「THE LIVING DEAD」考察

さて、気が早い話であるが、BUMP OF CHICKEN が紅白に出場するということで、私にとっても、一つの区切りになるのかな、といった印象をもっている。
といっても、ここで彼らの活動の全体をもって私なりに総括をしたい、ということではない。私が考えているのは、もしも彼らを特徴づけるなにかがあるとするなら、それはなんなのか、といった視点だと言えるのかもしれない。
彼らの作品を見る人は、明らかにそこに、彼ら独自の何かを見出してきたのではないだろうか。しかし、ようするにそれがなんなのかをうまく説明できない、ということなのである。
彼らの作品群は、確かに多様である。さまざまな視点がそこでは交差している。しかし、そのことによって何が示されているのかまでを「多様」として終わらせることは、なんらかの不十分さを感じないわけではない。そこになんらかの「メッセージ」を受けとるのであれば、それを、たんに「多様性」の海に放り投げることは、一つの

  • 怠慢

だと言われてもしょうがないのではないか。
彼らを私たちが一つの「同世代」的な何かとして解釈するとき、結局のところ、私たちの時代とはなんだったのかを問うこと同じことになるように思われる。そのように問われたとき、私たちの時代は、日本の一つの「繁栄=バブル」の崩壊の過程と同一視して理解された。それは、端的に、就職難として現れた。
この世代は、就職氷河期をもろに受けただけでなく、それ以降においても、言わば

  • 国家に見捨てられた

形として、現れた。つまり、私たちの世代は国家という精神分析的な意味における「父親」から見捨てられる過程を経ることによって、自らの「内面」を見つめることを必然としなければならなかった。一種の「内省」の世代として、代表されることになったわけである。
バンプの作品を特徴づけるアルバムは、「THE LIVING DEAD」だと思っている。この作品の特徴は、例えば、「ONE PIECE」に代表されるような週刊少年ジャンプ的なものに対して、彼らが「共感」を表明したことと深く関係している。
この「THE LIVING DEAD」の特徴を一言で言うなら、その「物語」的な詩の内容であろう。しかし、問題はその「物語」が具体的には何を語っていたのか、ということなのである。

宝物は何だっけ?
思い出せず苛ついて 折ろうとした筆が こう言った気がした
「ずっと見ていたよ 絵が好きなんだろ」
BUMP OF CHICKEN「ベストピクチャー」)

ここで、この詩の主人公は絵描きとして象徴されるが、ようするに、週刊少年ジャンプに連載をしている漫画家と考えることもできるであろう。上記の引用における「折ろうとした筆」とは、一種の

  • 自殺

を表象する。このアルバムを非常に強烈に表象しているものは「死」である。というか、産まれてから死ぬまでの「人生」なのだ。つまり、作者は「問題」という形式によってしか「死」を全面にクローズアップさせることができなかったのだ。
なぜ「死」がクローズアップされなければならなかったのか? それは、「希望」の反対概念として、現実が強いる認識だったと考えられる。私たち「国家に見捨てられた世代」は、その不況の中で、自らの内面を見つめることを社会から強いられる。そのことは、逆に言うなら、

  • 国家に無理矢理「生かされない」ことが、何を意味するのか?

を自らに問いかけることだと言ってもいい。
国家は私たち「国家に見捨てられた世代」に、何も手を差し延べようとはしない。国家は、私たちの世代の「就職不況」において、まったく、子どもたちに手を差し延ばそうとしなかった。このことは、私たちの世代に深い内省を強いることになったと言えるであろう。
そもそも、私たちの「能力」だとか「勇気」だとかは、なんだったのか。それは、「国家」が「評価」したなにかにすぎない。しかし、彼らは、この最後の最後で、私たちを見捨てた。つまり、彼らが「評価」した、「能力」だとか「勇気」だとかは、まったく無意味だった、ということなのである。
私たちは結果として、自らに問いかけることになる。「彼らの評価ではない、自らにとっての評価とはなんなのか」と。
このアルバムを見ると、全体として、強い二つの「対立」を、まさに対決させる形で示されている、と考えられる。

  • 希望

なぜなら、希望の「否定」は、一種の「死」を意味するからだ。希望と死は紙一重である。希望がなくなることが死を結果するのであれば、死は必然だということになる。
ここにパラドックスがある。そもそも、希望は多くの場合、その「消失」を必然的に内包している。希望は、その消失と深く繋がっている。よって、希望を抱くすべてのケースが、その希望の消失と離して考えることができない。だとするなら、希望の消失が死と深く関わるとしている限り、人間は、結局は「絶望」によって、つまり、自死によって滅びる、ということになるのではないのか?

失くした愛 安心の類 それを探し 凍える道を
温めるよ ハートのランプ 今まで気付かなかった 頼れるパートナー
「君が強く望みさえすれば
照らしだそう 温めよう 歩くタメの勇気にだってなるよ」
約束しろよ ハートのランプ もう一度僕を歩かせてくれ
「ヘンだな 僕は君自身だよ 自分が信じれないのかい?」
BUMP OF CHICKEN「ランプ」)

ここで言っている「ランプ」とは誰なのか? ランプは「自分」である。ところがなぜか、自分は「ランプ」を自分だととらえられない。それは、自分という希望の消失に直面した、つまり、「自らによる自殺」をその理念として「内包」した、自分が、この結果として「死んでいるのと変わらない」という状態で、自らの中に「ランプ」という自分という

  • まだ死んでいない(という意味で、自分ではない)自分(=他者)

を見出した、ということなのである。

湖の見える タンポポ丘の 桜の木の下で
手頃なヒモと 手頃な台を 都合良く見つけた
半分ジョークでセッティングして そこに立ってみた時
マンガみたいな量の 涙が 溢れてきた
BUMP OF CHICKEN「続・くだらない唄」)

希望の消失は、「死」を結果する。それは必然である。そのことは、自分が手頃なヒモと手頃な台で自殺の「真似事」を行うことと等値となる。しかし、自分はむしろ、その行為をしたことではなく、

  • 溢れてきた<膨大な量>の涙

に戸惑う。つまり、これがなんなのかを、うまく言語化できないのだ。なぜ涙がここで流れてきたのか。なぜ、自分はこうなっているのか。ここにも、ある種のパラドックスがある。
なぜ希望の消失が、必然としての「死」と反した結果を(つまり、もう一つの「希望の誕生」を)、往々にして私たちにもたらすのか?

雪の降る山道を 黒猫が走る
今は故き親友との約束を その口に銜えて
「見ろよ、悪魔の使者だ!」石を投げる子供
何とでも呼ぶがいいさ 俺には 消えない名前があるから
ホーリーナイト」「聖なる夜」と 呼んでくれた
優しさも温もりも 全て詰め込んで 呼んでくれた
忌み嫌われた俺にも 意味があるとするならば
この日のタメに生まれて来たんだろう どこまでも走るよ
BUMP OF CHICKEN「K」)

ここにも、私たちの世代を象徴する、もう一つの特性である「いじめ」が描かれている。私たちの世代は「いじめ」を生き抜いてきた世代であり、つまりは「いじめ」を

  • サバイバル

してきた、それを生き残ってきた「残存兵」に過ぎない。大事なポイントは、ここで死んで今はもういない「彼ら」と、それを「生き残った」私たちの間には、なんの差異もない、ということである。
「いじめ」をしたのは私たちである。私たちは私たちが生きるために「いじめ」を行った。ところが、その「いじめ」を受けるのも私たちなのである。私たちは、この「いじめ」という無限ループを、そういった一般的な

  • 希望

というメソッドで解決することができなかった。そういう意味において、私たちの世代は「いじめ」に負けたのだ。
しかし、ここにもう一つのパラドックスが生まれる。
「いじめ」に負けることは、結果としての「自殺」と向き合うことを意味する。しかし、それが「希望を捨てる」ことを意味しない、と言うのである。黒猫は、むしろ

  • 自分によって自分の「意味」を探そうとする

ところにポイントがある。黒猫は自分の「人生の意味」を自分で決めたのだ。
「人生」とはなんだろう? 人生とは「希望」に関係する。希望とは、人生の意味を決定する。しかし、先ほどから何度も述べているように、私たちの世代にとって、希望の消失は「必然」であり、つまりは、自殺は必然だということを意味した。だとするなら、「人生」は

  • 無意味

だった、ということを結果することになるであろう(その問題に正面から立ち向かったのが「グングニル」であり、「Ever Lasting Lie」という作品だったと言える)。
「人生」は無意味である。そう言わざるをえない。しかし、そう言ったその時、どこからともなく、それを否定しようとする声が現れる。それが「他者」である。

グロリアスレボリューション
その手で何を掴むんだい? 殴るんだい? 何を掲げ上げるんだい?
BUMP OF CHICKENグロリアスレボリューション」)

他者は私に問いかける。「その手で何を掴むんだい?」。私は自分が何かを掴むことに、なにか意味があると思っていなかった。ところが、他者はそれを聞いてくる。ということはつまりは、他者は私が何を掴むのかに、意味を見出している、ということを意味している。それは、他者にとって重要なのであり、つまりは、他者にとって、私が何かを掴む行為に「価値」を見出しているわけで、もっと言えば、他者は私に価値を見出している。

ところが君は笑った 「格好いいよ」と言った
これだけ僕が愚痴っても 僕の目を見て そんな言葉をくれた
「そういうトコロも全部 かわいいヒトね」と言った
ツクっても 気取っても その一言には 全て見られていた
BUMP OF CHICKEN「リリィ」)

私たちの世代は「愚痴」の世代である。人生の全ては「愚痴」である。人生の全てが愚痴で覆われた世代である。ところが、他者はそれを「格好いい」と言い、「かわいい」と言う。
愚痴を言い、ツクって、気取っての毎日こそ、私たちの世代を象徴しているわけであるが、他者はそれを「格好いい」「かわいい」と言う。
これも一種のパラドックスだと言ってもいいであろう。
私たちは、希望の消失という「自死」の必然性(=リアリティ)を前にして、こういった「他者」に戸惑う。「格好いい」「かわいい」。これはなんなのか? 私たちは、少し考えてみて、やっぱり、ひとまず考えるのをやめてみて、とりあえず、もう少しだけ生きてみよう、と思って戸惑いの中、 今も迷いながら、今日まで生きて来た、というわけである...。