野口晴哉『風邪の効用』

文系の人の話すことを聞いていると、とにかく、自分が「善」に対してナイーブであることをなんとしても否定しようとしているんじゃないのか、と思うことがある。つまり、

  • ワルぶっている

というわけである。少し古い言葉を使うなら「つっぱる」でもいいが、なにか「善」についてナイーブなことを言うと、「かっこわるい」と思っている、ナイーブと他人から思われることを、とても、自分のポリシーとして嫌がっているんじゃないのか、というわけである。
確かに文系というのは、そういったことを勉強する学問と世間で考えられているのだから、そういったことにナイーブな姿を見せてしまうと、世間からなめられる、といった警戒感はあるのかもしれない。
しかし、他方において理系においては、そういった「妙なかっこつけ」が、とにかく

  • うざい

わけである。理系はただでさえ「ファクト」の世界なので、そういったナイーブな感情をいちいち気にしていると、なんにもできなくなる。とにかく知らなければならないことは、数限りないのに、そんなところでナイーブな扱いを求められても、いちいちお前の感情なんて気にしていられない、という感じなのかもしれない。
そういう意味で、理系はデリカシーがないが、その分、どこか若者の感覚に近くなっているところがある。つまり、いちいち他人の自意識を気にしていたら、なにもできなくなる、といった感覚は若者の生きる作法なのであって、そういったものを「冷たい」と言っていても、しょうがないんじゃないのかと考えることは、ある程度は都会の真実なのだろうから。
そういった意味では、カントや伊藤仁斎のように、この世界の成り立ち(=理系的カテゴリー)と

  • 独立

した次元に、倫理的な理論を考えようとする姿勢は、私たち理系の人たちには、共感されやすいのではないだろうか。つまり、倫理的な何かに対してまで、なにか「深い」理論のようなことを考えたくない、というのが理系の正直な感想なのかもしれない。
例えば、今の保守派が、「サヨク」や「キョーサントー」にアレルギー的な拒否反応を示しているのを見ていると、スターリニズムなどの左翼による大量虐殺が問題と言うよりも、マルクス主義が内包しているような

  • 善人

イデオロギーに対する、なんらかの「善」への拒否感を表明しているのであって、そんなに世の中「善」なんて信用ならねーぜ、と、まさに、吉本隆明ばりに「つっぱって」みせている、というのが正直なところなのではないのかと、うがった見方をしてみたくもなる。
ようするにどういうことかというと、文系の人たちというのは、そういった文系的な「カテゴリー」に対する

  • 聖性

を強く意識しているのではないか。なにか「善」とか「悪」というものを

  • 存在

のように強く意識していて、それとの「対決」を自らの生きるテーマにしている。だから、そこから「逃げる」という選択肢がない。いずれにしろ、この善と悪の弁証法に対して、どんなときでも、なんらかの「答え」を用意せずにはいられない、という感じであろうか。
それに対して、理系の人というのは、なんというか、そういった「善」や「悪」の、そもそもの「区別」に対して、

  • 鈍感

なところがある。それは悪い意味でそう言っているのではなく、そもそも彼らが「対決」している舞台が、そういったことと距離を置いた対象であるため(=例えば科学の真実や、その実験)、いちいち、そういったナイーブな分類に気を使っている「暇がない」といった感じだと言えるのかもしれない。
こういった理系の人が、カントや伊藤仁斎に好意を感じるのは、別に、カントや伊藤仁斎の理論の方が、「真実に近い」からとかそういったことではなく、事実の問題として、今の社会がそれなりに秩序や平和を維持してくれていなければ、自分たちの理系的活動さえままならなくなるんだから、そういった見通しを与えるものとして、

  • よりシンプル

に記述される倫理体系は、好感がもてる、というわけである。
もっと言ってしまうなら、理系の人たちは文系における「カテゴリー」が、そもそも考察の対象に値するほどの、

  • 厳密な定義

になっていない、という印象を受けている。だから、こういった概念について、どんなに考えても、曖昧な結論にしか至れない、と考えているわけで、

  • だとするなら

カントや伊藤仁斎の「シンプルな理論体系」は、むしろ「形式的」であり、抽象的であるがゆえに、比較的に「自分たちが考察の対象とできるくらい」には、整理されている、と受けとっている、ということなのではないだろうか。
よくよく考えてみると、善や悪といった言葉は、どうしても相対的にならざるをえない。つまり、どうしても、それを言っている人の「主観」によって、左右される。ある人は、何かを正義だと言っていると思ったら、別の人はそれを不正義だと言うことは、自然に起きる。むしろ、文系の人たちはこういった「事態」に、どこか「鈍感」だと言えるのかもしれない。それはつまりは、
文系は理系と違い

  • 深い

んだ、と言いたいわけで、そういった「ロマンティシズム」がうざがられているわけであろう。問題は実際に深いかどうかにあるわけではなくて、「ようするに、まだ分かっていない」というだけでしょ、という、一種のセンスの問題だということが理解されていないところにあるわけであろう。
こういった理系と文系の対立に対して、それをアウフヘーベンするような地平にあるものはなんだろう、と考えたとき、一種の「医学」が想定されるのかもしれない、と思ったわけである。

健康な体というのは弾力があるのです。伸び縮みに幅があるのです。ところが、その人のいつも使い過ぎている場処、これを偏り疲労部分と言いますが、そういう使い過ぎというのは偏り運動ですから、偏り運動のいつも行われている処は偏り疲労が潜在してくる。自分では感じないけれども、触ると硬くなって、筋肉の伸び縮みの幅が非常に狭くなっている。

それで私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている。ただ風邪を完全に経過しない治してしまうことばかり考えるから、ふだんの体の弱い処そのまま残して、また風邪を引く。風邪を引く原因である偏り疲労、もっと元をいえば体の偏り運動習性というべきものですが、その偏り運動習性を正すことをしないで、いつでも或る処にばかり負担をかけているから、体は風邪を繰り返す必要が出てくる。それでも繰り返せるうちは保証があるが、風邪を引かなくなってしまったら、もうバタッと倒れるのを待つばかりである。癌になる人とか脳溢血になる人とかいうのを丁寧に見ると皆、共通して風邪を引かないという人が多い。長生きしている人を見ると、絶えず風邪を引いたり、寒くなると急に鼻水が出るというような、いわゆる病み抜いたという人である。鼻水が出るというのは空気の中にあるいろいろな悪いものに対する一種の抵抗力の現れですから、鼻水など出るようなら、まあ体中が敏感であると言えるわけです。

結局のところ、私たちは自分の「感情」に関係して生きている。感情として心地よいものを「善」とし、そうでないものを「悪」としている。だとするなら、そもそも自らの「体調」というのは、大きく倫理的な判断に影響している、ということになる。
しかし、ここで言う「体調」とはなんだろう? 上記の本では、例えば上記の引用にあるように、子どもの頃から「水っ鼻」で、はなみずをだしていたような子どもはむしろ、「抵抗力」があることを意味している、となる。
人間は必ず、なんらかの「偏り」を生きている。その偏りが、さまざまな人間の個所における「こり」を結果する。心という言葉が、もともとは、「肩凝り」のような「こり」を起源としているのと同じように、さまざまな偏差が、局所的な筋肉の固さや、血流の不良をもたらし、体調の不調を結果する。風邪は、こういった現象に「対抗」する、人間そのものがもっている「抵抗運動」だと言うわけである。
(それは、国家における、独裁政策に自然発生的にあらわれる、民衆の「抵抗運動」と同じだと考えられるであろう。)
そのように考えると、そもそも「風邪」は

  • 病気

なのだろうか、という疑問がわいてくる。上記の定義で考えるなら、風邪はむしろ、「治療過程」だと考えることもできる。むしろ、風邪を

  • なかったことにしよう

とする、あらゆる対症療法の方が、むしろ「病を悪化させる」行為だと考えることもできるわけである。さまざまな人間が本来もっている、さまざまな「アラート」を、

  • 気をまぎらす

ことによって、敏感に受けとらないようにすること、そういった「鈍感化」が、長期的には、より深刻な病をもたらす、とも考えられる。そういった現象を、上記ではむしろ、癌といった病気が深刻になる過程において、むしろ、風邪のような病気にならなくなる現象を見出そうとする。
この状況を前半の話と繋げようとするとき、どういったことが言えるだろうか。私たちは今、パリにおけるテロについて、その絶望的な状況に心を悩ませている。しかし、ひとまずは、人々の「体」の回復をまず考える、という態度はどうだろうか。つまり、世界中の人々を、まず、「栄養」の面において、

  • 健康

にしてしまうわけである。どんな人も、わけへだてなく。そういった過程において、多くの人たちが「体の体調の回復」の進行に伴って、「心の回復」も、結果するかもしれない、と考えるわけである。
これは、別に、食事などの物質的な「栄養」についてだけ、言っているわけではない。世界中の、多くの貧困地域の人たちが、さまざまに悩んでいる「心の心配事」も、それぞれに「解決」していけば、必然的に、「暴力的な抵抗運動は減少していくのではないか」と考えるわけである。
私たちは「医者」である。その場合、相手を「狂者」と考えることは楽である。それは、上記の例で言うなら、「文系」の「悪」に対応する。自分と価値観を共有しないもの、相手の物理的暴力をすべて「狂気」と言うことは、自らと価値観が重ならないために、自らの「正気」を救っている、とも受けとれる。
しかし、そういった「医者」は二流の医者である。そうやって、患者にレッテルをはることは、自らの「治療」行為によって、診療報酬を獲得して、自らを経済的に救っているに過ぎず、患者が別にそれによって「健康」になるわけではない。
どういうことか? 言うまでもない。患者の健康の「前提」に、患者の食事面を含めた、「栄養学的な最低限の健康」が前提になっている、ということを意味する。つまり、そもそも、そういった最低限をクリアされた時点で、多くの人々は健康になり、その結果、将来への希望も生まれることで

  • 思考内容までもが、健康的になる

ことが想定される。つまりは、善であれ悪であれ、その善悪を成立させる「前提」を考える、ということである...。

風邪の効用 (ちくま文庫)

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