姉と妹(その2)

劇場版ガルパンを見ていたときは、そういえば、テレビアニメ版は、あまりまともに見ていなかったと思い、再度、この作品について考えて、もう一度、この主人公の西住みほと、姉の西住まほの関係について整理してみようと思った。
作品において、主人公の西住みほの戦術は、西住流とも違う独自のものと言われている。しかし、作品を見る限り

  • 相手のストロングポイントである、秘密兵器を「奇策」で封じる
  • 市街戦にもちこんで、機動力で互角の戦いにもちこむ

というのが、主人公の西住みほの戦術と受けとれる。本家の西住流はどちらかというと、「戦力」において、最初から上回ることで、計算できる、勝利を理づめで攻めていくという形であって、まあ、こういった戦術ができないから、主人公の西住みほは、いろいろ奇策を考えるわけで、そういった意味では、それほど違和感があるという感じではない。
主人公の西住みほがなぜ、大洗高校に転校してきたのかを考えると、姉のいる黒森峰高校で、みほが行った行為によって、黒森峰が負けたことに、西住流の胴元の母親と姉が、みほを非難したことに反発して

  • 戦車道をやらないために

戦車道の部活がない学校をあえて選んで、転校してきたわけで、最初から彼女は、この世界から足を洗うつもりだった、ということが重要なポイントだ。では、なぜみほはもう一度、戦車道を始めたのかといえば、早い話が

  • まったく違った理由によって

であった、というところがポイントである。彼女が戦車道をやめる選択をすることには、母親と姉が関係していた。つまり、彼女たちの「思想」が関係していた。逆に、再度、戦車道を始めることになる理由は、まったく「違う」こととの関係による、というところがポイントとなっている。つまり、彼女の「友達」である。
劇場版ガルパンのもっとも印象的な場面は、みほが姉との「子どもの頃に一緒に遊んだ」場面を思い出すところではないか、と思っている。
この場面には「すべて」がつまっている。ここに「すべて」の答えがある。
どういう意味か?
私は、ある意味において、勘違いをしていた。つまり、姉のまほについてである。彼女はこの作品を通して、ずっと、最後まで、感情を隠している。感情を表に出さない。そこには、母親の影があると考えていい。つまり、世間の「体裁」である。母親が彼女に強いてくる、「世間様の体裁」を、姉は従順に受け入れる。それは言わば、

  • 妹の代わり

と言ってもいい。姉のまほが隠している感情。それは、「妹への愛情」である。姉はずっと、優しいわけである。これは、表向きのぶっきらぼうな態度に、だまされてはならない。
それが、あの子どもの頃の二人の姿によくあらわれている。

  • 妹が自由奔放にしていると姉の機嫌がよくなる。姉は妹の自由奔放な姿を見るのが大好きで、そういった姿を見ると、「快楽」する。ところが、そういった姉の機嫌のよさそうな姿を見ると、妹は、ますます機嫌がよくなる

これが、「コンビネーション」である。姉と妹は、こういった関係によって育った。だから、この作品から伝わるのは、妹の姉への絶対的な信頼なのである。
なぜ「対立」が生まれたのか?
それは、母親が関係している。母親が象徴しているものは、大人社会の規範でありルールである。そして、姉は妹に比べ、相対的に母親側の特性をもっている。つまり、「大人」の特性をもっている。大人になるとは、子どもの「理想=自明性」を捨てて、妥協することだと言える。
そう考えるなら、妹が母親や姉のもとを離れていくことは、親離れであり、自立を意味する、と考えられる。
妹は、戦車道を離れるために転校したが、その転校先で「まったく別の理由」によって戦車道を再度始めることは、一種の「道」を意味する。本家の西住流を離れ、別の「西住」流を模索するということは、西住流の「亜流」を模索することを意味する。それは、本家の西住流とは違うものであったとしても、戦車道にとっては必然の「道」だと言うこともできる。「亜流」の模索なき戦車道は、道の繁栄に反する。なんらかの「多様性」に繋がらない「道」は道とは呼べない。
劇場版において、今回の大洗高校の廃校と、戦車道の部活動の廃部の危機に対して、姉も母親も、なんとか助けようとする。それは、大洗高校の廃校が、高校の戦車道の部活動のイメージにとって、マイナスと社会から受けとられることに対する、危機意識からだと考えられる。
そういう意味においては、母親も姉も、妹の行う戦車道が、自分たちのものとは違っていることが分かっていながらも、自分たちの元を離れた彼女を応援したいと心の中では思っていることは、間違いないわけである。
作品を通して感じられるのは、姉の妹への「愛情」であろう。彼女の無表情な視線の奥には、深い妹への愛情が隠されている。姉は妹が好きなのだ。しかし、それを妹は「知っている」わけである。なぜなら、それを、あの子どもの頃の姉の姿が証明しているのだから。妹は確信する。姉は、あの頃の自分にどこまでも優しかった、姉となにも変わっていないことを。
上記の子どもの頃から続く、姉と妹の無限ループは、妹の中に深い「確信」として今も変わらずある。姉は今もずっと、妹が成長する姿を見ていたいのだ...。