西尾維新『悲亡伝』

トルコがロシアの飛行機を打ち落として、今、世界は第三次世界大戦に突入しようかの大騒ぎであるが、そもそも、なんらかの「武器」を形態して、目の前に現れた時点で、相手への信頼がない限り、なんらかのそういった武力衝突が起きないことを保障することは不可能なのではないだろうか。
というのは、相手が武器をもっているからである。つまり、生きようとする人である限り、相手がこちらをその武器によって殺そうとすることの可能性が大きいと考える限り、

  • 撃たれる前に撃つ

という攻撃は最大の防御という方式を採用しない、と考えることは難しいからだ。
もちろん、こんなことを言っては、まるで「戦争はしょうがない」と言っているように聞こえるかもしれないが、つまりは、軍人というのは、それだけの「恐怖」の中で活動している、ということなのであろう。こういった攻撃を行った軍人は、なんらかの「軍法違反」によって裁かれることになるのであろう。つまり、各軍隊はこういった「軍法」による、内規の粛正を行っていくことでしか、戦争の「拡大」を防ぐ方法がない。
武器をもつということはそういうことであって、このことは一つのパラドックスだと言ってもいい。なぜ、豊臣秀吉以降、徳川幕府の「平和」が続いたいのかを一言で言うなら

  • 刀狩り

を行ったから、の一言に尽きるわけであろう。刀狩りを行うということの意味は、国民を

  • 武器をもつ人
  • 武器をもたない人

の二種類に分ける、という意味である。つまり、人々を「差別」する、ということを意味している。武器をもっているということは一種の

  • 貴族階級

であることを意味する。武士階級は、いわば、いくらでも民衆を殺すことができた。辻斬りを言って、もちろん、あまりにもひどい武士は、その評判によってパージされたわけであるが、まあ、つまりは陰では行っていた、ということであろう。
今でも国家がなんだかんだ言って、巨大な権力をもっているのは、警察であり、検察であり、自衛隊をもっているから、ということになる。こういった組織に「いじめ」られたくないのなら、彼らの考えには逆らわないような生き方をした方が、合理的ということにんる。
ある「平和」は、絶対的な「非対称性」によって実現される。上記で言えば、武器をもつ側ともたない側とで。言うまでもなく、国民は武器をもたない。しかし、そうやって「持たない」ことによって、逆説的ではあるが

  • 平和

となる。いや。むしろ、そういった形によってしか「平和」というのはありえない、と言ってもいい。
これはどこか、天皇制の議論に似ていなくもない。天皇は、ある意味において、日本の「最大権力保持者」であるわけだが、どう見ても、天皇の「生活」が、あまり開放的な印象を受けない。なかなか、

  • 息苦しそう

なのは、その「立場」ゆえだと言うしかないであろう。警察や自衛隊といったものも同様で、

  • 権力(=武器の保持)

を与えられているがゆえに、その「責任」を担わされるために、むしろ、逆に息苦しくなる。
私もけっこう、このブログでは西尾維新の作品について考えてきたが、西尾作品の特徴とはなんだろうか? 私はそれを一言で

  • 物語性

にあると言えるのではないか、と思っている。物語の特徴は、

  • 最初

がある、ということである。つまり、「語り始め」である。つまり、どういうことか? 言うまでもなく、物語を語り始める瞬間は、それを読んでいる読者は

  • 全ての情報

を得ていない。つまり、この物語は「少しずつ」語られていく。どんなにがんばっても、最初で全てを読者に伝えることはできない。しかし、これを私たちの日常の生活と比較した場合、違和感がある。ある瞬間の「日常」を切り取ってみても分かるであろう。その時、私は産まれてからこれまでの「記憶」をもっている。その膨大な

  • ハイコンテクスト

を前提にして「あらゆる」ことを考えている。つまり、それらは「自分にとって」は説明するまでもなく「自明」なのだ。もう「分かっている」ことなわけである。
西尾作品は一種の「ミステリー小説」としての体裁をとってあらわれたわけであるが、ようするに「説明」を行なわないことによって、その「内容」が秘密の答えとなっている。
これは「科学」ではない。
つまり「思弁的」だ、ということになるであろう。

「あっ」「あっ」
と、二人、同時に気づいたのだった。
遅蒔きながら。
(そうか----あの人、本当に『人間かどうか』を見ていたんだ)
(『余の国』......『人間王国』の国民になろうとする者が、本当に『人間かどうか』)
(出身国は関係ない......)
(老若男女も、能力も思想も貴賤も関係ない----純粋に『人間かどうか』)
(言い換えれば----『人間の振りをした、人間以外の何か』か、どうかを見ていた)
そう、すなわち『人間王』は。
入国希望者が、『人間』なのか『地球陣』なのかを、審査していた----その事実に、乗鞍あさと馬車馬ゆに子は、息を呑む。
だって、そんな区別ができるのは、人材豊富な『地球撲滅軍』の中でもただ一人----たった一人、空々空だけなのだから。

西尾作品が「物語」だという意味は、それが

だと言ってもいい。つまり、「二元論」である。世界は「高貴」な「やんごことなき」身分の数少ない「価値のある人たち」と、そうでない、そういった価値ある人の「邪魔」をする

  • 大衆

とに分けられる。西尾作品で反復されるのは、この一握りの「エリート」の価値の

  • 証明

だと言えるのかもしれない。掲題の作品において、空々空の「内面」が描かれることはない。つまり内面とは

  • その人が産まれてから今に至るまでの「ハイコンテクスト」

のことである。ある意味において、この「ハイコンテクスト」を記述することはできない。それほどの原稿のページが余っているわけではないし、たとえ余っていたとしても。無限にあったとしても終わるわけがないと言うこともできるのだから。
しかし、そのことが

  • その人が産まれてから今に至るまでの「ハイコンテクスト」

が「存在しない」ことを意味するわけではない。空々空の空虚さは、むしろ「物語」自体から導かれる、ある「限界」と関係している。空々空は確かに、それぞれの場面で「いろいろ考える」が、それらは、結局のところ、

  • その人が産まれてから今に至るまでの「ハイコンテクスト」

と、徹底して、デタッチメントな形で、言わば、

  • 論理的

に導いているに過ぎない。つまり、徹底して、それを判断するための「条件」が不足している。つまり、彼は

  • 常識

だから、Aという判断をして、Bという判断をしない。
空々空はこの作品の始まった最初から、「エリート」の側である。

  • エリート ... 人間と地球陣を見分けられる人間
  • 大衆 ... 人間と地球陣を見分けられない人間

ここで多くの人は気づくのではないか。「見分ける」とは何? 「地球陣」が存在すると言っているのはエリートだけである。しかもそれを「見分ける」ことができると言っているのが、そのエリートしかいない。これって普通に考えて

  • 地球陣なんて存在しない

ということなんじゃないのか? 空々空は「人形」である。この「人形」に、いろいろと話させて、躍らさせて、「大衆」がわたわたしているところを、興味深く観察するのが「物語」の特徴である。人間と人間の間に線を引くこと。これを、前の巻では、

  • 処女性(=子どもの純粋性)

において、掲題の著者は説明した。子どもたちの「超人」性は、言わば、子ども十字軍の、人間魚雷「回天」のカミカゼ自殺の

  • 純粋さ

と同型のものとして、示される。つまり、

  • 「エリート」の聖性(=貴族の聖性)

において、である...。

悲亡伝 (講談社ノベルス)

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