三つの倫理

数学なんてものを、少々かじったことがある人には、倫理学における、功利主義とカントの義務論の「対立」のような議論は、ほとんどなにを言っているのか分からないような、衒学的な話に聞こえる。
というのは、どういうことかと言うと、ようするに、それぞれの議論には、それぞれの議論が「適用」される型のようなものがあって、それぞれの場所で、それぞれ機能しているんだから、あとは、それぞれがどこまで「適合」していると見なされうるか、といったレベルの話なのではないか、といった印象しかもたないからだ。
大事なことは、それぞれの「思考方法」の、それぞれの状況に対する、「説明」の適合ぶりが、問われているのであって、

  • どっちが正しいか
  • どっちが正義か

といったことを問うことは、そもそもよく分からないわけである。
なぜ、「どちらか」であり、「どちらでも」ではないのか。というのは、それぞれで、その理論体系が適用される場面が違うのであれば、両方が「部分的」には、両立可能なことは、いくらでも起きうるのではないか、と思うからである。
一般に功利主義とは、公共的な政策決定過程において「適用」されるものであるし、カントの義務論は、憲法や法律の制定過程において「適用」されるものであるし、ようするに、その「理論」がそういった場面では

されていない、ということを言っているにすぎないが、少なくともその「構造」は同じと考えられるわけである。
おそらく、なんらかの意味における「大統一理論」のようなものを考えていて、その理論においては、どちらかは反対側に「含まれる(=特殊な事例となる)」くらいに考えられている、ということなのかもしれない。
つまり、この事情を究極的に単純化して言うなら

となり、計算もルールも、そもそも両方使わない「なにか」があると考える方が無理がある、という例が分かりやすいかもしれない。
数学なんかをやっている人の思考方法においては、それが「何なのか」、という問いは、ほとんど重要ではなく、それが

  • 実際のところ、「何を行っているのか」

という問いの方が重要視される。簡単に言うなら、そこにある「変換規則」ということであって、基本的には構造主義的アプローチのことだと言ってもいい。こういったアプローチにおいては、具体的なその考察の「対象」が、唯一性において、他ならぬなにかとして神秘的意味をもつ、というより

  • どんなに、まったく違った分野で見出される規則でも、その「変換規則」に<同一性>が見出されるなら、その二つは<同じ>と見なせる

といった感覚に、センスをもつ。
まったく違った分野の対象に対して、ある種の「同一性」を考えるということは、数学の基本的な態度だということになるわけだが、この場合、つまりは、数学における「同一性」とは、一般の日常的な用語における、「同じ」とは違った意味で使っている、というところが理解されないと、なにを言っているのか、さっぱり分からない、ということになる。
イスラム教徒が、イスラーム法に従おうとする態度は、どこかカントの義務論に近い印象がある。他方、功利主義というのは、とにかく、この社会を「良く」するためなら、憲法だろうがなんだろうが、どんどん変えればいい、ということを言っているわけで、

と言うこともできるかもしれない。もちろん、憲法には改正ルールが書かれているわけで、ここにフォーカスを合わせて考えるなら、

  • 功利主義改憲ルールとか関係なしで、どんどん「みんな」の良いようにしよう(=革命タイプ)
  • カントの義務論=日本国憲法を考えても、改憲といっても、まったく別のものにすることはできない。その全体による「メッセージ」を逸脱することなく、全体との矛盾を回避する、部分的なマイナーチェンジと考えると、それは本当に憲法改正によって実現されるものなのか(法改正でいいのではないか)を問う必要があることが分かる(=非革命タイプ)

このような観点から、「徳倫理学」を考えると、どういうことが言えるであろうか? 徳倫理学は、功利主義にもカントの義務論にも、どこか、一致しない不思議さがある。

  • 非<功利主義>=その人の評価を、必ずしも「計算」による「加算」によって導くものではない。
  • 非<カントの義務論>=ルールを守ったか、守らなかったかで導かれないことがある。

これは、私たちが一般に「倫理」と呼んでいるものを考えたとき、理解される。倫理は必ずしも道徳ではない。例えば、あなたが、だれかを「友達」と考えるか、考えないかの「判断」をしている場合を考えてみるといい。
あなたは、「ルールを守っている」から、その人を友達だと思うだろうか? あなたは、「みんなが幸せになる手段を考えている」から、その人を友達だと思うだろうか?
むしろ、私たちが相手を友達だと考えるときは、非常に「ハイコンテクスト」な判断をしていることが分かる。相手との今までの、いきがかり上の、細かな「事実」から、私はそう考えてもいい、という判断をしているにすぎず、その推論には、決定的な理由といったものはない。
しかし、逆に言うなら、今この瞬間に、相手に裏切られたことが分かっていたとするなら、そんなときに、わざわざ相手を信じようと、友達であることを強調などしないわけである。こういった意味で、「徳」とは、著しく「ハイコンテクスト」な概念であることが分かる。
この三つを、とりあえず整理してみるとするなら、

  • 功利主義=内部性
  • カントの義務論=外部性
  • 徳倫理=他者性

となるであろうか。功利主義は徹底して、自分の中で「計算」した、パターナリズムだと言えるであろう。よって、徹底した計算において、それなりの見識ではあるが、徹底して内面に閉じているので、他者からの批判を避けられない。他方、カントの義務論は、そういった外在的な「ルール」を重視するという意味において、そういったパターナリズムは避けられているが、逆に、その「意味」が、最終的には決定できないという意味において、どうしても「形式的(=数学的)」にならざるをえない。
それに対して、徳倫理は、これら二つの「欠点」を回避できているという意味で、非常に魅力的ではあるが、結局のところ、徳倫理とはなんなのかを誰も説明できないという意味において、前者二つを代替するようなものではないのだろう、といったところに落ち着くであろうか...。