韓国戦についての考察

昨日の野球で韓国に負けた試合は、2CHでずっとスレッドが立っていて、こういった展開だと、炎上するんだな、というのがよく分かる例であった。エースが試合を作って、ホルホルしていた連中が、最終回にああいった負け方をするというのは、エースを降ろしているんだから、そもそもあの点差でホルホルしていた(そもそも、テレビの解説陣が楽勝ムードで、ヘラヘラ冗談を言っていた)時点で、勘違いしていた、ということなのであろう。
どこのチームも、自分のリーグの一線級をそろえて試合をしているのだから、普段のリーグ戦と同じ戦法が通用すると思う方がどうかしている。尋常じゃない爆発をすることは普通に考えられる。というか、それで勝ち上がってきたわけだから、同じことが相手に起きた、というだけなのであろう。
それでも2CHなんかで怒っている人たちが言っているのは、9回3点差ということは、ほとんど

  • 監督マター

であることを分かっているからであろう。将棋であれば詰めの段階であり、普通に考えれば、「へた」をうたなければ勝てる。つまり、「合理的」でなかった、と言いたいわけだ。
そういう意味で、調子の悪い松井とかいう若いピッチャーを使った監督の采配が、非難されていたが、それを言うなら、今回のチーム構成はどちらかというと若手中心の、なんというか、「プロモーション」的な選手の選抜のような印象を受けなくはない。つまり、本当に勝利至上主義で選手を選抜しているのかは怪しい。
同じようなことは、この前のサッカー日本代表カンボジアとの前半にも言えるのだろう。そもそも一人一人の選手の能力は「有限」で、その組み合わせによっては、相手の戦略と合わなければ、そりゃ、相手が弱かろうが負ける。
こういった場合、二つの側面がある。どう考えても、調子が悪かったり、相性が悪かったりする組み合わせを、監督の側が使ったとして、それを選手は「乗り越える」努力をするかどうかは別とも考えられるからだ。
例えば、サッカー日本代表のW杯の一次予選での試合は、どう考えても、W杯の本戦で戦うことになる強豪国との試合のタクティクスと違うものになる。W杯の本戦は、相手国の方が実力は上が考えられ、より守備的でカウンター中心の戦術が想定される。だとするなら、今、苦労しているようなことは、W杯の本戦ではあまり重要視されない戦術であることが想定されるであろう。そう考えると、今行っている「戦術」、つまり、選手の「活躍度」が、どうしてW杯の本戦と同一になるのか、ということなのである。つまり、むしろカンボジア戦の前半の「戦術」であり、選手起用の方が、W杯の本戦では「通用」するのかもしれない。だとするなら、そういった選手起用は監督としては、長期的には正しいかもしれない。
戦術は、どういった「環境」に適合するかが決定的な意味をもつ。つまり、なんらかの「卓越」は、環境適応的にそうだということを意味するに過ぎず、別の環境では、まったく違った側面をあらわす可能性がある。
例えば、上記の野球の韓国戦にしても、単に負けましたではなく、ああいった試合展開において、本当にその瞬間瞬間で、なんらかのリスク管理が選手の一人一人に考えられなかったのかは、考えられるわけであろう。
なんというか、日本においてなぜ野球がここまでの国民的なスポーツになったのかといった意味を考えると、あの「バット」という棒きれを振り回すスタイルが、日本で言えば

  • サムライ

を想起させられるわけで、そういった意味で、野球の試合で「幼稚」な「行動」を行うことに対して、国民的な琴線を刺激する側面があるのではないか、と仮説を立ててみたりするわけである(韓国においても、なんらかの剣術の伝統のある国ですし、そういった似た側面があるのかもしれない)。
「サムライ」が幼稚な行動をとれば、国家を滅ぼす。このアナロジーが、今回の「韓国に負ける」というアナロジーになる。隣国に「負ける」という表象が、私たちの琴線を刺激することは普通にありうるわけで、それはたんに「負け」かどうかということを意味するのではなく、

  • 幼稚な戦術(=気が緩んだ戦術)

によって、勝利を逃す、その「態度」をこそ、長期的な精神態度として非難している、とも受け取れるわけである...。