そういうわけにはいかなくなってきた。ヤクザ社会における「しょば代」というのはなにも変わっていない。ここで変わったのは、いわば「暴力装置」の単位だと言えばいいのかもしれない。それが国家である。
国家は、軍隊と警察をもつことによって、社会の「暴力」を管理する。たしかに前近代社会において、暴力を管理していたのは地元のヤクザ組織だったかもしれない。このアンダーグラウンドを駆逐していったものが、近代国家である。
大事なポイントは、別に、近代になったからって、地元の「村」がなくなったわけではない、ということである。ただ、そこにおける

  • 暴力

は外出しして管理されることが一般的になった。つまり、暴力は「パブリック」なものとして管理されるようになった。そして、ここで言う「パブリック」が国家の扱う範囲と同一視されていくことになる。
国家の特徴は、普通に「共同体」と考えるには、大きすぎる規模だということになる。なぜ国家の規模がこのような大きさにあるのは、大きな理由は、その暴力装置の範囲がその規模を決定した、と考えられるであろう。つまり、軍隊の規模がその大きさを強いるようになった。つまり、テクノロジーの発展によって、この規模が、「戦争」の単位として打倒な大きさを見積らせるようになった。
しかし、ここにある「矛盾」が意識されるようになった。国家はその規模が大きすぎるため、昔の「ヤクザ」のように身近にいる「おっちゃん」のような、

  • 顔の見れる

範囲の組織を超えている。そのため、国家と個人の間には、弁証法的な関係の発展が生まれない。いわば、国家と個人の関係は常に

  • 個人による一方的な「片思い」

になる運命に定められている。個人は国家に向かって、昔の共同体のような「顔の見える」関係を求めながら、その向き合う先は、深い深い闇を凝視している、という「不安」に常に悩まされるようになる。
国家という共同体は、あまりにも多くの人口を相手にして活動をしていく「数える」くらいの人数による「組織」に過ぎない。こんな少人数で、どうやって、これだけの規模の人口を差配していくのか。近代国家は常に、このアポリアに悩まされることになる。
このアポリアに対して、一定の「解決」を考えたのが社会学者のルーマンだと言えるであろう。彼の基本的な差配の方法は

であった。つまり「工学」的な手法こそが唯一の解決策として提示された。つまり、「コンピュータ」である。これはつまりは、国家が「不可能」を可能にする魔術として注目された。問題はなにか。それは、国家が、自らが管理をしなければならない人間の数に比べて、被管理者となる公務員の数が

  • あまりにも少なすぎる

ところにあった。そこで彼は考えた。この瑕疵に対して、「近代工学」をオールタナティブとすればいいのではないか、と。
そのアイデアは基本的には、近代企業(=株式会社)が、社内の基幹システムにどんどんとITインフラを導入していった過程と変わらないであろう。
この問題が難しいのは、ではこれは「成功」したのか、と問うことが、どこかしら無意味な側面があるからである。
どういうことか?
国家はそもそも「存続してもらわなければ困る」組織である。よって、成功だどうが失敗だろうが、なんだろうが、存続を宿命づけられている。企業とは違い倒産して、解散というわけにはいかないのだ。
では、ここで言う国家におけるテクノロジーの導入の「成功」だとか「失敗」とは何を言っていることになるのか?
よく、公共事業で、道路に穴を開けて、埋めるだけの作業を何度も繰り返すということが言われる。こういった話を聞くと、なんて無駄なことをやっているんだ、と思うかもしれない。しかし、国家において「無駄」とはなんだろう? この「倒産しない」組織において、そもそも何を行動原理としているのかは不分明である。上記の道路に穴を開けて埋めるだけの作業にしても、一つだけはっきりしていることは、これによって

  • 労働者に賃金を払える

ということは間違いないわけである。つまり、失業率が改善するわけで、ある国家にとっての「難問」が解決しているとも考えられるわけである。
テクノロジーにしても同様である。国家がある「人工知能」を導入したとする。それが無駄であったのか、そうでないのかは、一体どんな「基準」によって判断するのか? 一つだけはっきりしていることは、この「人工知能」は、人々のそれを導入した人の意図を飛び越えて、勝手に発動し始める、ということである。
国家の目的は、その社会の「善」を実現することである。よって、当然、その「人工知能」は、その国家の目的を実現することを目指すようにプログラムされるであろう。しかし、問題はそれによって実現される秩序が、どうして

  • 私たち

にとってアクセスタブルなものになるのか、ということなのだ。国家が導入した人工知能、この「ドローン」は次々と、国家に反逆する国民を

  • 駆除

を始める。それは「悪」なのだから、正当化される、というわけである。しかし、この延長に見出されるのは

  • 国民のいない<国家>

ではないのか? コンピュータは優秀である。つまり、優秀であるがゆえに、国民を全員殺さないではいられない。なぜなら、人間は本来的に「悪」を内包するから。人間とは

  • 反国家的

な存在であり、そうでないようにはありえない。いや。もっと言えば、

  • 自分以外の国民(=サヨク)を「反国家的」と糾弾せずにはいられない

存在だ、ということである。コンピュータは自ら、その相手の「反国家性」を推論する必要もない。なぜなら、あらゆる人間が、その証明をやらずにはいられないのだから。
私はそういう意味における「人類の滅亡」の日は近づいている、と思っている。それは、人類が人類を滅ぼす日でもあるが、もっと言えば、

  • ドローンが人類を滅ぼす日

と言ってもいい。人間は「邪悪」だから、滅びなければならない。それは人間の「価値観」が人間を滅ぼす。人間は自らの「邪悪さ」に耐えられなくなるのである。
おそらく、この「回路」をもたらすものが「国家」だと考えられる。国家は、一種の

である。国家とは、近代キリスト教社会が考えた

  • 教会

と同値のシステムである。つまり、国家の正当性は

  • 聖と俗の<二元論>

によってもたらされる。この二元論を止められない限り、人間の滅びは近いか遠いかの違いに過ぎない、となるであろう。
なぜ現代においても国家を止められないのか。それは、テクノロジー、近代科学に関係している。この科学の発展を事実上、「コントロール」する組織として国家が存在する限り、国家がなくなることはない。つまり、このリスクが

  • 開かれている

ことと国家の正当性は密接に関係している。人間は自らの「生存」のために国家を利用し始めた時から、国家を媒介として人間が滅びるリスクから逃れられなくなった、と言えるであろう...。