山本正身『伊藤仁斎の思想世界』

人類の歴史をもしも、二つの拮抗した考えの「抗争」と考えるなら、それは

だと思っている。私は基本的にこの二つの考え方が、この人類社会において覇を競ってきたと思っている。
エリート主義は言うまでもない。この社会を「支配」しているのは一部の、高学歴エリートであって、彼らとそれ以外の「一般市民」との間には明確な線が存在するという

  • 二元論

である。だいたい二元論者の主張は、この「境界線」を引く作業を隠微に行うところから始まる。彼らがなんとしても、生涯を賭けて主張したいことは、この「線」の存在である。
早い話が、彼らは、東京の有名進学高校に通い、東大に合格して、なんか

  • 勘違い

しちゃった人たちなのである。人間には二種類いる。数えるくらいの「エリート」と、その他の「一般ピープル」と。彼らが「こだわる」のは、この「線」の証明であって、あとはどうでもいい。そして自分が「エリート」の側にいることさえ主張できれば、あとのことはどうでもいい。
しかし、この場合に勘違いしてはならない視点がある。それは、彼ら「エリート」は、自らが「一般ピープル」のために働くことを、なにも疑っていない、ということなのである。つまり、彼らは「大衆のため」に自分が働くことを疑っていない。つまり、彼らは本気で「良い」ことをやっている、と思っている。もちろん、天下国家の<国益>のために、大衆を見捨てることがあることは当然と思いながらも、基本的には、そういった「例外」を除けば、大衆は「自分が<慈悲>をさずける対象」であることには変わらない。ただし、ここにおける、

が現前として存在することは、自明の前提なのである。
例えば、アニメ「エヴァンゲリオン」を思い出してもらいたい。この世界において、子どもたちは「選ばれる」。地球を使徒から救う存在として。それはまさに、東京の有名進学校に「選ばれる」子どもたちの比喩になっている。しかし、そうやって使徒との戦いの「エリート」として選ばれる子どもたちは、次々と

  • メンヘラ

になっていく。しかし、そのことも「エリート」の、なんらかの条件を意味している。精神分析は、ジャック・ラカンを中心として、現代思想の中心的な位置付けを与えられていた。むしろエヴァの子どもたちが、次々と「メンヘラ」になること自体が、彼ら勘違い「現代思想っ子」たちの「戦場」であり、彼らが必死で勉強していることの

  • 意味

を、「使命」を与えるわけである。
彼らが必死で語ることは、全て、その「構造」が、ようするに、エリートと一般ピープルの間には「線」がある、ということを、あの手、この手を使って、別の表現で繰り返しているだけであって、つまりは全てが

  • 二元論

なのだ。本人は、その意図を隠せているつもり、大衆を「だませている」つもりになっていても、分かる人が見れば、毎回毎回、あきずに同じことを言っているなあ、という印象しかない。
それはもう、おそらくは彼らの「実存」に関わる命題なので、どんなことをしてでも譲れないのであろう。この一線は、なんとしても後ろに下がれない。まさに、碇シンジくんが言うように「逃げちゃだめだ」、というわけである。

仁斎が学問に志した寛永年間とは、元和偃武から一定の時間が経過していたとはいえ、戦国乱世の記憶が人々の意識に依然として刻印されており、それゆえ調和と充実を求める気風が社会全体を濃厚に覆っていた時代であったと言える。仁斎もまた、その朱子学との出会いを通して「治国・平天下の道」を主題とする教説に、平和で安定した時代と社会の思想的な拠り所を求めようとしたものと推察されるのである。

まあ。エリート主義というのは「平和」の時代の思想なんだと思うわけである。応仁の乱において、富裕貴族の屋敷は次々と野盗に襲われ、次々と、貴族が没落していった。この場合、そんな時代状況で

  • エリートだけ特別に扱え

と言っているとしたら、どうかしているであろう。
現代において、あらためて「エリート」主義が主張されるのも、今が「平和」だという、基本前提がある。逆に言えば、彼らはこの「平和」な時代に、どうやって、貧乏人をだまくらかして、エリートが「有利」な社会に、国家に介入して、変えてしまうか、という発想にあると言えるであろう。
例えば、さまざまな凶悪犯罪が、この平和の時代においても起こる。しかし、そういった犯罪は、そもそも、富裕階級は起こさない。なぜなら、彼らは「今」が幸せなのだから。ということは、凶悪犯罪とは、貧困層の中から生まれる、と言える。つまり、凶悪犯罪は、貧困層から富裕層に向けて振るわれる「暴力」なのである。
平和な時代だから、凶悪犯罪は「それ」として、フレームアップされる。幸せな家庭を破壊する、こういった「暴力」は確かに悲劇ではある。そこで、富裕階層は、

  • 暴力の根絶

を目指す。つまり、この日本に産まれた「日本人」の身体(=肉体)は、国家が、

  • 管理

をして、それが破壊されないようにすべきだ、と言うわけである。つまり、どういうことか? 国家は、日本人一人一人の「身体」は、保障すべきだ、というわけである。私たち日本人が、この日本に産まれたなら、大人になり、老衰して死ぬまで、この肉体を維持するのは

  • 国家

の「義務」だと言うわけである。このことは、早い話が、「肉体」による

  • 差別

を許さない、と言っているわけである。例えば、スポーツが苦手な子どもは、なんらかの運動によって、簡単に骨折するかもしれない。ということは、スポーツは「悪」なのである。肉体とは「国家」が管理するものなのだから、スポーツを行ってはならない。
言ってみれば、「宦官」が分かりやすいのではないか。国家が、個人の「肉体」を管理するということは、人々は他者に「肉体」による暴力をふるえないようにする、ということである。貧困層が富裕層へ、肉体的な暴力を行使することを不可能にする、ということである。人々は、「国家」の命令によって「纏足」をはき、「去勢」をさせられる。
その代わりに、国家は個人に対する「肉体」の、

  • 強制(=暴力=奴隷化)

トレードオフとして、あらゆる「言論の自由」を保障する。なにを言ってもいい。どんな思想をもってもいい。しかし、その思想にもとづいた、一切の「暴力」は国家によって、排除される。
何を言ってもいいということは、ようするに、「富裕層」が「貧困層」を、いくらでも差別していい、と言っているのと変わらない。あらゆる「差別」的な暴言は、<物理的暴力ではない>から、いくらでも言っていい。そして、そうやって、富裕層が貧困層をいくら「挑発」しても、貧困層は暴力によって、彼らの暴言を止めさせることができない。
これが一種の

である。平和は、暴力の「排除」によって実現されるが、そうして、平和となった、暴力が管理された社会においては、むしろ「何を言ってもいい」ということになり、富裕層がいくらでも、貧困層を「挑発」していい、ということになる。そもそも富裕層は、貧困層が暴力で反抗してこないのだから、「怖くない」わけである。だから、いくらでも「差別」発言を繰り返す。
しかし、である。
そもそも、なぜ「富裕層」は、「貧困層」を差別していられるのか。言うまでもない。「平和」だからであろう。平和だから、ちょっとした暴力が、クローズアップされる。では、どうして「平和」なのか。言うまでもない。貧困層が比較的に、深刻ではないからであろう。
上記のエリート・ユートピアが「狂っている」のは、もしもこれが、世界の混乱期において考えていた場合を考えれば分かるのではないか。そういった時代においては、むしろ、なにが「課題」であろうか。言うまでもないであろう。

  • 平和

になることである。まずは、戦乱期から平和期へ移行しなければならない。まずは、なにをおいても、平和にならなければならない。しかし、その平和の「主体」は誰か。すべての国民であろう。ここに線を引くことはできない。なぜなら、一部の「エリート」だけが、巨万の冨を独占し、その他の「ほとんど」の貧困層が飢えて、食料の確保もままならない状況こそが、戦乱期なのだから。
ようするに、エリート・ユートピア社会とは

  • 格差固定社会

のことなのだ。資本主義社会は必ず貧富の差を生み出すのだから、格差が生まれるのは「しょうがない」。基本的に「エリート」とは、この貧富の「格差」のことを言っているわけである。
例えば、朱子学にしても、徂徠学にしても、基本的にこれらの学問は

  • エリート主義

なわけである。つまり、これらの学問を学んで、その教養を身につけるのは、一部のエリートにしか求められていない。朱子学も徂徠学も、そういった一部の「やんごとなき」身分の、富裕層が、この社会を支配するために身につける「教養」であって、子どもの頃からトレーニングを積んでいない、一般ピープルなど、まったく眼中にないわけである。

しかし、「天地」を、それを成り立たせている根拠の観点から論じようとする朱子学の思想的態度に対し、仁斎は厳しい批判を投ずる。すなわち、仁斎は、

蓋し天地の間は一元気のみ。或は陰と為り或は陽と為り、両者只管両間に盈虚消長、往来感応し、未だ嘗て止息せず。此れ即ち是れ天道の全体、自然の気機、万化此れ従りして出でて、品彙此れに由って生ず。聖人の天を論ずる所以の者、此に至って極まる。......考亭以謂らく、陰陽は道に非ず。陰陽する所以の者是れ道と、非なり。(字義上・天道一)

と述べ、「天地」では「一元の気」が「陰」の相となったり「陽」の相となったりする往来を繰り返すのみであって、それ以上の道理も来源も存在せず、「天」に関する聖人の所論もまたこの線を超え出るものではないとする。にも拘わらず、朱子(考亭は朱子の別号)は「陰陽」に往来を認めるだけでは満足せず、「陰陽」を往来せしめている根源ないし原理を尋ねようとする謬りを犯してしまった、というのである。

朱子学は、理気二元論といって、この社会の物理的な特性を「理」によって、人間社会の倫理的な価値観と、同じ法則の上に位置付ける。しかし、そのように言ってしまうと、物理的なこの社会の「理不尽さ」を、人間社会の倫理的な価値にも「平行」して伝播してきてしまい、

  • 運命

のように抗いがたい法則のようなものとして、陰陽思想を理解してしまう。ようするに、朱子学における「理」が、物理的な、この社会の秩序を、「倫理」の秩序の中に外挿してしまう。もっと直截に言ってしまえば、富裕層が幸福なのも、貧乏人が不幸なのも、その物理的法則によって「しょうがない」、現実なんだ、というわけである。
これに対して、伊藤仁斎の仁斎学において、理気二元論を認めない。つまり、「理」を認めない。というか、「理」は人間の「不可知」論において、究極的に有限なる人間が究明できるものではない。じゃあ、学問は意味がないかといえば、そうではない。
そうではなく、基本的に「倫理学」で必要十分だ、と言うわけである。
いや、それだけではない。
倫理学で十分だということは、逆に言うなら、

  • だれでも

この道を極めることは可能だ、ということになる。つまり、徹底した「大衆社会論」になっているわけである。
世界の真理は、一部のエリートにしか極められない、という考えを仁斎は徹底して、排除する。そのことは、逆から考えるなら

  • 戦乱期から平和期へ移行するためには、大衆倫理の徹底した普及

が欠かせない、と考えるわけである。
このように考えてみると、ここまでの徹底した「大衆社会」論を主張した思想家って、あとは、カントくらいしか思いつかないんですよね。その他の思想家って、どこかしら、エリート主義者でしょう。すぐに、エリートと大衆の

  • 二元論

で、その間に線を引いて、富裕層が「安心」するエリート主義思想ですからね。

第一に、仁斎は、人には誰にでも「善」に向かう素質(「四端の心」)が備わっていると説きながらも、その働きは微弱であるとし、そして微弱であるからこそその素質を発展・充実さる役割を個々人それぞれに期待した。人が主体的・自律的に「善」に進むには、その素質がなければならない。しかし、その素質が十全なものであれば、人はそれを自力で養う必要がない。そうした問題を、仁斎は「四端の心」の固有とその拡充の必要を説くことで克服しようとしたのである。
このような仁斎の主張の趣旨を理解しようとするとき、やや唐突ながら、筆者想起するのは、次のようなカント(I. Kant, 1724-1804)の所論である。

創造主である神はたとえばこう人間に語りかけるであろう!----「私は善に向かうあらゆる素質をきみにあらかじめ賦与しておいた。この素質を発展させるのはきみの義務であって、それゆえきみ自身の幸および不幸はきみ自身にかかっているのだ。」人間は、その善に向かう素質をまず第一に発展させなければならない。つまり、神の摂理はこの素質をすでに完成した状態で人間の内部に置きいれたわけではない。すなわち、それは[まだ]たんなる素質にすぎないのであって、道徳性の区別を持っていないのである。自己自身を改善すること、自己自身を教化すること、そしてみずからが[道徳的に]悪である場合には自己自身で道徳性を身に付けるようにするということ、これらが人間の行うべき義務なのである。

確かにカントと伊藤仁斎は似ている。仁斎が、自らの学問から物理学を排除して倫理学のみをそのスコープとしたのは、カントであれば、純粋理性批判に対して、それと独立した地位に、実践理性批判を置いたことと比較できるであろう。そしてカントの実践理性批判も、仁斎と同様に、そのように

  • 独立

させたことによって、あらゆる一般ピープルに普遍的に適用される、差別のない「法則」となっている。
こういった特徴を、イスラーム教に見出すこともできるであろう。ようするに、伊藤仁斎もカントも、「聖と俗」の区別をしないわけである。しかし、よく考えてみよう。どうやったら、戦乱期から平和期へ移行できるであろうか。ひとまず、全員を平等に扱うしかないのではないか。農地改革のように、すべての百姓に土地をやるしかないのではないか。つまりは、お金のない家庭の子どもでも大学に行けるように、奨学金を充実するしかないのではないか。
つまりは、徹底した「平等」政策が、結局のところ、人心の安寧に導く。エリート主義はこの逆である。エリートは社会に分断をもたらし、戦乱を火種をもたらす。社会を分断して、差別を醸成する。まさに、人の上に人を作る「偶像崇拝」なわけである...。