村松太郎『「うつ」は病気か甘えか。』

アニメ「蒼の彼方のフォーリズム」の第6話は、ちょっと見ていて、あまりいい印象を受けなかった。というのは、ヒロインの明日香が、非常に「疲れている」ということを(原作にはなかったと思うが)、あえて「強調」したがために、その後の、真藤さんとの対戦での大技連発が、どこか「ドラッグ」使用のアナロジーのような印象を強めてしまっていることであろう。
確かに時期が悪かった。これだけ、元野球選手の清原さんの覚醒剤問題が注目されているだけに、少し気をつけてもらいたかった、ということであろうか。
「空を飛ぶ」という表現は、そもそも、今の人間は空を飛べないのだから、それは「空想」のアナロジーになってしまう。そういった「幻覚」の一つとして、ドラック使用時の状態の「アナロジー」として

  • 空を飛んでいる

という慣用表現が隠語的に存在するだけに、このアニメ自体が、そういった「暗喩」的な効果を狙ったものと解釈されかねない。
そのように考えてみると、ある意味において、今、スポーツは史上最大の危機に直面しているのかもしれない。
今までの、さまざまなスポーツの世界記録は、本当にドーピングをしていなかったと言えるのだろうか? もしも、たんにドーピング検査を、うまく、かいくぐっただけなら、その記録になんの意味があるだろうか。
そもそも、なぜプロ野球選手の全員に対して、覚醒剤の検査を実施しないのだろうか。おそらく、なんらかの陽性反応がでた場合に、その選手に今まで投資してきたコストを考えて、簡単に永久追放にできない、という事情があるのではないか。
そもそも、清原問題の深刻なところは、彼がプロに入って、かなり早い段階で薬に手を出しており、そして、かなりの多くの選手が、実際に回りで、彼の薬の常用を知っていた、ということなわけであろう。そして、さらに深刻なのは、まあ、当然ではあるが、暴力団との繋がりが、彼には、そういうわけで、長くあった。最近も、巨人の選手の賭博事件があったが、明らかに、プロ野球選手と暴力団との、かなり強いパイプがうかがわれる。そしてそれを、プロ野球連盟が、まったく、自浄作用が働けない実情がある、ということであろう。
もしかしたら、結局のところ、まったく自浄作用が働かないという判断になれば、日本のプロ野球の歴史は終わるのではないか。それくらいの危機感を感じるわけである。
どうして、私が今回、こんなふうに「ドラッグ」の問題について考えてみようと思ったのは、前回、あらためて、宮台真司さんが世紀末の頃に言っていた「成熟社会」や、東浩紀さんの言う「動物化」について再考しようと思ったときに、この「ドラッグ」の問題は避けられないのではないか、と思ったからなのである。
例えば、宮台さんは世紀末のこの「成熟社会」の問題を、オウム真理教地下鉄サリン事件や、酒鬼薔薇聖斗事件と世紀末との重なりで考えるとき、鶴見済さんの「完全自殺マニュアル」を非常に評価していた。そういう意味において、彼の「処方箋」において、「ドラッグ」が一つのソリューションとして見えていたことは間違いないわけであろう。
同じように、東浩紀さんの「動物化」にしても、彼は「エヴァ」を非常に重要視していたわけであるが、明らかに「エヴァ」は、ドラッグによる

  • 幻覚

を意識している。そもそも「エヴァ」自体が、「ドラッグ」による幻覚症状が「見せている」何かを想起させるように、「あえて」作っているように思われるわけで、むしろ、シンジや綾波やアスカの、「心の障害」は、「ドラッグ」の禁断症状を思わせる演出なわけであろう。
宮台さんと東さんの二人に明確に見られるのは、なんらかの「心理学的本質主義」なのではないか、と思われる。「感覚」「欲望」といったような

  • 原始言語的要素=前言語的要素=非言語的要素

つまり、言語が言語たる「前」の、本質的な「構成要素」によって、この世界を、「根拠付ける」ことへの野望だと言ってもいい。大きな物語の終焉を語る「ポストモダン」における、小さな物語とは、むしろ、こういった「感覚」「欲望」といった、非言語的な「要素」によって、人間を「還元」する。そういった「非言語的要素」によって還元され、データベース化された、言わば

  • 心理学還元主義

といった意図を含意していた。
「ドラッグ」は、ある意味での「ユートピア」を含意するし、「ディストピア」を含意する。東さんのユートピア構想において、

  • 身体は国家の「もの」(=国家が寿命まで「生きさせる」ために、身体を国家が管理する)
  • 精神は言論の自由のために、国家は介入できない

といった二元論の構造になっているが、ここにおいて、ドラッグは、国家が国民の「身体」に働きかけることによって、「精神をコントロールする」といった、形態を示すことになる。
そもそも、明治の開国の理由は、中国が欧米列強によるアヘン戦争で、国民が薬漬けにされている、という現状認識があった。しかし、逆に言えば、国家にとって、国民を「支配」するために、ドラッグを「国民に打つ」ことは、そういう意味における

  • 合理性

を示すことになるわけである。
反逆してくる国民は、国家権力の基盤にとって、最大の「悩みの種」であるわけだが、国民を全員、薬漬けにしてしまえば、誰もはむかってこなくなる。
例えば、「家畜人ヤプー」において、未来社会の日本人は、子供の頃に、脳を改造され、家畜としての「頭の弱さ」を、むしろ、手術によって、「作られる」わけであるが、むしろ、手術によって「頭を悪く」した方が、奴隷としての従順さを得るには、役に立つ、というわけである。
斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』の文庫版の解説で、東さんはこの本を非常に意識して、『動物化するポストモダン』を書いた、といったようなことを言っていたように思われるが、確かに、ポストモダンというのは、実際のところは、ラカン精神分析のことだったのではないか、というふうに整理すると、話が早いように思われる。
例えば、斎藤さんも東さんも、キャラという言葉を重要視するが、二人が共通しているのは、そのキャラという言葉が、アニメや漫画の登場人物の猫耳などの「形」を、「萌え要素」としていたわけで、ようするに、視覚的な、二次元であり、三次元の「形」のパターンのことを「キャラ」と呼んでいたことが、一つの特徴となっている。そういった意味でも、これも「感覚」「欲望」といった、心理学的な「非言語的要素」によって

  • 世界の基礎付け

を行っていくといった「心理学還元主義」的な、野望があったのであろう。
斎藤環さんという人は、ラカン精神分析の日本を代表する論客といった印象があるが、そもそも、お医者さんなわけで、そういった医療行為の実践において、基本的になにかを考えている人という意味では、私はあまり言いたいことというのはなくて、せいぜい、医学の実践においては、いろいろとあるんだろうな、と慮るだけなのだが、私が最近、あれっと思ったのは、斎藤さんが、videonews.com に出演したとき、診察に来る患者が、薬を投与することで、どんどんと治っていく、といったようなことを言っていたときだったと思う。
つまり、それだけ「薬は効く」ということを言いたかったのだと思うけど、私が思ったのは、それって、ラカン精神分析、なんの関係もないんじゃないのか、と思ったわけである。
そういえば、斎藤さんが「反知性主義」という言葉を日本の文脈で使い始めた最初だったと思うけど、そうしたら、山形浩生さんがホフスタッターの『アメリカの反知性主義』を参照して、斎藤さんのことも揶揄されていたわけだけど、斎藤さんが「反知性主義」と言い始めた最初のきっかけが、義家副大臣が、(精神医療の)薬に懐疑的な発言をしていたことに対してであったわけだけど、確かに、この副大臣にはいろいろ問題はあると思うけど、少なくとも、「(精神医療における)薬」への一定の懐疑を、大衆がもつことは、非常に重要なんじゃないのか、と私は思っているわけで、これを理由に、副大臣

と言った、斎藤さんの上から目線て何様なのかな、とは、その時思ったわけであるがw
掲題の本に関心をもったのも、斎藤さんがネットで対談をしていたからであるが、

「ストレスでうつ病になる」はおかしい!?【リバイバル掲載】<『「うつ」は病気か甘えか。』刊行記念 村松太郎×斎藤環対談>村松太郎/斎藤環 - 幻冬舎plus

ここでの議論の中心も、「うつ病」における「薬」の問題だ、というところにある。
まず、医者という職業が何をやっているのか、ということになる。そう考えると、そもそも、医者は患者が「困っている」と言って来るわけだから、患者が「困っている」と言っている何かを解決するために、手助けを行うことが、主目的だ、ということになるであろう。
そういう意味においては、医者は「性善説」にたっているし、それでいい、としている。
ところが、裁判の場においては、医者による「うつ病」という診断は、患者の「責任能力の欠如」の「証明」になる、という意味で、「真実」の意味を帯びてしまう。
医者は、患者が「嘘を言っている」かどうかを、正しく判断できなければならないのであろうか?
例えば、ある患者が、自分は「うつ病」で苦しんでいるので、自分が「うつ病」だという診断書を出してくれ、と言ってきたとする。そして、「うつ病」の薬を自分にくれ、と。そうした場合、医者はその患者が、どう見ても、「うつ病」に見えないとしても、診断書を書いて、薬を与えなければならないのだろうか?
そして、この場合、その「うつ病」の薬を飲むとどうなるのだろうか? 健常な人が「薬」を飲んだら、正常な上にさらに「正常」になるんだから、より「健康」になって、なにも言うことないんじゃないか、と思うかもしれない。しかし、薬とは、ある意味における「毒」である。ある「極端」をなんとかするために、それに特化したなにかを行うのであって、それが他へなにも影響を与えないはずがない。むしろ、「薬」は健康な人を「病気」にする。つまり「うつ病」でない人を「うつ病」にする。「薬」が、そもそも「うつ病」が過激に発症している状態を、「薄くならす」こをと目的としているなら、ある意味において、「薬」を飲むことで、「うつ病」になる、という言い方も、あながち間違っていない、ということになるであろう。

このケースで注目すべき第二の点。それは、それまでのその人とは変わってしまったということである。
一番近い存在である妻がまずそれに気づき、そのうちに彼を知る人々もそれに気づく。何より本人が、それまでの自分とはどこか違うと感じている。病気を示唆する重要なサインだ。
なぜこれが病気のサインなのか。逆に考えてみれば明らかである。もともと仕事で疲れやすいとか、暗い性格であるとか、何かあるとへこみやすいという人だったら、そういうことにすぎない。元々のその人とは違った何かが現れて、はじめて病気と言えるのだ。体の病気も同じである。

しかし、そういうふうに言うなら、「ドラッグ」をやって、気分がハイになるのもそうだろう。それを「常用」するようになれば、それが「日常」ということになるのかもしれない。
そういった意味では、宮台さんも東さんも、彼らの「心理学還元主義」には、

  • 薬という「暴力」によって、<テロリスト>の「肉体」を国家が<管理>する

という「暴力」への、「賛意」が含意されていたのではないか、と思われるわけである(正義の名の下に、悪を「攻撃」することへの「欲望」と言ってもいい)。もっと言えば、そういった意味で、「国家暴力」が、「精神分析」を媒介することによって、「正当化」される。むしろ、国家の「暴力」を、

  • エリート

は、(文系の「知」である)精神分析を使うことによって、「正当化=援助」しなければならない、その使命がある、というレトリックになっていく。「薬」によって、がんじがらめにされる未来社会は、ある意味において、伊藤計劃さんの「ハーモニー」の世界だと思うが、ようするに、国家による「管理社会」こそが、唯一、「テロ」問題を解決するがゆえの

だということになる。テロの撲滅のために、国民は国家から仕掛けられる「アヘン戦争」に負ける。国民は、国民からの「テロ」と戦うために、薬漬けという「テロ行為」を国家から受けることを「忍従」するようになる。早い話が、国民は「国家へのテロ」との戦いの果てに、「国家からのテロ」との戦いに負ける。
よく考えてみよう。
国民を「ドラッグ」漬けにすることは、一見すると、ディストピアであるが、自分が生まれてからずっと回りの連中に「いじめ」られていたとするなら、その「いじめられ連中」は、薬漬けにされることによって、自分は「いじめ」られなくなる。そういう意味で、薬漬けは、一種の「復讐」であり、「仕返し」なのである。そういう意味で、「いじめられっ子」は、ここに「スカっとする」わけである。ただし、

  • 自分が薬漬けにされなかった

場合だけ、これには意味があるが。つまり、エリートは「自分は例外」だと思っている。なぜなら、自分がこの世界を救うのだから。つまり、これこそ「エヴァ」の子供たちの「エリート主義」なのであって、最初から、自分だけは、なんらかの意味で「救われる」ことは前提となっている。救われるの意味は、

  • 国家が自分を特別扱いしてくれる

という「幻想」であるが...。