<あなた>の倫理学

ときどき、倫理学というのはなんなのかな、ということを考えることがある。この場合、問われているのは

ではない、ということである。つまり、自分がなんなのかを語ることではない。そうではなく、「あなた」の倫理学について考えたい。つまり、ここでは「問い」が問題にされている。もっと正確に言うなら、

  • 私が、だれか他の人から「問われている」

状況を考えている。その場合の「倫理」とはなんなのだろうか、と問うているわけである。
もしもここが、自分だけの観念論的な世界であるなら、その、どこから現れたのか分からないその問いに対して、ツイッターであれば「ブロック」をすることで、金輪際、その問いと向き合わないことができるであろう。しかし、そうやって向き合わないということを選択した時点で、ここで問われていた「倫理」は、忘れられる。
しかし、そもそも、ここで問題にしていたのは、<あなた>の倫理学である。つまり、相手についての問いであったわけで、その相手を「忘れる」ことの、その倫理が問われていたはずである。
相手を忘れてよかったのだろうか? この問いは奇妙に聞かれるかもしれない。本当に相手の問いかけを無視してよかったのだろうか?

他者と生きようとする人の世界においては、妄想も「物語」もカサなのです。空から降ってくる辛く苦しい土砂降りの雨、他者性の大雨をしのぐためのカサが必要なのです。しかし、ときとして妄想はカサとして役に立たずしかも自分のエネルギーを消費し、自分を破壊してしまうこともあります。しかし、パニックになっているときには、そうするしかありません。
いかなる情念も、その持ち主を苦しめるために存在し始めたのではなく、生きのびるための合理的反応として成立しました。もしそれが生き延びることと反対の効果を発揮しそうになるときには、それを制御する術を覚えなければなりません。ストア派は、無情念ではなく、穏やかな情念(メトリオパテイア)に自分たちの理想を変えたのです。情念を消し去ろうとするのではなく、共生しようとしたのは穏当な判断であったと思います。激しい怒りのとき、突発的にとんでもないことを人はしてしまいがちです。突然石油をまいて放火したり、食卓をひっくり返したり、包丁を投げつけたりなどなど。あのおとなしい人が突然狂ったように暴力性や攻撃性を発揮したり、自傷行為に及んだりします。坂道を走って下ってきて、勢いがついて止まるに止まれない状態が似た状態として例に挙げられます。人間は愚かです。理性が働きません。
しかしながら、どのように激しい怒りも六秒以上続くことはありません。この六秒の間をどうやってやり過ごすのか、それが大事なのです。

この場合、

というのは「優等生」の倫理学と考えることができるであろう。優等生は、徹底して「自分」を演出する。自分を他人にどう見せるのかを、究極まで洗練させる。そこにおいて、優等生は「神経症」となる。その演技において、相手の反応が自分が期待した範囲にならないことに、いらだつ。つまり、「馬鹿」な観客に怒りを覚える。他者が自分のコントロールに従わないのは、たんに他者が馬鹿だから、と考える。
上記の引用は確かに、ストア派の態度において、「情念」そのものが一種の「進化」の過程で獲得された能力であり、そうであるがゆえに、その「制御」も、そういった過程における一つの「適応」の手段として考えられている。しかし、問題はここで、その「情念」が、一種の「狂気」として理解されていることにある。
つまり、他者は一種の「情念」として受け取られている。<私>が他者を理解できないということは、イコール、他者が「情念」において、衝動的に動いていることを意味する。つまり、「狂っている」ということになる。つまり、他者論はイコール「狂気の心理学」の問題に還元される。
パリのテロリストは、「狂った若者」の行為であり、自分たちが彼らを理解できないのは、彼らが「狂気」を生きているからだ、と受けとることは、実に分かりやすい「納得」であろう。むしろ、彼らが

  • なにかを考えている

と思うことは、私たちを「不安」にする。もしかしたら、相手が正しくて、こちらが間違っているのではないのか。こういった疑いが少しでも湧き上がることは、近代人を神経症にする。
もしも、彼らの行動が「情念」の範囲のものであれば、つまり、彼らが「動物」であれば、逆説的ではあるが、私たちは彼らを

  • 理解

できる。そういう意味では、人間の「動物化」といったカテゴリーは、他者を「<私>の倫理学」の中に囲い込むための卑怯な手段だと言うこともできるのではないだろうか。
他方、

というのは「劣等生」の倫理学となる。劣等生はそもそも、頭がよくないとみんなから思われている。よって、わざわざ自分を演じようとしない。なぜなら、そんなことをしても、だれも自分を気にしないからだ。彼ら劣等生は、最初から、自分が取り替え可能な、いてもいなくてもいい、だれもそんなことを気にしない存在であることを十分に分かっている。しかし、そうであるだけに、彼らは

  • 倫理的

に生きる。つまり、具体的に「あなた」がどうであるのか、と対決する。つまり、相手を「対象」として純粋に考えようとする。つまり、他者を「自分の手段としてでなく」考える、ということである。
イスラームについての中田考さんの著作を読ませてもらったり、その他の文献を読んでいたりして、まず気付かされることは、結局、「あらゆることを知っている」のは「唯一神だけ」なのであるから、一般の人間が、なにかを「知っている」と言うことは、不可能だ、という認識が一貫している、というところにあるように思われる。
つまり、その基本には不可知論がある。まずは、これが前提になっている。しかし、その場合、知らないと言うことが、自分が「知っていること」、つまり、自分が感覚することが「ない」と言っているわけではない、ということである。そうではなく、そうやって自分が「知る」ことになることでは、相手の

  • こと

が十全にならない、ということであって、それが前提だ、ということになる(それが十全になるのが、唯一神だけだ、ということである)。
こういった「不可知論」を私たちは維持することが苦手である。それは、上記における

と矛盾するからだ。もしも不可知論が正しいなら、私たち国民は国家による「死刑」を許していいのだろうか? これは、究極のパラドックスである。どういった理由によって、国家による殺人を正当化できるか? 現代における「理屈」は、国家の滅びを回避するため、という自己言及的なトートロジーしかなくなっている。つまり、国家が

  • 聖性

をもっているから、という理由しかなくなっている。パリのテロリストにしても、彼らは結果として射殺されているわけだが、むしろ、そういった最後になることを分かった上で、行為に及んでいる。しかし、そう考えたとき、そうだと考えるには、彼らがもたらした「死者の数」が、合理的な戦略なのか、という視点で疑問になる。つまり、一人でも多く殺すことが目的だとするなら、あまり「効率的」な行為ではない、ということになる。つまり、彼らはなんらかの「メッセージ」を残そうとして、こういった行為を行っているのではないか、といった推論を私たちにさせる(彼らは「カミカゼ」と呼ばれてるそうだが、日本の神風特攻隊にしても、なんらかの「意図」をもった行為であったことは確かなわけであろう)。
しかし、「近代人」は、こういった思考過程を許さない。つまり、テロリストが「合理的」であってはならないのだ。テロは「狂気」でなければならない。なぜなら、そうでなければ、そのテロの「メッセージ」は私たちに「反省」という行為を

  • 強いる

ことになるから。つまり、私たちの「正当性」を疑わせる「危険思想」をもたらすから。

は、必然的に

となる。つまり、

である。私が「正しい」ということは、必然的に、国家が「正しい」ことが前提になる。国家が正しくなければ、自分が正しいなどと言えるわけがない。よって必然的に、テロとの戦いは「ナショナリズム運動」に結果する。国家の「正しさ」を証明するために、テロと戦う。テロに勝つことが、国家の正しさを証明する。

  • 正義は勝つ

のだから、国家はテロに勝つ。ということは、テロに負けるという「表象」は、自分が間違っていた、ということを結果してしまう。これを受け入れられないのが

である。この弁証法においては、最初から他者は「間違っている」ことが前提となる。そうでなければ、国家が正しいことを言えないし、その結果として、自分が正しいことを言えないのだから。
しかし、

においては、この区別はなくなる。それは、最初から「相手」の言い分を聞くことが前提になっているから。私や国家が正しいのか、相手が正しいのかは、「相手の言い分」を聞かなければ分からない。つまり、それ以前に、この命題は決定できない、ということが前提になっている(それが不可知論の意味だから)。聞いた上で、どちらが正しいのかは、その内容によって決定される。つまり、どちら側が正しい、ということになることも、普通にありうる、ということになる。問題は

  • それで誰も困らない

というのが

ということである。なぜ、国家や私が間違っているという表象は、私たちを不安にするのか。それは、「私たち」という共同性が脅かされている、という表象になっているから。しかし、「唯一神の前の私」という表象においては、ここで言う「私たち」も、一人一人の「唯一神の前の私」でしかないわけで、それらにはそれらの弁証法があると考えると、そこには別の「世界観」が、目の前に広がっていることが分かってくる。
言ってみるならば、

は「信用のインフレーション」を禁じている。私たちは、ある「偶像」に過剰な「信用」を与えてはならない。たとえ、それによって、経済学的な意味における「効率」がもたらされ、社会が一見、「成長」しているように見えるとしても、そういった幻想による嵩上げは、早晩、その基盤のもろさを露呈することになる。つまり、便利なショートカットはありえない。王道以外の正道はない、というわけである...。