女の「構造」

小保方さんの手記が出版されたとのことで、世間的には、もう一度、STAP細胞の議論が蒸し返されている印象がある。しかし、そのこととは別に、いわゆる「小保方現象」とはなんだったのか、といった視点が、今でも一つの疑問として続いている、ということなのではないか、と思っている。
彼女の手記の出版とほぼ期間を同じくして、週刊文春は、「三人の女」にフィーチャーした記事を書いた。つまり、自殺した笹井さんの妻であり、小保方が手記で糾弾している若山教授の妻であり、毎日新聞記者の須田さんである。この記事を読んだ印象として、笹井さんの妻が、生前に夫が何度も小保方さんは科学者に向いていないと言っていて、遺言の意味も、そういうことなのだったと言っていることであろう。
つまり、一方において、小保方さん擁護派の主張には、二つの矛盾した主張があった。一つは笹井さんを「自殺」に追い込んだ、つまり、笹井さんという貴重な天才を死に追いやり、貴重な日本の財産を毀損したのは誰だ、といった側面と、小保方さんは世間から「女性差別」をされている、という側面と。
それに対して、当事者の「自殺した恩師の妻」を呼び出してきたわけである。つまり、言うまでもなく当事者である妻は、夫が生前、何を自分に話していたのかを知っている。そうなれば、その主張は一定の「正当性」を帯びてくる。
つまり、どういうことか?
私たちが、ある意味において、この「小保方現象」なるものに違和感をもつのは、いわゆる、世間的な「物語」の構造に多くの人が「反応」している、一種の「ミーム」的現象のように思えて仕方がないからであろう。
つまり、ここにあるのは、典型的な「男の(家庭をもっている)上司」と、「女の部下」の(不倫「的」な)関係である。
例えば、アニメ「蒼の彼方のフォーリズム」で言うなら、明日香ルートということになるが、ウィキペディアを見ると、雑誌のアンケートでキャラの人気投票で、明日香は三位であり、みさきが一位、真白が二位、という形で、実質的なメインルートのヒロインでありながら、人気で劣っているのはなぜなのか、ということになる。
明日香は、急に「フライングサーカス」というスポーツを始めた、いわば「無限のポテンシャル」を秘めた存在として描かれているわけで、こういったどこか「現実離れ」した存在は多くの場合、共感を呼ばない。しかも、いわゆる「天然系」というのは、生活目線の「リアル」さからすれば

  • あざとい(=ふりっこ)

と見えるわけで、よけいに反感を買う。
それに対して、みさきの場合は、言わば「枯れた才能」といった感じで、なんでもできてしまうといった天才肌に嫌味を感じながらも、明日香のような「無限の可能性」に嫉妬し、自らの「壁」に悩んでいる姿が共感を呼ぶ。しかも、決定的なのは

  • みさきは昌也の「幼ななじみ」

ということであって、一種の「正妻的ポジション」にありながら、明日香はその座を奪おうとする「空気読めない系」の「うざさ」みたいな関係が透けて見えてくるわけである。
明らかに、この作品で描かれていない、「作品で描かれていない前日以前」には、昌也とみさきの、「じっくり温めていた幼馴染的なポテンシャル」が秘められていながら、そこに、明日香という「空気読めない」キャラが、その関係を、脇からぶち壊そうとしているように思われる。
みさきは、ある意味において、自らの「正妻」の座が奪われるという危機感から、一度は「あきらめた」、「フライングサーカス」というスポーツの座に戻ってくることになる。しかし、彼女が「あきらめた」のは、言わば、自分のポテンシャルの限界に気付いたからであろう。それに対して、「絶対的」魅力を放つ明日香の登場は、言わば、「負け戦」に再び挑まざるをえなかったみさきの、どこか「けなげさ」を意味するわけで、生活者目線で「リアリティ」を求める世間の、圧倒的な人気につながっている、ということなのであろう。
それに対して、小保方さんの主張の特徴は、なんだろう? 恐らく、彼女の「若山教授糾弾」の姿勢にある、と言えるのではないか。つまり、なぜ明日香は「天然系=空気読めない」キャラでありながら、まだ、比較的上位の三位に甘んじられているのかといえば、それは、

  • コーチ(男)と弟子(女)

の基本的なフレームをはみだしていないから、なわけである。ようするに、このフレームにおいては、世間的には超えてはいけない「ルール」がそこにはあると思われている。つまり、明日香が「許されている」のは、このフレームを彼女の方から壊そうとしていない、というメッセージが世間的なバッシングを規制している。
つまりこの場合、絶対に、この「禁を犯す」のは男の側でなければいけない、というメッセージなのである。もしも昌也が、「その魅力にあらがえなく」なり、明日香を選ぶことは、世間的な「ルール」としては「しょうがない」ということになる。つまり、この場合、みさきは「あきらめなければならない」と。しかし、もしも明日香が、「あえて」自分の女という武器を使って、昌也を「てごめ」にしたなら、それは「ルールを破った」ということになり、糾弾の対象となる(そういう意味において、明日香は天然キャラで「なければならなかった」わけである。そうでなければ、世間的な「許し」を得られなかった)。
小保方さんは、この「世間的なフレーム」に収まらない行動をしている。つまり、

  • 昔の男の糾弾

である。ここで考えてみよう。ある男の大学教授がいるとする。こいつは、才能も枯れてきて、世間的な評価も下がり始めてきていた。そこに、優秀な学生が、彼のゼミに入ってきたとする。この教授は、「これ幸い」とばかりに、この優秀な学生が生み出す「業績」を次々と、

  • 自分の成果

として、学界に発表する。彼女の名前など一行も出すことなく。いわば、彼女は「泣き寝入り」である。
しかし、よく考えてみよう。
世の中なんて、こんなことばかりじゃないだろうか? 小保方さんに冷たい発言を行っているインテリ連中には、こういった立場の連中が多いように思われる。こういった連中にとっては、世間など言わば、自分の出世のための道具にしか思っていない。役に立つ間は「ちやほや」するが、才能が枯れたと思ったら、途端に「ポイ」。
しかし、それに対して、小保方さんは「反抗」してきた。つまり、若山教授を「糾弾」し始めた。つまり、こういったインテリ連中は、まるで、自らの今までの「罪状」が糾弾されているように思われて、恐怖しているわけであるw
このように考えたとき、こういった「芸能界」的なネタに、あまり真面目に反応するのは、問題が多いのではないか、と思われてくるわけである。例えば、ここのところ騒がれている「ベッキー問題」にしても、確かに彼女は記者会見の場で嘘をついたのかもしれないが(まあ、CMのスポンサーなどの関係で芸能界の慣例で、お決まりの嘘を言わされたのであろう)、それ以上に、彼女に対する「炎上」は、世間的には、自らの「当事者」としての立場として、「不倫反対派(=正妻や子供たち)」と「不倫容認派(=今実際に不倫を行っている女たち)の

  • 代理戦争

の様相を示している。つまり、ベッキーを「許す」か「許さない」かは、もはや、世の中的な、あるべき「ルール」の話ではなく、当事者として、

  • 自分の<今>の有り様

を「世間に認めさせる」ために、隠喩的に使われるジャーゴンの様相を示しているわけで、どうやっても譲れない、なにかの「印(しるし)」と化してしまっている、ということなのであろう...。