杉田敦「憲法九条の削除・改定は必要か」

私はどうも、近年、急に、一部の政治哲学者たちが言い始めた「憲法九条削除論」なるものの「動機」がさっぱり分からないでいる。というか、私はむしろ、そういうことを言い始めた連中が、本質的な部分において、

  • 戦中の日本は「正義の戦争をした」

といったような、マッチョな「歴史修正主義」を、かなり本気で「信じている」、ナイーブな「別分野の専門家(=歴史の素人)」なのではないか、と思っている。
よく考えてみよう。リベラリズムなる政治的主張は、むしろ、ジョン・ロールズの正義論とも関係した、ある種の政治的な正義(=民主主義)の問題として議論されてきた性質がある。しかし、世界的に民主主義と「徴兵制」は矛盾しないだけでなく、深く関わっている。ようするに、九条削除論は「徴兵制論」として展開されてきた。むしろ、正義のために

  • 国民は国家のために徴兵(=奴隷的身体の提供)されなければならない

という「義務論」として展開された。徴兵制度は、民主主義の「基盤」である国家そのものの「安定」のための、インフラとなる。よって、リベラリズムはこの「基盤」の確かさの保証なく、民主主義は成立しない、と考える。軍事的な「マッチョ」が、国家を唯一、「安全」「安心」から国民を守る。だから、民主主義が成立する、というわけである。
もしも、リベラリズムが「メタ正義論」であるとするなら、その正義が成立する「メタ条件」に、徴兵制がある、というわけである。
例えば、石原慎太郎という東京都知事がいたが、彼は結局最後まで、総理大臣になれなかった。石原は今でいえば、アメリカのトランプとまったく同じようなことを言っていたポピュリストに過ぎなかったわけであるが、少なくともはっきりしていたことは、東京都のトップを、かなりの年月、行っていた、というわけである。つまり、人気があった。そのことは、大阪の橋下市長にも言えるわけだが、大衆に「テロとの戦い」とか言って、勇ましいことを言っていると、票が集まるわけである。
この状況は近年のISの「過激」なテロや処刑のシーンが、結果として、自民党政権などの保守派勢力を勢いづけることになる。彼らのマッチョな「安全」「安心」政策が、たとえそれが、政治家の口先だけの「はったり」だったとしても、彼らに票を集めることになる。
石原やトランプの言う「安全」「安心」は、むしろ、リベラリズムという「メタ正義論」の「安全」「安心」だと言うこともできる。メタ正義は、その正義を成立させる「条件」を問うことだと言えるわけで、つまり、民主主義のような一般的な正義が実現されているためには、

  • 治安の維持

が成立していなければ、議論もなにもない、ということになる。よって、「徴兵制」のない民主主義はない、となるわけである。
この地球上の人間社会の「秩序」の維持なくして、「メタ正義」はない。ということは、あらゆる先進国は、世界秩序の維持のために、その身を投げ出さなければならない。死を賭して、この世界を救わなければならない。つまり、ISと戦わなければならない、というわけである。それを「義務」という形で実現するのが、徴兵制である。
もちろん、言うまでもなく、徴兵制は一種の「理念」である。例えば、現在、完全徴兵制を運用も含めて実施されているのは、韓国など、幾つかの限られた国しかない。それは、軍隊がそれなりに、生活保障も安定しており、兵員の確保に困っていない、という側面があるから、ということになる。また、言うまでもないことだが、高学歴エリートやお金持ちの子どもは現場作業を嫌がり、実質的な兵役免除を制度として勝ち取ることになるわけだ。
しかし、そういった実際の運用面とは別の次元で、徴兵制は「理念」として、主張される。それは「メタ正義論」の肝だからだ。
正義を実現するには、暴力装置が必要だ。これは一つのパラドックスだと言ってもいい。正義は暴力と秤にかけられる。暴力的脅しがなければ、正義を実現できない。だとするなら、正義の実現を目指す側は、その暴力装置を確保する、明確な手段をもっていなければならない。
ここにパラドックスがある。メタ正義論は「(公平な扱いなどの)正義」を実現するための「条件」や、その正義が備えなければならない「一般ルール」を問う作業のことであった。ところが、ここに暴力的な「脅迫」という、ある意味における「不正義」と言ってもいい「手段」を正当化することによってしか実現できないとするならば、この正義は最初から、ある種の「欺瞞」を内包している、ということにならないであろうか。
正義を押し付けるためには、暴力的な「脅し」が必要だとするなら、それは最初から「不正義」なのではないか?
つまり、どういうことか? メタ正義論は、最初から「パターナリズム」の隘路に入ってしまう。なにが正義かを決めるのは、民主主義的な手続きであるが、その手続きを「強制」するのは、暴力装置である。つまり、民主主義的な手続き「以前」に、暴力装置の「運用」が、すでに「なにが正義であるか」を決定している、と考えることもできるわけである。
この一点において、リベラリズム(=メタ正義)は、保守主義と同一となる(薄気味悪いように、リベラルを自称する勢力に、天皇主義者や保守主義を主張する人たちが多いのも、この理由である)。
同様の問題は、国連における自衛権の考えにもあらわれている。国連における意志決定は、拒否権をもつ5大国の全会一致なしに決定しないため、必然的に、あらゆる意志決定は、事態が求める以上に時間がかかる。そのため、戦争を禁止しているはずの国連が、「例外」として、その間の暫定的な対応としての「自衛権」を認める、という構造になっている。しかし、だとするなら、そもそもの「戦争の禁止」という命題は、運用上は意味をなさないことになるのではないか。
民主主義は一瞬の判断において使えない。戦争といった、どう考えても「先制攻撃」を行った側が決定的な主導権を握るような事態には、あまり相性がよくない。
ようするに、どういうことか?
リベラリズム=メタ正義論は、つまりは、形而上学であり、哲学である。ようするに、文系的な「思弁的」な何かにすぎない。そもそも、戦争とは何か? そんな定義などあるわけがない。いや、そういった定義をいくらやってみたところで、それは「思弁的」な、饒舌としてしか把握できない。戦争とは、結局は周辺国家との、軍事力のバランスによって、始めて語ることのできる「相対的」なものであり、そこに絶対的な基準はない。今は確かに、世界の国々を比べて、アメリカが抜きん出ていることは誰もが認めるとしても、今後もそうとは限らない。ちょっとした「テクノロジー」の発展によって、このバランスも意味も、いくらでも変わりうる、
しかし、そういった唯物論的な「安全」「不安」を、なんとかして「思弁的」に開放されたいと思うのが、リベラリズム=メタ正義なのである。しかし、そんなことは可能なのか? 彼らが「不安」をどこかに覚える限り、軍事力は

  • 無限大

に大きくしなければ「安心」できない、ということを意味する。実際に、戦争が起きれば、どちらかが負けるのであろう。だとするなら、リベラリズム=メタ正義は無限大の軍事力がなければ、

  • 理論として完成しない

ということを意味している、ということになるであろう。これが、文系科学の宿命だと言ってもいい。文系科学は、自然科学の「アナロジー」として始まったが、実際的には、自らの「歴史的条件」に縛られた形でしか、実現できなかった。しかし、彼ら文系科学者たちには、どうしても、この「曖昧さ=不安」から、もっと確実なものを求める欲望からのがれられない。はっきりした意味、はっきりした確実性。こういった延長に、彼らの

  • 無限大の軍事力

への欲望が、理論の確実性への担保として、どうしても探したくなるわけである。

これに関連して、削除論者らは、条文というものは、見ただけでその意味がわかるはずとします。これは、法律学では「文理解釈」という考え方ですが、そのように考えなければならないわけではありません。むしろ、憲法の規定には、字義通りには運用できず、その言葉の意味を定義したり、妥当な解釈の幅を探ったりしなければ使えないものも多々あります。たとえば、憲法二一条には、「一切の表現の自由は、これを保障する」と書いてありますが、それなら、過激なポルノグラフィーとか、特定の民族・宗教集団へのヘイト・スピーチのようなものも許されるのか、といえばそうではありません。削除論者らは、九条二項の、戦力不保持規定は、当然に自衛隊の存在と矛盾するとします、しかし、それは彼らの解釈にすぎないのです。
以上の論点はどちらかというと、解釈というものの性格をめぐる論点ですが、次の論点は、もう少し内容にかかわります。私は憲法九条というものは、先ほどから述べている立憲主義というものと内的に連関しているのではないかと考えています。というのは、なぜこういう規定ができたかといえば、まさに戦前の日本において、権力とりわけ軍事的な権力が暴走した結果、多大な犠牲を内外に残したからです、そうした経験を受けて、立憲主義を強化し、権力へのブレーキをつけようとした、そうであるとすれば、軍事的なものについて、抑制的な規定がつくられたことは自然です。
次に、より政治学的ともいえる論点ですが、そもそも安全保障論議において、政府に対抗的な議論をするということには、非常に大きな困難が伴います。安全保障にかかわる事項は機密とされがちであり、一般にそうした事項については政府が情報を独占するからです。したがって、政府がこれこれの措置が必要だとした時に、それに反論することは難しい。憲法上の規定を削除すれば、対立する考え方の人びとが自由に、対等な立場で議論できるというのが削除論者の見解ですが、まったく非現実的です。

そもそも、軍事的マターは「秘密」のオンパレードである。つまり、軍事的判断を、民主主義的な手続きによって行うことはできない。つまり、恐しく、民主主義と相性が悪い。
情報がないのに、軍事的判断をするとはどういうことでしょうか? つまり「パターナリズム」に結果します。国民は国家が戦争を行うか行わないかの判断を、国家に「おまかせ」する、ということです。
ここにパラドックスがあります。
つまり、議論が反転するわけです。もしも国家が「正義」なら、国家の戦争の判断は「正義」でなければならない。よって、あらゆる戦争行為は「正義」だということになります。
私たちの自明な感覚において、まさか、自分たちが「不正義」を行おうとしているはずがない、という感覚がある。どう考えても、自民党議員や国家官僚が、悪いことを始めるわけがない。自分が今、こういった「平和」な時代に生きている、その実感として、もしも国家が戦争を始めると言うなら、それは「正義」の戦争でないはずがない、という感情が、自らの内面からわきあがってくる。
そういった意味において、一般意志は、戦争を避けられない。戦争を避けるための手段を内包していない。国家とは戦争を避けるための、一切の抑制装置をもっていない、ということを意味するであろう。
もしも戦争が、国家にとっての「正義」の自己実現行為であるとするなら、国家が戦争を避けることはできない。なぜなら、戦争を行うことが、内的な意味における「正義」だと確信している、ということなのだから。どんな戦争も「正義」のために行われる。だれもが、自分が考える「正義」を実現する手段のために、戦争を行いたい、というわけである。
そうだとするなら、私たちは、もう一度、リベラリズム=メタ正義の根拠を問わなければならない。メタ正義は、暴力装置なしには成立しない。つまり、理念としての「徴兵制」のない国家は、国家ではない。ところが、実際において、国家の戦争は、

  • 国民が国家の「正義」を<信じる>

という形でしか、行われえない(なぜなら、一切の軍事情報は国民に隠されるのだから)。
だとするなら、

  • 国家が憲法九条をもつかもたないか

は、本当に本質的な問題なのか、と問うこともできるのではないか。よく考えてほしい。九条削除論は、さまざまな理由を並べて、九条は削除すべきと言う。しかし、パラドキシカルなことに、リベラリズム=メタ正義は、その暴力の行使の「メタ正義」を

  • 議論できない

という問題をどうしても解決できない。つまり、リベラリズム=メタ正義は、なんらかの理論としての

  • 不完全性

を内包している、ということを意味しているのではないか。彼ら九条削除論者たちはむしろ、この自らが奉じる理論の「弱点」から自ら目をそらしたいがために、ここまで強行に九条削除を主張しているんじゃないのか、という疑惑が浮かぶわけである。

日本ではなぜ、内閣法制局の単なる官僚にすぎない人びとが、ブレーキとしての役割を果たしてこられたのか。なぜ、第一次安倍政権の時には、安倍首相の意向に逆らってでも、ふみとどまれたのか。それは、憲法論を行なったからです。安全保障論をむき出しの形でやらなかったからです。しかも、それは、単なるサボタージュではなく、実質的な安全保障論議になってきた。違憲か合憲かという形で、その行動に理由があるのか、他に手段がないのか、そして必要最低限なのかという、武力行使の条件にかかわる吟味を行なっていたわけですから。

この指摘は非常に重要だと思う。九条削除論者の主張に反して、むしろ、九条があるがゆえに、国民は

  • 日本の暴力装置が、唯物論的に、「どれくらいならば、<条件>を満たすのか」

という「議論」を行うことを可能にしている。つまり、まったく逆なわけである。マッチョな保守主義者の言っていることは、カール・シュミットと同様に、

  • 独裁者に一切の「判断の権利」を渡せ

と言っているのと同型なのだ(九条削除論とは、一切の戦争に関する判断に対して、国民からの国家への命令を許してはならない、と言っていることと変わらない)。つまり、結局のところ、リベラリズム=メタ正義は、一種の「ファシズム」に帰結する。そういう意味で、保守主義と相性がいいわけである...。

世界 2016年 01 月号 [雑誌]

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