伊勢崎賢治『新国防論』

プラトンは哲学とは「想起」のことだ、と言った。つまり「イデア」である。ということはどういうことか。私たちは「なんでも知っている」ということである。私たちが語るということは

  • 思い出す

ということであって、つまりは「悟り」のことだ、ということである。これは、ある意味において、なかなか含蓄のある態度である。なぜか? そもそも、私たちは知らないことを語ることができないからだ。つまり、語っているということ自体が、なんらかの「知」であり、「想起」を意味している。
これを、ここでは「悟りの弁証法」と呼んでおこう。私たちが何かを話しているとき、それは、その「行為」自身において、「この世のなにもかもを知っている」ということを証明していると考えることができる。なぜなら、実際に私は話せているのだから。
この理屈がおかしいと思った人は、むしろ「政治」のセンスがある。あまり、詐欺師(=哲学者)には向いてないかもしれないがw

昔は「自衛隊違憲だから廃止すべき」が護憲派、「自衛隊違憲のままじゃなく軍に」が「改憲派」。非常にわかりやすかったのです。

プラトンの哲学者の定義から考えるなら、哲学、つまり、プラトニズムとは「想起する人」の意味になる。つまり、真の答えを

  • 思い出す

ということである。ということは、どういうことなのだろうか? どんな答えも、哲学者は「思い出せ」なければならない。哲学者はそれを知っていなければならない。つまり、知っているなにかの中に、答えがなければならない。
これは、どういうことであろうか? 真実とは、言わば、「大人」の悟りなのである。
上記の引用は、言わば、戦後の

  • 日本思想史

を意味している。戦後の日本の言論空間において、現在に至るまで、こういった

が続いてきた。哲学者の言う「答え」とは、この「対立」のアウフヘーベンのことだと言えるであろう。プラトニストは、これに対して、「答え」は、「ここ」にある、と考える。なぜなら、この「対立」を解決するのが、「哲学者」の使命だからだ。
それでは、上記の引用の対立を「論理的」に解決するとは、どういうことであろうか? まず、「自衛隊違憲」という主張は、おもしろいことに、護憲派改憲派の両方が「賛成」となる。それに対して、それでも自衛隊

  • 存在し続ける

というならば、答えは、憲法改正しかない、ということになる。もしも自衛隊が日本から廃止をするならば、日本の国防はアメリカ軍の駐留に頼るということになり、戦後の流れから考えて、その方向を選ぶことは難しい。だとするなら、自衛隊を軍隊にするしかない。つまり、「憲法改正しかない」ということになる。
このことは、さらに議論を進めると、どういうことになるか。

である。サヨクの言っていることは間違っている。つまり、今、こうして自衛隊が存在することと整合性がとれていない。サヨクの言っていることは、今こうして自衛隊が存在していることと両立していないのだから、サヨク言論は「有害」だということになる。
哲学とは「思い出す」ことと同値である。ということはどういうことか? 上記の引用が示しているように、その「答え」は、この文章の中になければならないことになる。つまり、論理的に答えは導かれる。
これが「中庸」という意味である。真ん中にあるという意味は、そういう意味で真ん中ではない。その主張において、「現実(=リアリティ)法則」を適用すると必然的に、論理的に導かれる答えのことを言っている。これは、一種のヘーゲル主義と言ってもいい。
この態度の特徴は、「ウヨク」と「サヨク」の主張の「真ん中」を探す、という態度にある。それは別の言い方をするなら、お互いの主張の「合意点」を探すことだと言ってもいい。
なぜ、上記の推論は間違っているのか?
それは、そもそも、自衛隊を作った人は「違憲だと思って作っていない」からなのだ。つまり、不思議なことに、ここに「第三」の主張があらわれるわけである。自衛隊違憲でないとはどういうことか? それは、自衛隊違憲だと言っている人の主張が既に、その理由を示している。
なぜ、自衛隊違憲だと言う人は、そうだと言うのか。

長谷部 憲法解釈が変わったことがあるというお話ですが、たしかにあります。ただ私の知る限り、真っ黒だというものを白に変えたという例は、ないと思います。靖国神社公式参拝についての解釈の変更の例(注4)がよく挙げられますが、あれは、できるのかできないのかよくわからないという問題について、ここまでならできるという形で憲法の解釈を変えたということです。今回の例と類比可能なものでは、ないだろうと考えています。
礒崎 憲法制定議会では、吉田茂総理は、自衛権は当然有するのだが、戦力を持たないので、行使できないと答弁していたのです。ところが昭和29年に自衛隊が発足する。こういうこともあったのでして、憲法制定当時からは大分話が変わってきています。
長谷部 その点も、戦争はできない、戦力は持てないというのは、今の政府でも立場は変わっていないはずだと考えています。
礒崎 それは変わっていないです。
切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) - 礒崎陽輔 柳澤協二 長谷部恭男 小村田義之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

自衛隊違憲だと言う人の主張は、自衛隊が軍隊だ、というところにある。つまり、「どう見ても軍隊だろ」ということである。どう見ても、陸海空軍をもち、世界にかんたる軍事費が計上された装備をもち、と。そして、その事実と、憲法の条文の「陸海空軍のそれをもたない」と、矛盾する、と。
(上記の引用で長谷部教授が言っているのは、つまりは、吉田茂元総理による「自衛権」の否定から、現在の政府見解の個別的自衛権の容認の「解釈改憲」は、しかし、憲法が「主張」している本質的な内容が変わったわけではない、というところにあって、それを「白と黒」の例えで、示しているわけであろう。)
ところが、掲題の本を読んでいると、むしろ、「自衛隊は軍隊じゃない」から、困っている。PKOやアメリカの同盟軍として、海外派兵している自衛隊は、そもそも、上記の引用の長谷部教授の指摘にあるように、「戦争はできない」「戦力は持てない」とあるように、

  • 交戦権をもたない
  • 軍法をもたない

といった特徴をもった存在として、むしろ自衛隊の「非軍隊」性(=警察的特徴)が、そういった「海外活動」のムリゲー性に対して、あまりにもそこには無理があるんじゃないのか、といった主張になっている。
ウヨクとサヨクが主張した、「自衛隊違憲」という昔からの論理は、「だから、自衛隊は軍隊である(=同値である)」を必ずしも意味していない。そうではなく、自衛隊は「半人前の軍隊」を主張しているに過ぎなかった。ところが、この矛盾をアウフヘーベンする「哲学者」は、この区別に意味があると思わない。なぜなら、自衛隊を見れば「一目瞭然」で「軍隊」であることは、「哲学者」には自明だからだ(=哲学者の「想起」において)。
ここには、どんな議論の行き違いがあるのだろうか? 
例えば、今の日本国憲法は「分かりやすい」だろうか? この質問は一見すると、意味不明のように思われる。というのは、憲法を「一般意志」と考えるなら、今の、私たちが、この憲法

  • なにを主張しているのか?

の解釈によって、一般の法律が整合性を与えられている、と考えるなら、「分かりやすくない憲法などありえない」ということになるからだ。
しかし、私のような人間から見ると、どう考えても、今の日本国憲法は、それなりの世界史のトレーニングを受けていない人には、なかなか理解しづらいんじゃないのか、という印象を受ける。

第一次世界大戦は協商国側の勝利に終わります実際に国際連盟が設立されて会議が開かれると、「ドイツに報復したい」という英仏、ロシア革命の成功により世界共産化を恐れるアメリカの思惑などが入り乱れて、「大日本帝国」も戦勝国として常任理事国に着いていたこの会議は大混乱します。結果、1928(昭和3)年8月27日に日本含め列強諸国15が著名したパリ不戦条約は、次のようなものになりました。

締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄する。
相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質または原因がどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する。

ウィルソンの提唱した14ヶ条と大きく違うのは、「国際紛争解決のため」という断り書きがあることでしょう。つまり、「国際紛争解決のため」には戦争をしないけれど、「他国から自国を守る」ような自衛戦争ならOK、とも読めるような条項になりました。
その一方、「どのようなものであっても」平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する、とあります。
日本の憲法9条は、このパリ不戦条約がもとになっています。戦争は否定しているけれども、自衛の権利は有するという考え方の根拠がここにあります、自衛の解釈がさまざまであり、しおうと思えば戦争の口実にできるという矛盾は、この国際連盟から引きずることになりました。

憲法9条削除論を主張している人というのは、実際には何を主張していることになるのだろうか? 憲法9条は明らかに、パリ不戦条約を意識して作られている。つまり、9条削除論とは「パリ不戦条約からの<後退>」を主張している、と世界中から解釈されるであろう。つまり、歴史の後退であり、野蛮化だと。ところが、9条削除論を主張している人は、どうも自分が何を主張しているのかを分かっていないようである。まあ、それが「シロート」ということなのであろうw)
今の日本国憲法を全体として見たとき、ここで示されている国際秩序概念は、徹底して、「集団的安全保障」という、第一次世界大戦以降の、国際連盟から続く、「戦争への反省」の理念が、強く投影されている。つまり、今の憲法は徹底して、

  • 二国間同盟の否定

の理念によって覆われている。つまり、「同盟」こそ諸悪の根源、といった理念が強く投影されている(つまり、少なくとも日本側の建前上は、日米「同盟」は、同盟ではなく、二国間集団的安全保障」と主張されているわけであり、常にこれを「同盟」と呼んでいるのは、アーミテージなどのアメリカの側だ、というわけである)。
つまり、どういうことか?
私たちは、少し、立ち止まって考える必要があるのではないだろうか?
問題は今の日本国憲法が、「子どもが読んでも分かる」ものだと思われているところにあるのではないだろうか。つまり、これを「一般意志」だと思うから、多くの混乱が生まれる。明らかに、この憲法は、当時の「知識人」が

  • 戦争の反省

をもとにして作ったものである。つまり、彼らは「すごく」勉強している。当時の国際法をよく勉強して、その知識を前提にして作っている。問題は、この「矛盾」をアウフヘーベンしようとする

  • 哲学者

が、「子どもが読んでも分かる」ものである、ということを前提にして、今の憲法をバカにして、「改憲」を主張しているところにあるのではないだろうか。
なぜ日本の「改憲論」はバカにされるのか。それは彼ら改憲論者が、日本の憲法学をバカにして、その議論を本当の意味で、アウフヘーベンしていないから、だと言うしかないであろう。ようするに、彼らは自らを「シロートの憲法作り遊び」だという場所で、ひらき直っておきながら(=今の憲法学の到達点をバカにしておきながら)、改憲という名の

  • 壊憲(=革命)

を主張していることを自ら理解していないところにある。日本国憲法2.0は、今の日本国憲法のもつ「理念」をアウフヘーベンしたものでない限り、その理念が、国民に受け入れられることはない。つまり、いい加減、

  • 幼稚な連中

の「遊び道具」から、憲法を国民の手に取り戻さなければならない。真の意味において、今の憲法の理念を「実現」する憲法改正以外の改正(=憲法の破壊)を絶対に許さない、ということである...。

新国防論 9条もアメリカも日本を守れない

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