ひきこもりヒロイン

アニメ「終物語」は、まあ、原作通りの内容であったわけであるが、私はこの、老倉育(おいくらそだち)という「ひきこもり」を行っていた、いわば

  • ひきこもりヒロイン

という問題について考えてみたいわけである。
(しかし、その場合に、作者が主人公を「成長」させるために、あえて老倉が死体の母親と何年も過ごしたといった「もりすぎ」の「設定」について、なにか考慮しなければならない理由があるとは思えない。私はこの「終物語」は私が今まで読んだ小説のうちでも、最低の部類に入ると思っているが、老倉というヒロインについて考察することには意味がある、と思っているだけである。)
今までのアニメにおいて、こういった「ひきこもり」のヒロインというのはいたのだろうか? しかし、この「ひきこもり」の老倉にはどこか、エヴァの主人公たちに見られる

  • メンヘラ

的な特徴が見られると言えるであろう。「ひきこもり」は、つまりは、長い期間に渡って、学校に行かない、つまり誰とも会わない、社会との接触をあえて断っている、というところに特徴がある。つまり、問題はそれが

  • ヒロイン

であるところにある。孤独なヒロインとは、どういうことか? 原作において、作者は必死になって、老倉がたとえ学校に行ってなくても、自力で勉強をして、学校の授業レベルの学力は維持できていた、ということに、なんとかして読者を納得させようとしていたわけであるが、普通に考えて、それは異様な印象を受ける。
それは、原作の「愚物語」における後日談で、老倉が転校した先の高校で、いわば

  • 普通

に学校に通い始める姿に現われていると言えるのかもしれない。老倉はこの作品において、いわば「モノローグ」によって、すべての作品を語り尽くす。そのモノローグは確かに「異常」ではあるが、いわば、これが「メンヘラ」的世界というものなのであろう。
つまり、これは「ひきこもり」の

  • 延長

として描かれている。つまり、愚物語で描かれた、老倉の転校先での生活は、まだ、一種の「ひきこもり」だったと解釈していい。
なぜ、ひきこもりが「ヒロイン」なのか、という命題は、ある思考停止がある。つまり、ひきこもりがヒロインであってはならない、という。もちろん、だれも会おうとしないヒロインというのは、なにか語義矛盾のような気はするが、そうではなく、私たちはむしろ、だれとも会おうとしないことが

  • 病的

である、という方の、なんらかの「人格的な欠損」といったような、非倫理的な行為への「非難」の色調をもって、その事態を受けとっている、ということを意味しているわけであって、その認識に「不遜」な印象がぬぐえないわけである。
ひきこもりは非倫理的であろうか? もしもそうだと言うのであれば、私たちはこの社会における、ひきこもりの行為を止めさせるプロジェクトを実行させていかなければならない、ということになるであろう。だとするなら、なぜ、今現在において、ある一定の割合において、子どもたちにおいて、登校拒否を続けているのか。彼ら登校拒否をしている子どもたちの

  • わがまま

だとでも言いたいのであろうか。もしもそうだと言うのであれば、そう考えるには、あまりに割合が高くはないのか。

ようやく手に入れた居場所が失われるのは、その一月後だった。
祖父母の家に、兄が遊びに来たのだ。兄はうさぎが銃を習っていると知り、自分も教えてほしいと言った。だが祖父は頑なにその要求を拒否し、まだ早いと言って聞かなかった。
ある日の夕刻。うさぎが外で雪かきをしていると、倉庫の方から物音が聞こえてきた。何事かと倉庫へ足を向けると、そこには兄がいた。
兄は、倉庫から勝手に銃と弾を取り出していたのだ。
うさぎは兄を止めようとしたが、兄は聞かなかった。心得の無い者が銃を扱ってはならない。祖父の教えを守ろうと、うさぎは必死になって兄から銃を奪い返そうとした。
もみ合っているうちに銃が暴発し、弾は兄の顎下から脳天へ突き抜けた。
即死だった。
『----お前が殺した!』
母はうさぎのせいにした。祖父母以外の家族全員が、うさぎを責めた。
うさぎには、それを疑問に思うことすらできなかった。いつも責められてばかりだったせいで、他者からの非難を否定できなかったのだ。
----ごめんなさい。
うさぎは謝り続ける。
----許してください。
祖父母がどんな言葉をかけても、うさぎは自分を責め続けた。
その頃から、うさぎは何をするにしても異常な緊張感を抱くようになった。自分が何かしようとすると、誰かが傷つくのではないか。実際、そう思って焦り始めると、その通りの結果導いてしまうことが多くなった。

例えば、終物語においても、老倉育の問題は、父親によるDVとして描かれている。つまり、老倉が「ひきこもり」になったことには

  • 原因

がある。それを「あまえ」と言うのは、欺瞞なのではないか。
つまり、私が言いたかったのは、「ひきこもりヒロイン」には、ひきこもりになる「理由」があったのであり、それをもって「ヒロイン失格」と言うのは、一種の差別なんじゃないのか、ということなのである。
ひきこもりをすることは「正義」である。彼女は自分を守るために、ひきこもりをする。だとするなら、どうしてそれを責められるだろうか。
私たちは、どうしても抽象的な議論に「意味」を見出しすぎる側面がある。つまり、なにが善でなにが悪なのかを「論理的」に導こうとする。しかし、そのためには、対象の「構造」を理解する必要がある。つまり、相手の言い分を聞く必要がある。相手の言い分を聞くことなく、なにかを言えると思うことの方が、どうかしているわけである(それが、基本的には、古代ギリシアの哲学者のソクラテス弁証法の意味であろう)。こういった

  • 異常さ

は、精神分析医が、直接、患者を診察することなく、テレビの向こうに対して「こいつの頭は狂っている」と、ぷんすか言っているのと変わらないであろう。

「くぅっ!」
うさぎは目を見開いて、下着に手をかけた礼真を睨んだ。
(わたくしには、帰る場所があるんです!)
自分の胸に触れようとする礼真の手へ目がけて、手を伸ばす。
(こんなところで、こんな男に阻まれている暇はないんです!)
さあ、抵抗を始めよう。自分を押さえつけてきた全てに対しての、抵抗を。
さあ、思い知らせよう。自分が、どれだけ強い女の子なのかを。
家族が何だ。礼真が何だ。そんなの振り払って、好き放題に暴れてやる。
これが------西園寺うさぎの反抗期だ!
(兎にだって、牙はあるんですのよ!)
うさぎは礼真の不意を突き、彼の手を握ると、思い切り自分の口をかっぴらいた。
「わああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!」
そして全身全霊を込めて、礼真の腕に噛みついた。
対魔導学園35試験小隊4.愚者達の学園祭 (富士見ファンタジア文庫)

ソクラテス弁証法を、その対話において理解しようとするとき、すでに対話をする

に「真実」が決定していると考えるのが、プラトン主義だと言えるであろう。それに対して、ソクラテスは、このようなアプローチをとろうとしない。あくまでも、対話の

で、つまり、相手の主張の中で、推論が生み出されていく。つまり、相手が「話さなければ」、そもそも、推論は生まれなかったわけである。
そういった意味において、私はなにか、具体的なそれらの現場を離れて、抽象的な「思想」だとか「批評」だとか「哲学」がある、という考えを否定する。あらゆる認識は、その文脈を離れて考えることはできない。そんなものがると思うことが

なのであって、基本的に世間で言われている「思想」だとか「批評」だとか「哲学」とは、こういった意味での形而上学なのであって、つまりは、一種の原理主義なわけであろう。
老倉育という「ひきこもりヒロイン」があらわれたことは、時代の必然だ、ということになる。ひきこもることによってしか、示すことのできない「正義」があるなら、ヒロインはそれを体現する。つまり、本当の意味で、私たちは今、日本中でひきこもっている、「登校拒否」をしている子どもたちを

  • 救わなければならない

のであるが、ようするに、それができていない。そうでありながら、他方において、エリート進学校による「進学差別」が現前として存在していることに「不正義」がある。そして、そういった不正義について「忘却」をすることによって、勝ち上がっていった「エリート」たちが、このような社会の理不尽を「無視」することによって、高みから

  • 説教

をするのが、現代社会というわけである。彼らは自らを批判しない。それはまさに、終物語において、主人公の少年が、老倉育の「全て」を忘れることによって

  • 成長(=ブルジョア階級的な意味での<幸せ>になること)

することと軸を一にするわけである...。