偽物の寄付

少し古い話になるが、東浩紀さんが3・11の後に発行した雑誌の思想地図の震災特集号の帯に、次のような文字が書かれていました。「1冊あたり635円が義援金となります」。ところが、この本の中身には、この文言に関する説明が載っていませんでした。
そこから、この本の販売の後、何ヶ月かして、2チャンネルを中心として、これは「義援金詐欺」ではないのか、といった話が疑われるようになりました。
結果として、一年くらい経過した期末の段階で、この寄付が行われたことの報告と、それ以降も売れた冊数に応じて、上記の約束の寄付を行っていくことの報告がされたことで、一応、この騒動は収束していったと思われます。
しかし、そもそもなぜこの問題が「義援金詐欺」なのではないかと騒がれた「本質」については、当事者の側も、そうやって騒いでいたネット住民の側も、うまく説明できていなかった印象を受けます。
私はこの話はどこか、雑誌の懸賞詐欺と非常に似ている構造があると思いました。まず、こういった雑誌の懸賞において、何名に何等賞を郵送で送付するといった「約束」が本当に果たされていたのかを考察する方法は、非常に難しいということです。もしも、100名に郵送します、と書いてあったとして、99名にしか配送されていなかったとして、この1名を「忘れていた」といった「うっかり」であると証明する方法はあるでしょうか? もちろん、99名に配っていたなら、それをもらった人は嬉しかっただろうし、「功利主義」的には、非常に「良いこと」と分類していいのではないか、と思うかもしれません。しかし、「約束」は「約束」です。本当に99名に配っていれば、それでよかったのでしょうか?
よく考えてみましょう。この「約束」が果たされたかどうかを、本当の意味で「告発」できる人がいるとするなら、それは

しかありえません。というのはどういうことかと言うと、そういう形でしか「検証」できない仕組みにしているのはむしろ、この懸賞を配っているメーカー側だ、ということなのです。
大事なことは、この「約束=コミットメント」が、最初から「曖昧」だというところにあります。昔の懸賞はよく、当選者の名前が雑誌に載りました。これによって、第三者が確認を可能でした(驚くべきことに、その名前がまったくのデタラメという懸賞詐欺がよく起きるわけですが)。しかし今は、発送をもってかえさせられているので、この「約束」が果たされたのかどうかは、だれにも分からない、ということなのです。
ということは、どういうことなのでしょうか?
つまり、これは「約束なのか」という疑いがおきる、ということなのです。上記の思想地図の場合、3・11に関係して当時、多くの機関が「寄付」が行われていました。そのため、上記の「帯」の文字は、それらとの「アナロジー」を、この本を買う側に与え、この本を買う動機付けを与えていた可能性が考えられたでしょう。少なくとも、買う側はいつも以上の「言い訳」を、そういった内容によって、周囲に行っていたかもしれません。多少の「無駄使い」だったかもしれないけど、こういった意義もあったんだから、許してくれ、みたいな。
しかし、大事なポイントは、この「コミットメント=約束」には、アカウンタビリティが保証されていなかった、というところにあるわけです。「やる」とは言ったけれども、いつやるとも、どのように具体的にやるとも、どこにも書いていない。
ここは重要なポイントです。結果的に行ったかどうかは、ある意味、どうでもいいわけです。例えば、こう考えてみましょう。その会社は、この一時的な段階で、ある程度の「まとまったお金」をもつことが、とても重要でした。それは、「いつ」手元を離れるのかを、

  • だれにも約束していない

お金です。つまり、「いつ」このまとまったお金が手元から離れるのかを誰にも約束していないということは、このお金を担保として、ある緊急的な別の都合の問題を乗り切れる可能性がある、ということです。
そういった一時的なお金を会社に「プール」できるということは、小さい会社であるほど「重要」である場合が、往々にしてあります。だとするなら、このお金は「ボランティア」だったと言えるのか、という問題になります。
ここからは、多少、抽象的な話になってきます。

次に喜捨(ザカート)であるが、これは所有財産の一部、普通は収入の二・五パーセントを貧者に施す義務である。つまり、豊かな者は貧しい者を物質的に救済しなければならないという考えにもとづくものである。そうすることで、施しをした者は善行を積み、来世での天国行きに近づくのである。貧者への施しという発想は、仏教やキリスト教など多くの宗教に認められるものではあるが、イスラームの場合はそれが信者が守るべき五つの義務の一つにあげられ、特に強調されているのである。

イスラーム的 世界化時代の中で (講談社学術文庫)

イスラーム的 世界化時代の中で (講談社学術文庫)

義援金とはようするに「寄付」のことです。しかし、寄付とはなんでしょうか? 今さら、その意味を問うことに意味などないと思われるかもしれません。しかし、そうでしょうか?
つまり、上記の帯の文字に書かれてある「義援金」とは、一体、誰が誰に向けて行われる「寄付」のことを言っているのでしょうか? 上記のように一冊あたりの「寄付」の金額が固定されているというコミットメントは、一見すると、この本を買った人はその「結果」として、寄付をしたことになりますよ、と「約束」しているように解釈されます。
しかし、そうだとすると、非常に重要な問題が生まれるわけです。一般的に「寄付」とは、

  • 宗教的概念

です。つまり、多くの宗教は、自らの宗教の「内部」で寄付という行為の「意味」を定義しています。上記の引用はイスラーム教における寄付の意味を説明したところですが、イスラーム教において、そもそも、寄付は「義務」です。寄付という行為を行うことは、そもそも自分が天国に行くための、「自分の幸福のため」の行為であって、自分のために行うものです。寄付を行わないということは、この義務を引き受けることを放棄した、という意志表示となるため、やるかやらないかは非常に重要です。
しかし、もっと重要なのは「何が寄付なのか」だということになるでしょう。
上記の本の帯の義援金をもしも、この本を発行している東さんの「寄付」だと考えるなら、その「義務の履行」は東さんの「善行として積まれる」ということを意味することになります。その場合、この本を「買う」という行為を行った人たちは、この本を買ったお金の「使用」を

  • 寄付

と定義してはならない、ということになります。私が最初からこだわっているのは、この本の帯に書いてあった「義援金」の内容の曖昧さだと言えるでしょう。それは、実際に後になって寄付を行なったかどうかの「事実」に関係しません。商売道は、将来に対する「信用」を売るものであり、その将来へのアカウンタビリティは、こういった「信用の体系」を担保するためには非常に重要な骨格のフレームだと考えられる(私が東さんを人間として信頼しないのは、こういったところにあります)。
実際に、東さんやその周辺は、この寄付で福島県に多くのお金を「寄付」したという事実によって、さまざまな場面で、福島県への「発言権」を与えてもらえることになり、実際に、それ以降の「フクシマ原発ビジネス」で、実利を得てきたと考えられるわけでしょう。だとするなら、こういった「寄付」は、実質的には

  • 投資

として使われた、と考える方が、ビジネスの感覚としては普通だと思われます。こういった意味において、私はここでは、この義援金詐欺疑惑を、ある意味における詐欺と解釈できる、という側で考えるわけです。おそらく彼の取り巻きの信者たちは、護教論的に擁護するわけでしょうが、じゃあ、雑誌の懸賞詐欺でないことを誰が「担保」できるのでしょうか? むしろ、話は逆なんじゃないですか? こういうことをやりたいのなら、むしろ、そういった彼の取り巻きの信者たちが

から、内部告発によって、その「信用」を担保していくしかないわけでしょう。ようするに信者たちも脇が甘いと言いたいわけです。こういった「疑い」がぬぐえない、脇の甘いことをやっている時点で、負けなわけでしょう...。