「哲学」と「ドラッグ」の関係

歯医者で虫歯の治療をしたとき、麻酔を打ってもらうことで、神経を麻痺させる。
ISが、戦士たちが、命知らずの戦闘を行うのも、麻薬で、感覚を麻痺させている、とニュースで言っていた。
そういえば、伊藤計劃さんの「虐殺器官」においても、戦闘時に、薬で感覚を麻痺させることで、怪我をすることを恐れる感覚を弱める。
結局のところ、「薬」とはなんなのだろうか? ここで私は別に、「薬」というものの医学的意味を問うているわけではない。そうではなく、「薬」が

  • 人文系の(もっと言えば「哲学」における)「知」

にとって、何を意味しているのか、と問うているわけである。
どうも、人文系の「知」というのは、その裏側を「ドラッグ」が底上げしているような構造になっているのではないだろうか。
文学において、物語の登場人物は、ある「悩み」を抱える。それは、一見すると、今までの常識から考えると、普通に「文学的悩み」なのである。恋人にふられたとか、テストの点数が悪かったとか、「いじめ」に悩んでいるとか。
こういったもろもろの「文学的」な「課題」は、まったく違った、ある「アプローチ」によって、<解決>する、と考えられている。それが、

  • ドラッグ

である。例えば、医者が処方する「うつ病」の薬なるものは、私に言わせると、どうも、こういった「もろもろ」を<解決>してしまっているんじゃないのか、と聞こえてしまうわけである。
このことを、もっと「端的」に表現するならば、ようするに「薬を飲んで<バカ>になれば、こういった人文系の悩みに<悩まなくなる>」と言っているようにしか聞こえないわけである。
例えば、アニメ「エヴァンゲリオン」は、シンジ君にしても、アスカにしても、深刻な「トラウマ」というか、心の問題を抱えている、といった描写がある。シンジ君は、父親との関係が示唆される形で、第2話で、使徒との戦いで、ナイフを、何度も何度も突き刺す描写が描かれ、アスカは親との確執が描かれる。
しかし、そういった側面から考えると、「エヴァ」とはなんなのか、ということになるわけである。つまり、「エヴァ」とは一種の「比喩」なのではないか。つまり、これは

を「暗喩」している物語なのではないか。つまり、シンジ君とアスカは「エヴァ」に乗る以前に、なんらかの覚醒剤に手をつけたために、かなりの重症の覚醒剤症状があらわれている子供という「比喩」になっているのではないか。例えば、ミサキさんという登場人物は、自分の子供ではないのに、突然、シンジ君を自分の家に泊めて、保護者として現れる。しかしこれって、ようするに、あまりに覚醒剤の重症患者なので、自宅での療養が不可能と判断されて、なんらかの「自宅隔離」の手段として、医療関係者によって「保護」されている、という「比喩」のようにも見られるわけである。
確かに、ミサトさんは、シンジ君やアスカが「エヴァに乗る」ことに真剣である。しかし、この真剣さは、どこか「覚醒剤に手を染めてはいけない」と大人が子供に諭す態度に似ていなくもない。つまり「エヴァに乗る」という<行為>が、深刻な覚醒剤の後遺症として襲ってくる

  • 幻覚

から「戦う」といった意味に聞こえるわけである(綾波はまさに、存在がそのまま「薬によって作られた」存在ということになるであろう)。
確かに、薬は「暴力」である。
どんな「人生の悩み」も、「薬」を飲めば「治る」。そう「うつ病」の薬は言っているように思われる。というか、薬が人間を「壊す」ことと、人間が薬によって「バカ」になることと、区別ができないのだ。
あらゆる「経済問題」は、ドラッグによって「解決」する。なぜなら、覚醒剤は、自分が「貧困」だという認識自体を「破壊」し、なにも考えられなくするから。つまり、国民が「バカ」になれば、だれも国家に、貧困問題を解決してくれ、なんて言ってこなくなる。そうすれば、富裕層は、貧困層に税金を奪われずにすむ、というわけであるw