無料食堂

素朴に考えて、今の日本で

  • 飢えて死ぬ

というのは、ありえないんじゃないのか、と思うのだが。また、

  • 栄養失調の子ども

というのも。しかし、具体的にこのための「対策」が、この日本において、実現できているのかと言うと、その条件というのはなんなのかな、と考えるわけである。
現在の日本は、資本主義社会である。この社会においては、基本的に、お金があれば、なんでも買えるが、なければ買えない、ということになる。ようするに、お金がないと、食べ物を食べられない、ということになる。
つまり、この通常の意味における「資本主義」の、ルールに従うなら、お金のない人は飢えて死んでもおかしくない、と言っているのと変わらない、と受けとられる。
これを避ける仕組みはむしろ、国家の側が囲い込んでいる。つまり、

である。ところが、この生活保護という制度は「申請主義」となっており、しかも、申請者に多くのプライバシーの提供の強制と、さまざまな「生活保護」を認めるための

  • 条件

によって、がんじがらめになっている。つまり、生活保護は「使いにくい」。今、ここで「お腹がすいている」人を、

  • 直接

その空腹を満たすための、たてつけになっていない。
私がここで「イメージ」しているものは、次のようなものである。

  • ある子どもが、親が給食費を払えなかったために、昼食抜きで、放課後になり、お腹ペコペコだけど、家に帰っても親もお金がない、または、家に親がいない。

子どもにとって、十分な栄養をとれるかどうかは決定的に重要な意味がある。これを満たせないような「条件」が成立していること自体が、不条理だと言えるであろう。
そこで、私はこの「問題」を二つのアプローチで解決する方法を考える。

  • 緊急的アプローチ ... 近年において、スマホのGPS機能を使えば、なんらかの緊急のアラートを発信することは、だれでもできるようになった。そこで、すべての子どもに、ある「お腹が空いた」場合に「押す」ボタンを与える。その子どもは、いつでも、お腹が空いたら、そのボタンを押す。すると、そのアラートを受けた機関は、すかさず、そのアラートを発信している場所に、パンとハムとサラダと牛乳を届ける。こちらははどうしてもお腹が空いて動けないような場合に、救急車的な意味で、食事を「届けてくれる」というのが特徴である。
  • 中期的アプローチ ... それなりに体力がある場合は、近くの「無料食堂」に自分で来てもらう。すると、まったく店員と顔を合わせることなく、定食のセットのプレートを、無料でもらえるので、近くのテーブルで、それを食べて、食器を洗い物置き場に置いて帰る。こちらの特徴は、御飯、味噌汁、焼き魚、納豆、といったような「普通の日本食」だということであり、それなりに料理をしなければならないが、それなりに栄養を考慮したものになっている、ことである。

緊急的アプローチは、最初のトリガーである。これによって、子どもは自分が飢えそうになったら、助けてくれる人たちがいることを知ることになる。また、このタイミングで、その子どもに、中期的アプローチの方の「食堂」で、いつでも、普通の日本食を食べに来れることを啓蒙してもらう、という啓蒙を受けることが求められるであろう。この子どもが、覚えるのは、その無料食堂に行く「道順」であり、これさえ覚えられれば「生きていける」というわけである。
この二本建によって、日本から「飢えた子ども」を失くそう、というプロジェクトである。
ここでの特徴は、なるべく「子どものプライバシー」を尊重しよう、というところにある。食堂に来たことが、近所に知られることで、変な「噂」になるなら、来るのを嫌がるなら、迎え入れる側が、お客に干渉しなければいい。
このシステムを成立させる資金は、「寄付」である。日本の全ての子どもが「飢えるべきでない」と思う人が、このシステムに寄付をする。といっても、多少、お金に余裕があるなら、月に一万円くらい寄付をしてくれれば、かなりの強力なシステムが全国にはりめぐらせられるであろう。まあ、日本から飢えた子どもをなくせることを考えれば、これくらい安いものであろう...。