大塚英志『「おたく」の精神史』

私は2チャンネルというのはよくできているシステムだと今だに思っている。というか、こういった匿名システムというのは、ある意味における「平和」とは何を意味しているのかを体現している、と思っているからである。
例えば、同人誌において、匿名のペンネームで作品を発表する場合も同様である。
しかし、この逆というものがある。
たとえば、ツイッターで、自らの顔と名前を、公表して、まさに「芸能活動」と同じように、なんらかの表現をしている人というのは、私は、こういった匿名文化に対する

  • 挑戦

をしているのだと思っている。彼らが、そうやって顕名で活動しているということは、自分が顕名で活動しているのにお前は匿名で「卑怯」だ、と倫理的に攻めているということを意味している、と解釈される。
彼ら顕名主義者は、実際は、自分が書いた本の「宣伝」をするためのツールとして、ツイッターを使っている。しかし、他方において、彼らは、自らが顕名であることによって、匿名のネット住人に「圧力」をかけている。
顕名主義者は、このネット世界で、匿名住人を「脅迫」することを「楽しんでいる」と言えるであろう。
正直に言えば、私はこういったネット上で、顕名を使って情報発信をしている人たちが嫌いなのだ。彼らは、そういった活動を行うことによって、自分の書いた本を宣伝し、匿名の住民を「道徳的に非難」して、「差別」して、自分の「正義」と、匿名住民の「非正義」をことあげすることで、匿名の住民を「言葉の暴力」で脅している。
私はそういう意味において、ネット上には2ちゃんねるがあればいいんじゃないのか、と思っている。そして、顕名主義者を、なんとか、フェースブックやラインの中に、囲い込みたい。
そういった意味においては、フェースブックとラインはよくできている。
私がよく分からないのは、なぜネットで顕名でなにかを言いたがるのであろうか? なぜ、顕名でパブリックに発言をしたがるのか。目立ちたいのか? 自分の名前を売りたいのか? 自分の本の宣伝がしたいのか?
私は頼むから、そういった人たちは、フェースブックらラインでやってくれないか、と思うわけである。正直に言って、邪魔なのだ。
ネットでわざわざ、顕名で発言することは、その人の「権威」を、匿名ユーザに対して「圧力」として使う行為にしか思えない。ネットがある意味での「匿名のユートピア」だとするなら、顕名の有名人たちは、このユーピアを破壊するために現れた

  • リアル世界の怪獣

だと言ってもいいであろう。匿名のユートピアにおける、彼ら顕名たちへの「誹謗中傷」を、彼らは探し出し、その一人一人を

  • 犯罪者

として、警察につきだす。彼ら顕名の有名人たちは、こうやって匿名のユートピアを一つ一つ破壊していくことを生き甲斐にしている。
顕名の有名人とは、「強者」だということである。彼らは強者であるがゆえに、ニーチェ的な意味で、その自らの「強さ」を

  • 楽しむ

わけで、つまりは、ネットの匿名の弱者を「いじめ」ることで、ストレス発散をする。彼らの趣味は、ネットの匿名弱者を、嗤うことであって、典型的な

なのだ。
掲題の本は、80年代論として書かれているわけで、つまりは、まだインターネットが普及する前の「おたく」と呼ばれた現象を考察する。しかし、私に言わせるなら、この本は典型的な

だと言うしかない。それは「おたく」と両立する。自ら「おたく」的サブカル系の執筆や編集業に深く関わってきた

  • 当事者

として、一方において、こういった「おたく」コンテンツの制作サイドに深くコミットをしながら、他方において、こういった「おたく」コンテンツの

  • 消費

の「作法」を、うんぬんするそのスタイルは、今のネット社会が普及した「素人」の時代において、彼の態度はなにか

  • 英雄

を気どっているようにさえ思われる。しかし、忘れてはならないのは、この本が80年代論として行われていることで、当時はネットもなかった。つまり、実際に掲題の著者は当時は「英雄」のようなものだった、と言えなくもないわけである。
しかし、たとえそうなのだろうと思って、この本を読んでみるとしても、最も大きな違和感を与えるのが

  • おたく=犯罪者予備軍

といった、著者なりの「当事者目線」における、一つの「先入観」なのではないだろうか。
言うまもでなく、もしも「おたく」が犯罪者予備軍なら、「おたく」について語ることは、非常に大きな社会的「意義」を帯びることになるであろう。もちろん、著者のような「おたく」研究者の価値は、これまで以上に高まることになる。
宮崎勤から、オウム真理教、しゅきばらと、こういったサブカルチャーを「消費」する犯罪者の存在に、掲題の著者は、なんらかの

のようなものを、この本は必死で語っているように思われる。
しかし、である。
逆にそうであるがゆえに、逆にその態度が、結果として、社会の中における「サブカルチャー」を必要以上に大きく見せようとする、サブカルチャーが「重要」であることを、生産する側として見せようとする「欲望」を、露呈しているようにしか思えないわけである。
大事なポイントは、この本の対象としている80年代はまだ、インターネットがなかった、ということなのであろう。つまり、この時代には、こういった「作者=英雄」というフレームにおいてしか、ある意味、なにかを語れなかった、ということなのかもしれない。
私が素朴に思うことは、いい加減、サブカルチャーと「社会犯罪」を、リンクさせて話すことをやめよう、ということである。
言うまでもなく、今でも、同人誌などでは、かなり「やばい」感じの犯罪すれすれの作品が発表されていることはあるし、一般に、こういったマンガやアニメを消費しているような人たちが、比較的に少数であることを認めないわけではない。
しかし、そうであることと、「そういった人」を、なにか

  • 特殊な人

としてカテゴライズすることは、まったく別の話だ、ということである。マンガやアニメを見ることは、なにも「特殊」なことではない。それは、なにかの国語の教科書に載っている文学作品を読むことと「同列」の行為なのであって、そのことを認められない態度こそ、むしろ

  • 「おたく」の特権思想

なのだと考えるべき、「おたく=英雄化」なのだ、と。私はこういった「犯罪者=<時代を特権的に代表する>存在」「犯罪者=サブカルチャーを趣味としている」という連立方程式から、

  • サブカル趣味の凶悪犯罪者を研究している俺=社会にとって重要な存在

という「奇妙な倒錯」を、こういった主観的語りが生みだしてきたことの「気持ち悪さ」を考えるべきなのだろう、と思うわけである。むしろ、

  • 犯罪=統計的に一定の割合において「生まれてしまう」必然の現象

なのであって、むしろ、こういった犯罪に「特殊の意味」を見ようとすることの方にこそ、病的な問題が隠されていると受けとらなければならない。なぜ、こういった人たちは、犯罪者がサブカルチャーを消費していた「事実」に対して、まるで、

  • この事実の「謎」を解明できるの世界で俺しかない

とでも言いたいかのように、必要以上に、フレームアップせずにいられないのか。むしろ、そういう「非統計的態度」にこそ、人文系文学批評の決定的な「非科学性」がひそんでいたのではないか。
犯罪者が、サブカルチャーを消費していることは、非犯罪者がサブカルチャーを消費していることと「同型」において、一つの「普通」の現象にすぎない。いいかげん、

として、自らをこの「犯罪研究の第一人者」として、社会的な「権威」を暗に要求する態度を止めることなしに、なにも始まらないのであろう...。

「おたく」の精神史―一九八〇年代論 (朝日文庫 お 49-3)

「おたく」の精神史―一九八〇年代論 (朝日文庫 お 49-3)