牧野雅彦『精読 アレント『全体主義の起源』』

日本の民主党が、日本共産党との選挙協力に、なかなか踏み込めないのは、もちろん、民主党の中に、より自民党寄りの議員が多くいることが関係しているのであろうが、いずれにしろ、そういった保守系議員が、なんとしてでも、日本共産党とだけは一緒になりたくないというのは、おそらく

  • 錦の御旗

が関係しているのではないか、と思っている。つまり

である。共産党は今回の「国民連合政府」構想を立ち上げるにあたって、確かに天皇制の廃止については、いったんひっこめて、将来、v国民がそれを求める場合に、再度表にだすが、それまでは、基本的には、その主張をしない、と言っている。
しかし、いわゆる日本の保守系の人たちにとっては、天皇制の廃止を考えるだけでも許されない、と考えているのではないか。
つまり、そういった議論に自分が「共感」していると思われた時点で、「錦の御旗」を失うわけである。
このように、日本の言論空間においては、インテリも含めて、自分が

  • 逆賊

の側に置かれる可能性に対して、非常にナイーブになっていることが、さまざまな場面で伺えるわけである。
日本の文脈において、「サヨク」とは、ほとんど

のニュアンスと同一視されている。
日本における、ほとんどヒステリックと言っても過言ではない「サヨク・ファビア」は、自分が間違っても逆賊の側に置かれることのないように振る舞う延長で選ばれる「戦略」的な

  • 立場

であって、彼らは自らの日常の振舞いにおいても、この一線だけは超えないような作法を心掛けている。
しかし、上記にあるように、日本共産党の今回の、安保法案における

をワン・イシューとした暫定政権の呼び掛けにおいて、実質、天皇制についての主張は「ひっこめる」と言っているわけで、この条件であってさえ、どうしても共産党とだけは一緒に戦えない、という「リベラル」政党の政治家は、ここまでくると、

  • 違憲な法律があることなど、自分が共産党の側(=逆賊)と思われるくらいなら、まだ、自民党政権のままの方がまし

と言っているように聞こえるわけで、かなりの重症なんじゃないのか、という印象を受けるわけである。
私は今回の民主党の、なんとも煮えきれない態度を見ているにおいて、かなり民主党という政党は危機的状況に追い込まれているのではないか、という印象を受けている。彼らは、本当に自民党の対抗勢力としての正当性を維持できるのだろうか? というか、彼らがもしも、次の選挙においてさえ、自民党の圧倒的勝利になり、政権交代

  • 責任

を果たせなくなったとき、どこまで彼らがその「責任」を身に染みて感じるのかが、非常に疑わしいわけである。
そもそも、今の政治状況において、民主党自身が自らのアイデンティティにおいて、自民党と分かれる境界線をもっているのだろうか? これは、本当の意味で、大政翼賛会のような状況が生まれているのではないか、といった疑いがぬぐえない。
掲題の本は、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』の精読を試みたものであるが、彼女がこの本でとりくんだものは「全体主義」であった。しかし、ここで彼女が実質的にターゲットとしているのは、ナチス・ドイツヒトラーであり、ソ連スターリンであった。ようするに、この二人の「独裁」についての特徴を考えていくことであった。
この二人の特徴はなんだろうか? 一つは、二人ともに「後継者」をもたなかったことである。つまり、後継者が決定するということは、なんらかの「ルール」が存在するということであり、ある種の「法治主義」になっているわけであって、これは「全体主義に反する」わけである。しかし、後継者がいないとは、どういうことなのか? 実際に、この二人が死んだ後、その

は「引き継がれなかった」と考えるのが正しい。しかし、だとするなら、この二人はなんのために、今まで、ここまでの努力をしたのだろうか?

「廃止しないが無視する」。憲法に対するこうした態度は、全体主義運動がナチ党や共産党の網領に対してとった態度と軌を一にするものであるが、そのことは、全体主義がその本質において運動体であったことを示している。彼らは、運動そのものを規制するような規範を忌避すると同時に、公式の国家とその機構もあくまでも運動のための手段として利用する。そうした態度が典型的に現れるのが、国家機構のいわゆる「二重化(dupliation)」である。

全体主義とは、ハンナ・アーレントにとって、ヒトラースターリンのことであった。この二人の特徴を考えるとき、上記の

  • 二重化

は非常に重要な特徴になっている。つまり、彼らの政治は「二重化」されている。一般的な意味における、法治主義による政治は、それが「ある」ことを、つまり、法律があること、国会があること、そういった法律によって政治が動くことを、まるで「どうでもいい」ことであるかのように、気にしない。つまり、そういうものがあることを、はあそうですか、といった感じで、まるでどうでもいいことであるかのように、眺めておきながら、他方で、そういったものと、まったく関係なく、自分たちのやることをやる。やおうとすることを進める。そして、その進める場合において、上記の一般的な法治主義におけるような、政治システムを、まったく気にしないわけである。
さて。全体主義とは、結局のところ、なんなのか。
ここにおいて、ヒトラースターリンは、ある意味において

  • 敵と戦う

ことが、彼らのモチベーションになっている、とは言えないだろうか。ヒラーとスターリンにおいて、他者とは

  • 自分を殺そうとしてくる人たち

を意味するにすぎない。この二人にとって、他者とは「自分を殺すことを目的にしている人」を意味するにすぎない。なぜなら、この全体主義においては、唯一、「自由」をもっているのは、ヒトラーでありスターリン以外にはいないのだから。だれもが、自由になりたかったら、ヒトラーでありスターリンを殺すしかない。よって、ヒトラーでありスターリンの「目標」は、自分を殺そうとしてくる連中に、

  • 殺されない

ことにしか存在しない。この二人にとって、世界中の人たちは、自分を殺したいと思っている、と思っている。よって、唯一の行動原理はどうやって、自分が殺されないようにするか、にしかない。
あらゆる行動の目的が、それしかないのである。
よく考えてみよう。こういう人間が、どうして「後継者」を考えられるであろうか?

まず最初の段階は「法的人格」の剥奪である。特定のカテゴリーの人間が法的保護から排除される。他方で、強制収容所が正常な処罰システムの外に置かれることによって、収容対象者が通常の司法手続きの外に置かれる(pp. 419-420 / (3)二四六頁)。ここでは犠牲者が恣意的に選抜されることが制度の本質的原理となる。「恣意的なシステムの目的は住民全体の市民的権利の破壊であり、彼らは究極的には自国内で法の外に置かれる。無国籍者や故郷喪失者(homeless)のように。一人の人間の権利の破壊、人間の中の法的人格の殺害、これが人を支配するための前提条件なのである」(p. 422 / (3)二五二頁)。
次に行われるのが「道徳的な人格」の破壊である。犠牲者に対する家族や友人による追悼や追憶は禁じられ、その存在それ自体が忘却・抹消される。かくして犠牲者は匿名化され、収容者の生死自体を知ることが不可能になり、死は個人の一生の終わりという意味さえ奪われる。

全体主義においては「あらゆること」は、

こういった社会だと考えればいい。ヒトラーでありスターリンにとって、自分を殺しに来る人を「なんとしてでも」阻止しなければならない。つまり、これが「なによりも」優先されるのである。
これ以上の優先事項がないわけである。
よく考えてみよう。
これを実現するとはどういうことか? もちろん、敵国の人間を殺すことは当然である。しかし、それにとどまらない。自国の国民であろうが、自分を殺そうとする可能性においては変わらない。だとするなら、国民を全員殺さなければならない、ということに論理的になるわけである。
よく考えてみられたらいい。
国家とは、私たち国民の「アイデンティティ」を管理する組織である。つまり、国家は私たちの全ての個人情報を管理しているだけでなく、国家以外に私たちの個人情報をもつことをコントロールしている組織だ、というふうにも言える。
つまり、国家が「こういう個人は<存在しなかった>」と言えば、実際に、その個人のあらゆる

  • 痕跡

を抹消できるわけである。これが

  • 国家

である。国家が「こんな人間は、存在しなかった」と言えば、実際に存在しなかったことにできる。特に、現代の電子情報社会において、よりその「存在の痕跡の抹消」は容易であろう。というか、そもそも「痕跡」があろうがなかろうが関係ないわけである。それが、上記で検討した「二重化」の意味なのだから。戸籍表に記述がろうがなかろうが、関係ない。戸籍表に記述があることが、その人が存在したことの証明にならない。ヒトラーでありスターリンが「そんな奴はいなかった」と言うことが、むしろ

  • 戸籍にある記録を削除しなければならない

ことを意味し、いや、むしろ、削除の作業さえ不要なのだ。書いてあろうがなかろうが、「そんな奴はいなかった」と言うことが、国民の義務に変わるわけである。
ヒトラーは、確かに、ユダヤ人の抹殺を実行した。ここで彼がまず行ったことは、

  • 個人情報の収集

である。だれがユダヤ人で、だれがそうでないのか。彼はそれを「記録」した。国家が個人情報を収集するとは、こういうことである。もちろん、ヒトラーにとって、その記録が正確かどうかといったことは、どうでもいいわけである。その記録に間違いがあろうが、そうでなかろうが、どうでもいい。とにかく、自分に敵対してくる可能性のある、あらゆる人間をヒトラーは殺したかった。そういう意味では、全世界の人を殺したいのだが、まずは「自分の命令に従う」存在によって、「誰か」を殺させなければならない。つまり、その最も分かりやすい「境界線」が、ユダヤ人だったわけである。
ヒトラーでありスターリンの「統治」の方法は

  • 順番に(自分を殺す可能性のある、という意味で)<すべて>の人間を殺していく

ことであったわけだが、問題はその延長において、ある意味における「人口不足」が発生する可能性にあった、と言えるであろう。

本論で述べたように全体主義成立の最大の条件は大量の人間の集積としての大衆、いかえれば人間の過剰・余剰であった。だがロシアにおいても戦争による巨大な損失と、そして工業化それ自体によって労働者不足が生じてきている。これが全体主義の従来のような展開を制約しているのである。

皮肉なことに、現代においては、全体主義は「はやらなくなった」わけである。それは、単純に

が強いるものであった。全体主義国家は「衰退」しつつある。それは、現在の日本を見ればわかるであろう。全体主義的な特徴をもつ日本は、緩やかな「衰退」に向かっている。いや。もっと言えば、日本は

  • 滅びようとしている

わけであるが、こと、こういった状況になってさえも、富裕層にはナショナリズムへの感度がない。富裕層は「貧困層」の暴力に恐怖し

  • 貧乏人(=日本人)は全員死ねばいいのに

と考えて、なんら恥じるところがない。彼ら富裕層は自分が生き延びるためなら、日本中の貧困層を殺すことに、なんと「ためらい」もない。つまりはこれが

なのであって、こうして日本は滅びていくのである...。

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)