私たちが「インターネットを見る」と言うとき、それは一体、何を行っていることになるのだろうか?
例えば、電子メールを考えてみる。なんらかのメーラを使って、私たちはメール・プロトコルに準拠した方法で、メールアドレスを作成して、自分に届いたメールを眺め、必要に応じメールを作成して、誰かに送る。
しかし、ここで問題が発生する。
私に届いたメールとは何なのだろうか? 言っている意味が分かるであろうか? 私は確かにメールアドレスを作った。しかし、このメアドに届くメールは、別に、私が自分に届くのを待っていた何かではない。そのメールはおそらく、なんらかの偶然によって、相手が私のメアドを見つかたか、ランダムに作った文字列が、たまたま、私のメアドであり、送ってみたら、送信エラーにならなかったという理由だけから、ずっと私に送られている何かなのかもしれない。
それは例えば、私たちが森に茸をとりに行く場面を考えてみるといい。私はここで茸がほしい。しかし、だからといって森には茸「だけ」があるわけではない。そこは一種の「生態学」的ん「環境」なのであって、さまざまな「ノイズ」に満ちている。しかし、なぜ私はそんな「茸以外のもの」について、ここで考えなければならないのか? もしも、茸が欲しい「だけ」なら、森になど行かずに、近くのスーパーなり、アマゾンの配達などを利用すればいい、ということになる。
私たちは「自分のメール」を見るという行為を行うことによって、実際は何を行っているのか? そこには大量のスパムがあり、まさにそういった「生態学的環境」の中から、
- 私たちが<期待>している見たいメール
を、まさに「茸」を森から探すように探して読んでいる。つまり、なんでこんなことになっているのか、ということなのである。
(もちろん、そう言うと、多くの人は今では、さまざまなスパムフィルターによって、そういったノイズは見えない設定にしてあるから、不快に思っていない、と言うかもしれない。しかし、言うまでもなく、そういったベイジアン統計的手法を使ったスパムフィルターは完全ではない。つまり、完全ではないという時点で、メールはすでに、本当の意味での、「意志伝達」としての役割を終えた、ということを意味しているのであろう。つまり、近年では、特に、懇意にしている人からの意志伝達においては、SNSを使う方が主流になっている。しかし、そのことが別に、最終解決だと言いたいわけではない。ツイッターにはツイッターの「スパム」が存在するし、上記で考察した構造は変わっていないわけである。)
私がここで「期待」しているのは
- 私が「期待」している何かを見る
ことである。ところが、「なぜか」それは、実現しない。というか、なぜか私は「それ以外」のことを、それを行うために行わさせられている。私は「なぜか」、スパムの森の中から「自分が期待している」メールという茸を「探す」という「冒険」をさせられている。こういった行為は言うまでもなく、自分が別に「読みたいと思っていない」なにかを、必然的に読むという行為を行うことなしには実現できない。
しかし、なぜ、こんなことになってしまったのだろうか...。
それは、つまりは、インターネットの構造に関係している。
メール・プロトコルの構造は、そもそも、「善意」を前提にして作られている。人々は「他人に迷惑になることはやらない」という、だれもがだれもを思いやっている世界を自明としている。だから、その、みんなの「善意」を逆手にとった「迷惑行為」を、だれかが行うということを想定していないわけである。
怒りはUsenetが生み出したアンバランスから生じた。メッセージを自分のマシンで送信するのには手間はかからない。そこからUsenetへ送られるわけだが、受け取る他の利用者には料金、ディスクスペース、逸失利益、注目といったコストがかかる。たとえばアムステルダム大学数学計算機科学センターのピート・ベールテマとテウス・ハーヘン----誰かが部局の電話料金請求書に目を留めたらその結果を実際に引き受けなければならなかった人々----の見方からすると、ニューハンプシャーにあるマシンから出た新しいUsenetの記事を受け取るには、六USドルに相当する費用がかかるということだ。分量が大きいということだけでも、当時の三〇〇ボー[おおまかに言えば、毎秒三〇〇ビット(メガもキロもつかない)]のモデムで長時間かかったあげくに受け取ったメッセージに、自分はどう応じればよいのか。ディスクスペースにも限りがあったので、管理者はメッセージを削除せざるをえない(あるいは、アーカイブ用のテープに落とさざるをえない。こうした会話のほとんどを今でも見られるのはまさしくそのおかげだが)。量が増えてくると、一日か二日ログインしないと新しい内容を見逃しかねないということになる。次々と新しくなる内容に場所を空けるために消えることになり、見逃した会話についていこうと試みるはめになって、端末の使用時間をめぐる競争はさらに厳しくなる。このように資源をめいっぱい使うメッセージとは、いったい何だったのか。
つまり、上記の問題はインターネット黎明期から「すでに」存在していた、いや、そもそも、人類が誕生した時から存在していた
- 迷惑行為
という何か、だというわけである。
インターネットはそもそも「善意」を前提に作られている「ユートピア」であり「フロンティア」である。こういった場所において、
- 法律に反してなければ、何を行ってもいい
と言うことは、上記の「スパム」も認めなければならない、ということになる。しかし、認めるもなにも、事実として今でも「スパム」行為は非常に広範囲に行われていて、どう考えてもこれを送っている人は「相手はこんなもの見たくもないと思っているだろうな」と思いながら送っている(というか、コンピュータのボットに自動で送らせている)。
しかし、多くの人は、そういった「迷惑行為」を、かなり「恣意的」に判断して、使い分けていると言えないこともないわけである。
例えば、ツイッターで自分が書いた本の宣伝をしている人がいるが、私たちは本当にその「買え買えツイート」が見たくて、そのアカウントのフォロワーになったのだろうか? もちろん、そういったツイートをしている著者の人にとってみれば、その商品が売れるかどうかは、自分の生活がかかっているのであろう。しかし、なぜそのことに、他人が「コミット」しなければならないのか。
それは、今までのテレビや雑誌や新聞といった「大手マスコミ」の文脈においては、
- 宣伝
と呼ばれてきた行為なのではないか。つまり、まさに受験シーズンになると受験生に毎日、大量に送られてきた「ダイレクトメール」と同じように、それはやはり「スパム」なのであって、本来ならこういった「ステマ」行為は、ネット環境から撲滅されなければならないはずなのである(おそらく、本質的な解決としては、なんらかの「宣伝」的な意味を含意したツイートは、今のツイッターの機能でも実現している、不適切な画像の非表示と同じように、なんらかの「宣伝タグ」によって印付けされることによって、「パーミッション」がない限り、表示されない、といったような機能が必要とされているのであろうw)
このように考えてくると、本当にインターネットを「行う」ことは、私たちにとって、必須の「日常」なのだろうか、といった疑問がわいてくる。
例えば、科学者は言うまでもなく、科学雑誌の論文を読んでいる。そして、それで必要十分なわけである。科学雑誌は基本的には、科学者集団がレビューを行い、ノイズを雑誌に載せないように「善意」によって行われているので、基本的には科学雑誌を読んでいる科学者は、そういった「ノイズ」を毎日読む苦行から逃れられている。
これで十分なのではないか?
人生は短い。私たちが文章を読める量も時間も限られている。もちろん、その行為自体がエネルギーを使い疲労する。どうやって自分の本の宣伝ばかり行っている、スパム・ツイッター・アカウントを撲滅していくか(そういった連中に、意味のある「公共的」なツイート「だけ」を基本的には、ツイートさせるのか)。まあ、なんとかして、ネットを「宣伝」の場所として使っている連中の「非公共的行為」を撲滅させていくのか、ということになるんだけど、まあ、そもそも「スパム」って、人にとって、生活がかかっていますからねw 自分が生き残るために、スパムをばらまく。社会に「ゴミ」を生産し続ける。まあ、こういった非生産的な行為を
- 自分は特別
と思っている連中がい続ける限り、彼らの「ゲーム理論的」な戦略によって、スパムは生まれ続ける。まさに、「法律で禁止されていない限り、なにをやってもいい」の世界、というわけである(いかに、こういった連中がインターネットという「善意を前提にした世界」にいて、黎明期から「歓迎されていなかったか」を理解していない、というわけであるが)。
インターネット上の「コンテンツ」に「ゴミ」記事を吐き出し続けることは、私たち「アマチュア」主義者の宿命である。しかし、もしも私たちに少なからずの「公共心」があるなら、まったく他人には関係のないことを、
- だれもが見る
公共的な場所に、わざわざ書く必要があるだろうか? もしもそうなら、フェイスブックやラインで見られる範囲をプライベートな範囲に限定して行えばいい、と言えなくもない。ようするに、私がここで言いたいのは、「それ」を「公開」するという「行為」が
- なんらかの<効果>を狙って
のことであるなら、その効果を限定して行使するのは、基本的な公共心の前提なのではないか、ということである...。
(人によっては、そういった「ごみツイート」を読みたくなければ、フォローしなければいい、と思うかもしれない。しかし、そういうことではないわけである。つまり、そういったツイートを行っている人は、多くの場合、それなりの社会的ステータスもあり、その専門性によって、ある「役割」を期待されているわけで、実際、そういう人は、ある場合には、その役割の期待に、あたかも応じているかのような「公共的ツイート」を行っているわけで、そういった「役割」を期待しているフォロワーに、ステマ的ツイートを「セット販売」しているのは、一種の「スパム行為」だと言っているわけであるw)
- 作者: フィン・ブラントン,生貝直人,成原慧,松浦俊輔
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