柄谷行人「Dの研究 第4回」

柄谷さんの近年の、「世界史の構造」(=交換様式)の分析は、以下のような、「二元論 * 2」の構造となっている。

  • 第1象限 ... 交換様式A:互酬
  • 第2象限 ... 交換様式B:略取と再分配
  • 第3象限 ... 交換様式C:商品交換
  • 第4象限 ... 交換様式D

しかし、これらが、二次元空間上の配置されていることから分かるように、

  • X軸 ... 平等
  • Y軸 ... 自由

といった「二元論」の「たすきがけ」によって、記述されていることが分かるであろう。しかし、こういった構造は、以前、このブログでも紹介したが、そもそも、丸山眞男の近代個人についての考察において使われていたスキームであることが分かるし(丸山眞男「個人析出のさまざまなパターン」)、実際、それについて、柄谷さん自身が言及すらしている(柄谷行人丸山眞男とアソシエーショニズム」)。
ちなみに、そこにおける丸山の対応は以下となる。

  • 第1象限 ... 自立化
  • 第2象限 ... 民主化
  • 第3象限 ... 私化
  • 第4象限 ... 原子化

しかし、これらが、二次元空間上の配置されていることから分かるように、

  • X軸 ... 結社形成的
  • Y軸 ... 求心的(他者依存的)

となっている(丸山は上記の分類を、ホール教授の近代化とともに進行する合理化・機械化・官僚制化といった諸側面に対応する個人の反応の理念型として指摘している)。この対応関係を見比べると、ある特徴に気付く。それは、

  • 柄谷スキーム ... 第1 ~ 3象限は現実(=悪)であるが、第4象限は理想(=善)である。
  • 山スキーム ... 第1 ~ 3象限は理想(=善)であるが、第4象限は現実(=悪)である。

という対応関係の「反転」であろう。また、

  • 柄谷スキーム ... 自由や平等という「方向」による分類
  • 山スキーム ... 結社形成的や他者依存的という「状態」による分類

と切り分けることもできる。いずれにしろ、この二つのスキームの特徴は、「二元論」を「たすきがけ」のようにして、かけあわせることによって、言わば、「弁証法」的に、二元論をアウフヘーベンしようとする取り組みだと言えるわけで、これも一種の「脱構築」と考えることもできる。
丸山のスキームは、

  • 理想(自立化・民主化・私化)から「現実」(原子化)の抽出

という形態になっているわけだが、柄谷の発想はここから得た、と考えられるであろう。つまり、理想から「現実」が抽出されるということは、逆もまた真なり。柄谷のスキームは

  • 現実(互酬・略取と再分配・商品交換)から「理想」(D)の抽出

という形になっている。ある二つの理念を「たすきがけ」にする場合、第1 ~ 3象限は、言わば、この「たすきがけ」における

  • ポジティブ

な側面であると言える。つまり、この三つは、「私たちが分析したい」何かなのである。それに対して、第4象限は、「私たちの<無意識>」と言ってもいい。これは、そもそも、私たちが考えていなかったものだと言っていい。それが、上記のように、構造として提示することによって、嫌々ながらも、前景化せざるをえなくなっている。
問題は「第4象限」である。
これは、柄谷スキームにおいては、第1 ~ 3象限の「現実」と対立した「理想」と分析されるが、それは本来の意味からは正しくない。というのは、第4象限も、ある意味においては「現実」だからだ(このことは逆から言えば、丸山スキームにおける「原子化」も、ある意味においては「理想」だ、ということになる)。なぜ、第4象限が「理想」ではなく、「現実」の一種だと言えるのか? それは、ここにおける「二元論 * 2」とは別の「次元(=現実法則)」が、さらに

  • たすきがけ

を行ってくるからであって、つまり、この現実法則(=特殊法則)は、その二つの「二元論」とが出自を別にした何かだから、と言うしかないであろう。

たとえば、呪術は、神に贈与して、そのお返しを強いること、つまり、ウェーバーがいう「神強制」である。ウェーバーは、世界宗教----ユダヤ教キリスト教など----の特質を、呪術的宗教を否定するところに見出した。しかし、彼も、世界宗教が今日においても、神強制、すなわち呪術性をもつことを指摘している。たとえば、人が神に、個人ないし民族や国家のために祈願するとしたら、それは本質的に神強制=呪術である。したがって、世界宗教は必ずしも普遍宗教的ではない。後述するように、私はそれを世界宗教から区別する。
普遍宗教は互酬性=呪術を否定するものとしてあらわれた。その意味で、宗教批判としてあらわれたのである。普遍宗教の特性は、宗教における互酬原理Aを斥けることになる。たとえば、一神教であることは、普遍宗教であることを意味しない。古代イスラエル王国では王=祭司らは一神教を奉じていたが、彼らは部族の首長=祭司と大差がなかった。そこでは、人間の願望に答えなかった神、特に敗戦をもたらした神は廃棄される。宗教が互酬原理にもとづく以上、それは避けられない。古代イスラエルでも同様である。たとえば、北のイスラエル王国が勃興したアッシリア王国によって滅ぼされたとき、人々は神を棄てたといってよい。それは、西アジアで世界帝国が形成される過程で征服された地域で起こった、むしろありふれた出来事なのである。
ところが、異例の出来事が生じた。人と神との関係に神強制あるいは互酬性がない形態が出現したのである。それは、南のユダ王国が前五九七年新バビロニア帝国ネブカドネザル二世)によって滅ぼされたあとに起こった。詳しくいうと、それは、前五八六年にエルサレム全体が破壊され、支配者層がバビロニアに連行されたとき、すなわち、バビロン捕囚において起こったのである。このとき、神は棄てられなかった。国家滅亡の責任は、神ではなく、預言者を通してなされた神の警告に従わなかった人間の側に帰されたのである。
これは互酬性(A)の否定である。っでは、それはいかにして生じたか。それを、このことが生じた状況、すなわちバニロン捕囚という事件から見てみよう。捕囚は奴隷ではない。しかし、いわば根こそぎにされた(uprooted)人々である。たとえば、人々はバビロンで、もっぱら商業に従事したので、それまでの農耕儀礼に根ざす宗教から離れた。また、従来の祭司は、国家の支えをなくしたたに権力を失った。人々はそれまで属していた部族的な身分から離れたため、個人として対等な立場から新たなアソシエーションを形成した。そして、このような人と人との「契約」が、神と人の契約として表象されたのである。シナゴーグは、それまでの祭儀とはちがって、対等な個人らの討議の場となった。かくして、交換様式Cを経由することによってのみ、普遍宗教、あるいは、AとBを超えるDが開示されたのである。

つまり、どういうことか?
第4象限は、普段は隠れている。というか、ほとんど気付かれない。それは、第1 ~ 3象限が、統計力学的な意味における「安定系」であるのに対して、第4象限が

  • 遷移系

だから、と言うこともできるのかもしれない。ある、幾つかの条件がそろったときに、その第4象限は、姿をあらわす。そういう意味においては、間違いなく、それは「現実法則」であり、その瞬間においては、だれもがそれを現実的な力と感じながら、その条件が去ったときには、すでに、そのリアリティはなくなってしまっている。
逆に言うなら、そこにある「法則」を、人々が意識されるような「条件」さえ整えば、それがむしろ「現実」法則として、人々の行動をコントロールする形にもなりうる、と言えるであろう。つまり、そうなったときが、一種の「革命」だと考えることもできる。
つまり、第4象限は私たちの「常識」の盲点である。言わば、常識が強いる「非現実」性である。この常識を「脱構築」することによって、「非現実」性は、現実的な何かとして、私たちの前に反転してあらわれる、というわけである...。

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