戸田山和久『科学哲学の冒険』

そもそも、科学とは何か、という命題と、世界は実在するのか、と言った場合の「実在」という言葉を、ほとんど同じ意味で使わなければならない、というのは、どういう意味なのだろうか?
科学とは、ある人間集団が行っている知的な実践であって、それが「何なのか」という問いかけは、本来意味がない。というのは、その実践そのものが何ものかを結果している、ということが言えるだけなのだから、将来において、今の考えでは、まったく思いもよらなかった「科学の実践」が行われているかもしれない。そして、その場合に、それと、現在において行われている「科学と呼ばれている実践」が同じ何かを説明できる、ということが担保されなければならない、といういわれもない。
そういう意味において、「科学哲学」という言葉は矛盾している。科学は「実践」である。その科学が「何である」と言うことは、科学が実践であることと矛盾している。
おそらく、この困難に関係することで、この本において、科学を「実在」という用語と不可分に結びついているものとして説明しなければならないような、不思議な「義務感」になって、徒労な努力が行われている、という印象を受ける。
ある意味において、「実在」という言葉は、バズワードである。つまり、意味不明なのだ。というのは、最初から、人間は「観測マシーン」だと認めているわけであるし、その「観測」とか経験のことなのだから、「実在」という言葉を使う限り、

  • 経験と「実在」の<関係>

がどうなっているのかを説明できなければならない。つまり、ここに、ある種の「モデル」を、どこか「形而上学」的に用意できなければならない。そういう意味において、「実在」論者の主張は、どこか、プラトンの「イデア」論者と、あまり、違いがなくなる。
しかし、逆にこんなふうに言うこともできる。確かに、「実在」という言葉は、バズワードだ。しかし、実際の科学の実践においては、この世界のさまざまな「現象」は、科学的に説明できている。だとするなら、そこには、こういった「整合性」を説明するような、一つの「仮説」を考えることは、それほど実践的にも不思議はないのではないか、と。

ファン・フラーセンの考える科学の目的は、「経験的に十全な(empirically adequate)」理論を作ることなんだよね。で、「理論が経験的に十全である」っていうのはどういうことかと言うとね、その理論から導くことのできる、観察可能な領域についての主張がすべて正しいっていうこと。

え、ファン・フラーセンが真理の追求は無理じゃないの?って言いたくなるもう一つの理由を推測することで今日は勘弁してほしいんだけどさ、それは、彼が物理学の哲学を専門にしていることに関係があるかもしれないと思うんだ。反実在論にいちばん好都合なのは、物理学、とりわけ量子力学だからね。なぜなら、量子力学は、レーザーとかテレビとか技術にうまく応用できることは誰も否定しないけど、その基礎的な方程式が何を意味しているのかという解釈については今でも議論の最中なんだ。だから、量子力学の理論が「世界はどうなっているのか、何があってどんなに振る舞っているのか」についてどういうことを言っているのかを決めるのは後回しにして、とりあえず現象にだけ注目してどんどん科学的探究や技術的応用を進めていくというやり方もアリだ。こうなると、必ずしも科学の目的は世界の正しい描写を与えることだと言わなくてもいいような気がしてくるよね。

おそらく、科学の「実在」論の「うさんくささ」が、多くの人にとって分かりやすいのは、量子力学なのであろう。量子力学は、そもそも、私たちの「経験論」と比べても、はるかに「小さい」世界の法則である。つまり、

  • 私たちの「経験」の「イメージ」が通用しない

のだ。明らかに、コペンハーゲン解釈にしても、そういったマクロな人間の「経験」の直観の延長で説明ができないような、異様な印象を受ける。
どうして、こういうことになるのか?
つまり、私たちが「ある」と思っている何かは、こういった人間の経験の「延長」に想定されるような「もの」に対してであって、そういった直観に反したものに対して、それを「ある」と言うことを、私たちは感覚的に反発している、ということになるのであろう。
しかし、なぜかこの量子力学が、さまざまな工学的応用の場面で、有用に機能してきている現実がある。だとするなら、そもそも、そういった「実在」とか、ひとまず、どうでもいいこととして、こうやって「道具」として、使えるなら、それでいいのではないか、というのが、上記の引用の言いたいことなのであろう。
とにかく、ある量子力学的現象を、機械を使って「測定」したら、それに対応した「方程式」の計算結果と「整合性」をもつ(誤差の範囲で、一致する)。だったら、もう、それ以上は考えない。なぜなら、それによって、実際に「有益」な結果をもたらすのだから。
この本でも書いてあるが、そもそも、科学は「帰納法」ではない。つまり、いくら、証拠を数多く集めても、それが「証明」にはならない。それは、カール・ポパー反証可能性がそうであるように、まだだれも、「反証」していないから、仮説として否定されていない、ということを意味しているに過ぎず、そもそもの科学の実践とは、こういった「仮説」の束を制御している、ということ以上は意味していないのだから。
ということはどういうことか?
そもそも、最初から科学は「真実」というものとは無縁だ、ということになる。少なくとも、科学はどこまで行っても、この「真実」の近傍を、うろうろしている何か、ということを意味しているに過ぎず、別にそれでいい(実用的は、十分に社会生活の役に立つ)、というわけなのである。
科学は、ある「数学的モデル」のことだと言っていい。この場合、その数学のモデルは、ある意味において、「経験」の範囲なのだ。しかし、言うまでもなく、そのモデルと「この宇宙」は、別である。しかし、別ではあるが、なんらかの意味において、「似ている(=似せて作っている)」と言える、というところに主張のキモがあるのであって、その相似性において、なんらかの「測定」の「予測」が可能だ、ということになっている。
問題はなぜ、そのような数学モデルによる「予測」が可能になっているのか、そういった「整合性」が結果において実現するのか、ということになるのだが、こういった「かなり広い意味」において、それを「実在」と呼んでもいいのではないのか、というのが、掲題の著者の科学論ということになる(実際に、なんらかの意味における、「知=予測可能性」を担保しているのだから、そういう対象を「実在」と呼ぶことには、直感的な意味がある、というわけである)。

センセイ----そう。で、ボクは、科学の目的として、文字通りの真理への接近でも、経験を救うことでもない、もう一つの選択肢を出したつもり。それは、実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ることなの。これって、二つの中間に位置する目標だと思うよ。まず、この第三の選択肢は、実在世界について文字通りぴったり当てはまることを言うのが科学の目的ではないんじゃないか、という点で反実在論者に近いよね。現実の科学者を見ていても、文字通り正しい理論を立てるよりも、実在と大事なところで似ている理論を立てることの方が重要問題だと考えているからね。
リカ----じゃ、第三の選択肢はちっとも実在論的でないんじゃないですか? センセイはなるべく科学的実在論を擁護したいって言ってたでしょ。あれって、どうなっちゃったんですか。
センセイ----いや、ボクがシンパシーを抱いている第三の立場は、たしかにゴリゴリの極端な実在論ではないかもしれないけど、まだ十分に実在論的だと思うよ。
まず、反実在論者のように、観察不可能なものについては何も決め手がないから、たとえば原子があるのかないのかは分からない、という立場はとらない。むしろ、第三の立場はカートライトとかハッキングの対象実在論としっくりくるんだ。かりに、反実在論者の言うように、科学の歴史を真理への接近とみなすことが不適切であることが判明したとしても、そのことで、科学の歴史を進歩として見ることができなくなるわけじゃないよね。少なくとも一つ、明らかに科学が進歩していると言える点があるよ。ミクロな対象に対する操作性(予測とコントロール)は確実に向上してるよね。たとえば、電子をわれわれはかなり操作できるようになってきてる。だからテレビが映るわけだし。というわけで、電子という対象はたとえ直接に観察できなくても実在するということには疑いはない。ここまでは、対象実在論だ。

科学は、そもそも帰納法ではない。ということは、科学は「真実」を「生産していない」ということになる。では、なにをやっているのかというと、ある「仮説」の束から、

  • 明らかに「間違がった」仮説

を、振るい落とし、より品質の高い(=道具的に使える)レベルにまで、品質を高める、ということをやっているに過ぎない。そういう意味において(リチャード・ローティが言ったように)、科学は「真実」を別に、「鏡のように写している」わけではない。その、ある観点から見た、なんらかの「似姿」を、モデルとして示しているに過ぎない。モデルが実体と「一致」するわけがない。しかし、ある観点から見た、その視点においては、まあ「似ている」わけである。
こういう意味において、科学の文脈における「実在」という言葉の使われ方は、どこか、日常用語からは離れている印象を受ける(上記の引用で、リカがセンセイの言っている「実在」は実在じゃないんじゃないですか、と疑問をていしているのは、本質的に正しい。そういう意味では、この本はなにかが正しくない、と言ってもいい)。つまり、科学においては、古典力学であれ、量子力学であれ、その

  • 理論的な予測

に、誤差の範囲で「一致」した現象が観測されている「全体」を通して、それそのものを、もはや「実在」と呼んでいいのではないか、というインプリケーションがある。私たちが、この物理社会に、なんらかの「操作」を加えたなら、予測の範囲で、ある決まった「反応」を返すというなら、それ「全体」を実在と呼んでもいいのではないか、ということなのである。
つまり、「なぜそのような数学的整合性が成立しているのか」の答えが、「それが、この物理世界が実在している、ということの意味だから」という形になっている。しかし、そういうふうに言うのなら、それは「実在」というより、

  • 実践

の意味なのではないか、と思うのだが、おそらくそう言っても、掲題の著者は別に否定はしないだろう。実際、同じようなことを言おうとしていることになるのだから...。

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

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