フィリッパ・フット「ニーチェ----価値の再評価」

ニーチェキリスト教批判は、考えてみると、少し変な感じがしてくる。
というのは、彼がここで「キリスト教」と呼んでいるものと、彼がここで論じようとしている「一般論」とが、整合的ではないからだ。どういうことかと言うと、ニーチェは、確かにキリスト教をさまざまに批判はしているが、具体的に、誰のどんな発言が問題なのか、といったソース(=エビデンス)を示した議論になっていない。
しかし、もしもこれが古代ギリシアの話であったなら、絶対にそんなことはないはずだ。誰が言った、どんな発言が問題だったのかを、「文献学」的に批判をするであろう。
ということはどういうことかと言うと、ニーチェは、キリスト教を、

  • 自らの身の回りに「いつも」あるもの

として言及しているわけである。つまり、ニーチェにとって、キリスト教

のレベルの話なのだ。彼の生きている回りにおいては、この「キリスト教」の彼が指摘する欠点は「自明」なのだ。それは、彼の回りの人たちの視点においても、ニーチェは、彼らも同じように感じているだろう、ということを当然のこととして論じている。

キリスト教的な徳を公言する者は、ニーチェによれば、病人であり、自分と他人に対して深く敵意を抱いている。そのような者は、あるがままの生を否定し、自分の身体を軽蔑し、そして自らの理想の名の下に自分と他人を苦しめるように教えられて育ってきた。これらの理想さえもが健康によくないものである。なぜなら、その理想の下で説かれるのは同情であり、ニーチェは同情そのものが病気の一種だと考えるからだ。彼は、憐みはあらゆる犠牲を払ってでも避けられるべき誘惑であると言う。彼の考えでは、憐みは同情深い者にとっては毒の一種であり、そのような者には他人の苦しみが伝染してしまう。「他人の苦悩は私たちに伝染する。同情とは一つの伝染である。」(WP 368 翻訳三五五頁)。しかも彼の考えでは憐みによって苦しみが和らぐことはない。ときどきそういうこともあるかもしれないが、より多くの場合、我々の同情の対象となる者は我々の干渉によって苦しむことになる。その者は第一に我々が彼を助けようとしているという事実によって苦しめられる。「悩んでいる者の悩んでいるさまを見たことを、わたしは彼の羞恥のゆえに恥ずかしく思った。また、わたしが彼を助けたとき、わたしは彼の誇りをひどく傷つけた」(Z2「同情深い者たちについて」翻訳上巻一五七頁)。「わたしが思うに、最善の意図を持った人間でさえ、もし彼がその精神と意志とが彼らかは隠されている人々に対して不遜にも利益を与えようとするなら、測り知れない危害を与えることがある......」とニーチェは一八八五年に彼の妹に宛てた手紙の中で書いている(Walter Kaufman [ed.], The Portable Nietzsche, New York, Viking, 1956 p.441 に引用)。またニーチェは、非常に慈悲深い行いの背後にはよい動機があるとも考えていなかった。慈善的で世話好きの人々は「困窮者をば意のままに所有物を処理するがごとくに取り扱う。......彼らは助力が妨げられたり、だしぬかれたりすると嫉妬する」(BGE 194 翻訳一六六 - 一六七頁)。しばしば、他人への関心はその者が自分自身に対して不満を抱いていることを示している。愚鈍な者は隣人の不幸を見て自分を元気づけようとし、また自己評価の低い者は彼が利益を与えた者から良い評判を手に入れようとする。ニーチェは他人に専心することは逃避であり、精神的な不健康の兆候だと考えた。重要なのは「我慢して自分自身のもとにとどまり、いたずらに彷徨せぬために」自分を愛することえある(Z3「重力の精について」2 翻訳下巻九二頁)。自分を愛する者こそが最も真の意味で他人に利益をもたらす者となり、自分自身が喜びに満ちた者は他人に苦痛を生み出す方法を忘れてしまうだろう。

ニーチェキリスト教批判は、具体的な、あるキリスト教の信者の、具体的などの発言のどの部分が問題なのか、という形で問題が構成されない。その人の、どういった部分を、どのように直せば、ニーチェも認める立派な人になるのか、という形で議論が形成されない。ニーチェは、そういった個々具体的な「キリスト教」について、何かを述べていない。彼はただ、

  • 分かるだろ?

と身の回りの人たちに尋ねているだけなのだ。俺と同時代を生きて、同時代の回りのキリスト教を見ていれば、同じ感想を抱くよな、と。つまり、ニーチェキリスト教は「現実」として、さまざまに欠点がある、と言っているだけなのだ。
しかし、現実が理想通りになっていないのは、ある意味において「当たり前」であろう。理想と現実が違うのは当たり前。じゃあ、なぜニーチェはこんな「当たり前」のことを言っているのか?
例えば、私たちが古代ギリシアについて論じるとき、それは、言わば「理念」としての古代ギリシアについて考えているに過ぎない。なぜなら、もう私たちは、古代ギリシアに遡って生きることはできないから。つまり、なんらかの「文献学」的なアプローチを行うことによって、ある「概念」的な操作によって、考えることしかできない。
つまり、一つ一つを「理ずめ」でやるしかない。ソクラテスという人物について述べようとするなら、まず、ソクラテスという人物が存在したこと、ソクラテスが述べたとされる言葉を文献として残しているもの、といったように、こういった「エビデンス」から、その人物の、ある意味における

  • 理念

を構成して、その相互の関係を考えるしかなくなる。
対して、ニーチェキリスト教について述べるとき、彼はこういった「理念」による手続きを行わない。
ニーチェが「キリスト教はこれこれこうこうだ」と述べたとき、何を言っているのかというと、

  • 統計的に、そういった傾向性が証明できるんじゃないかな?

と推測しているに過ぎない。つまり、具体的にそうでない人がいるかもしれない、ということまで考慮する必要を考えていない。
例えば、ある飢えて死にそうな人がいたとき、あるキリスト教の信者が、その人に、食料を恵んだとする。そうした場合、その食料をもらった人は、たとえ、そのキリスト教の信者が何を考えていたとしても、単純に

  • 助かった

ということになるのではないのか? ようするに、キリスト教が実際問題としてなんだとしても、その助かった人にとっては

  • 関係ない

わけである。例えば、次のように考えてみよう。日本の児童擁護施設に、「タイガーマスク」と名乗る、匿名の寄付が届いた。もしもこれを

が行っていたとしよう。そうした場合、やっぱり、ニーチェは「寄付を行ったキリスト教の性根が腐っている」とか言うのだろうか?
ニーチェは、一方において、キリスト教を「奴隷道徳」として忌み嫌うが、ではそのアンチテーゼとして礼賛されているものがなにかというと

  • 超人(=貴族)

ということになる。しかし、ニーチェの言う「超人」とは、「理念」である。もっと言えば、ルソーの「自然人」だと考えてもいい。しかし、これらは具体的な誰か、ではない。つまり、ニーチェは、

  • 現実(=存在=自明性=日常)...キリスト教
  • 理想(=理念=理論的構成物)...超人=ルソーの自然人

という、まったく別の次元のものを比べて、議論をしているわけである。
ニーチェキリスト教批判は「経験論」である。ところが、ニーチェの「超人」論は「論理学」なのだ。つまり、次のような構造が存在する。

  • もしも、ニーチェの回りにはキリスト教(=現実)ではなく、「超人」教が存在したなら、ニーチェは彼が批判したキリスト教に対して行なったように、その「超人」教という現実に対して、理念的に批判したであろう。
  • もしも、ニーチェの回りにキリスト教がなかったなら、彼は「理念」としてのキリスト教を考え、その「良い」側面について、多くの考察を行ったであろう。

しかし、こういった「形而上学」は、ずっと、いつの世にも繰り返されている、と言えるのではないだろうか。最近では、「サヨク」とか、「憲法九条」に対する批判が、まさに、ニーチェキリスト教批判と同型のものとして繰り返されている。
彼らは、「サヨク」や「憲法九条」が

  • 偽善

だから許せないと言っているに過ぎず、それに対抗する何かがあると言っているわけではない。とにかく、

だから、いくらでも、これらを腐す言葉を思いつく。まさに、「脱原発」とか「放射脳」といった非難にも通じる。
現実は汚れている。キリスト教は現実に、私たちの身の回りに存在する。だとするなら、キリスト教は「汚れている」。この「汚れ」は、いくらでも指摘できる。まあ。早い話が、現実の醜さを「探す」ことは、だれにとっても、容易だ、ということなのだ。
しかし、理念としての「汚れ」について考えることは難しい。
しかし、他方において、ここには一定の真実がある、と考えることもできる。
ニーチェが「同情」を批判するとき、「同情」が「有害」だからというより、同情が

だから、と言っている側面が強い。つまり、ニーチェにとって、同情とはほとんど必ず「嘘」になるのだから、だとするなら、そんなことは止めるべきだ、と言っているわけである。
ところが、である。
プラグマティストのリチャード・ローティは、むしろ「同情」によって、社会を構成すべきだ、と言う。こうした場合、彼にはすでに「同情」へのニヒリズムはない。なぜなら、彼にとっての同情とは

  • 一握りのエリートによる「同情」

なのであって、すでに一般ピープルのことは眼中にないからだ。彼は、ニーチェを乗り越える。ようするに、この世界は一部の「詩人」たちによって作られているのであって、世界がエリート様によって、維持され、健全に保たれていることは当然の事実となる。そういった特権的な「エリート=芸術家」が、そういった「同情」を行うことによって、

  • 世界

は維持される。つまり、彼においては議論が「反転」しているわけである。ニーチェが批判した「キリスト教」は、奴隷道徳だったから悪であったが、すでに、ローティにおける「リベラリズム構想」においては、

  • 特権的エリート=芸術家

だけが、世界を牽引する役割を与えられ、そういった「超人」である限り、

  • 健全な「同情」

が成立することが自明となる。つまり、彼らゲーテッド・コミュニティでお金持ちたちでお互いの「徳」を褒め合う世界においては、

という、ニーチェにとって、本来ありえないような「善」が、

  • ほんの一握りの特権的な「エリート」集団

内においてだけ、「成立」する、というカラクリになる。こうやって考えると、ニーチェキリスト教批判は、現代におけるローティの「リベラリズム構想」批判の文脈において、やっと意味が見えてきた、ということになるのであろうか。やれやれである...。

徳倫理学基本論文集

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