ロバート・ブランダム『推論主義序説』

前回、セラーズの論文から、センスデータ問題なるものについて言及した。確かに、私たちは外界を知覚して、その「データ」を元に生きている。
しかし、このように言及してみたとき、ある「仮説」が、まるで「自明」なことであるかのように、私たちの認識を支配しているように思われる。それを、ここでは「デカルト問題」と呼んでおこう。
なんのことかというと、私たちがこの外界を知覚したとき、それを、まるで「言語に媒介されていない」「人間の理性(=思考活動)」とは切り離して考えられる何かであるように扱おう、という、ある種の「イデオロギー」である。
この「イデオロギー」は、基本的にカントの純粋理性批判においても踏襲されており、まるで、「時間・空間の感覚形式」といったものは、一つの「次元」の話であるかのように、独立に扱うことが一般的になっている。
しかし、本当にそうなのだろうか?
なぜ私たちは、このような「二元論」を行っているのか。それは、言わば、「動物のアナロジー」だ、ということになるであろう。確かに、動物は人間が使っているような「言語」を話していない。そういう意味において、動物は「人間的ではない(=理性的ではない)」と言いたくなるのであろう。ということは、上記のカント的二元論における「時間・空間の感覚形式」は、人間の理性とは

  • 独立

に存在するのではないか、とどうしても思えて仕方がないわけである。
それはまさに「実感」のレベルのことなのであって、今、自分が目の前に見ている「もの」はまぎれもなくあるわけであり、その「リアル」は、だれにも否定できないことなのであって、どうしてこれを「疑う」ことができよう、というわけである。
これと似た問題として、ここでは「ヒューム問題」と呼んでおこうと思うものがある。それは、今度は「欲望」を考えるわけである。私たちの欲望や選好といったものは、まぎれもなく、私の中から「湧いて」くるわけであって、この「実在」を疑うことはできない。これが「ある」ことは間違いないわけなのであって、つまりこれらも、人間の理性とは

  • 独立

に「ある」と呼はずにはいられないんじゃないのか、というわけである。
ようするに、どういうことかと言うと、こういったものを私たちは「意味」と言ってきたわけである。
なぜ「意味」は、疑わしいのか?
このように考えてみてほしい。私たちは、今、どう考えても「リアル」に思える「もの」がある。目の前にある時計だったり、コップだったり、紅茶だったり、スマホだったり、コートだったり、それらが目の前に「リアル」に「ある」と思えている。
また、今、なにかの本が欲しいて思っているその「気持ち」であったり。夕食を食べたいと思っていたり、セックスをしたいと思っていたり、そういった「気持ち」が、間違いなく、自分の中にある、と思えている。
もちろん、そういった「こと」を疑っているわけではない。そういったものが「ない」と言いたいわけではない。
そうではなく、まるでそういったものが、人間が行っている「さまざま」な言語活動と

  • 独立

して、まるでそういったものの活動から「隔離」されているかのように、独立自尊に「活動」しているようなものであるかのように考えることが「幻想」であり「イデオロギー」だ、と言っているわけである。
それらは分けられない。
私たちは言語活動と「独立」に、なにかができると思ってはならない、ということなのである。言語活動と「関連しない」人間の「能力」がある、と思うことが、危険なわけである。
常に、「あらゆる」感覚や「あらゆる」欲望は、人間の言語活動によって「汚染」されている。そもそも、「それなし」になにかがありうると考えることが、どうかしている。

いかなる種類の推論主義も、表象主義的な順序による意味論的説明へのコミットメントとしばしば手を携えて進む原子論とは異なり、ある種の意味論的全体論にコミットしている。というのは、もし各々の文や語で表現されている概念的内容が本質的にその(広く解された)推論的関係に存している、ないしは(狭く解された)推論的関係によって文節化される、と理解されるならば、人はなんらあの内容を把握するために、それと同時に多くの内容を把握していなければならない。そのような全体論的な概念役割に注目する意味論のアプローチは潜在的に二つの問題、すなわち、信念およびさまざまな推論の性質へのコミットメントが変化する際の概念的内容の安定性の問題と、異なる主張および推論を支持している個人どうしの間のコミュニケーションの可能性に関わる問題に直面している。しかしながら、もし人が概念をさまざまな移行の正しさを決定す規範として考えるならば、そのような心配が差し迫ったものだと考える必要は小さくなる。"モリブデン" という語を使用することで、私が自らをそこに拘束している規範----概念の適用可能性から何が導かれるか、あるいは、それと両立しないのは何か----は、モリブデンとその推論的な環境に関する私の見解が変わったとしても変わる必要はない。そして、あなたと私は、異なる主張や推論的移行を行う傾向性を持っているという事実にもかかわらず、近傍では全く同じ公共的な言語的、概念的規範に縛られていると言えるだろう。理由を与え求めるというゲームにおいて、語タイプモリブデントークンを用いてプレイするかどうかは私にかかっている。しかし、その一手の意味が何であるかは私にかかっているわけではない。(そして、もしそのようなトークンを内的に、思考の中で動かすとしても、事情は本質的に異なるとは思わない。)

私が何を言いたいか、お分かりであろうか。
デカルト問題における「センスデータ」にしても、ヒューム問題における「欲望」にして、その「意味」を、

  • 私たちの内的世界において泉のように湧いてくる<源泉>

として、この世界を「自明性」において「構成」する、世界イメージは、早い話が「情報量的に限界がある」わけである。
よく考えてほしい。
私は科学の分野の中でも、特に、化学の知識がない。そして、化学の専門家たちは、おそらく毎日のように、彼らが「指示」する専門用語を使って、日々会話をしているであろう。彼らにとっては、それらの専門用語は、

  • ハイコンテクストな文脈

によって、「推論」されるものなのであって、そもそも、こういった文脈を共有できていない人が、彼らの会話を理解することは難しい。しかし、だからといって、私たちは彼らと、それらの専門用語を介した会話を行うことは「不可能」であろうか?
不可能だと思うのは、上記の「意味」論的な、デカルト問題的、ヒューム問題的な、「内的実感」主義者の態度なのである。
私たちは実際に、こういった専門家と、意見を交している。例えば、ある専門雑誌の論文があるとする。私たちは、とりあえず、その論文の「字ずら」を眺めて、その「推論」過程を理解する。私たちは、その「推論」の文脈に応じて、専門家と会話をする。
その場合、重要なポイントは、上記の引用にもあるように、

  • 私の「解釈」が、たとえ「将来において変わった」としても、上記の会話の「文脈」には、「なんら影響しない」

ということなのだ。つまり、この会話は、引き続き「情報量的な価値を保持する」わけである。
この議論は、どこか、この前のメイヤスーの「実在論」にも似ている。
つまり、「感覚」や「欲望」は、「非理由律」によって、超限順序数によって「発散」する。しかし、集合の濃度が発散するということは、必然的に「非全体化」されていると解釈せざるをえないという訳で、なにかがおかしい、ということになる。
大事なポイントは、それが「実際に何なのか」ではなく、それを指示することによって、私たちは

  • 実際に何を行っているのか

にある、ということである...。

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

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