ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』

確かに、学校の試験問題には「答え」がある。ということは、その答えは「変わらない」ということを意味する。つまり、その問題が出された、どの試験会場でも、その答えは「同じ」というわけである。
しかし、このことは、いざそれを「自分」の話にされたとき、大きな違和感となる。確かに私は、どうも、昨日まで、ずっとガルパンは名作だと思っていた、とする。じゃあ、今日。私は「ガルパンは名作だ」と

  • 言わなければならない

のだろうか? 私が昨日まで、そうであったことと、今日の私がどうであるのかに、そもそも、なんの関係があるのだろうか? それを「計算」する? さて。なんのことを言っているのだろうか。やれやれ、である。

たとえば、その同じ会合の席で、なにか飲み物を出す必要があったとする。というよりも、みな漠然と喉が渇き飲み物を欲していたとする。それはむろん会合の目的とは関係がない。しかしそれそれで「意志」だとは言えないだろうか。その意志に答えることもまた、人間集団のマネジメントのうえで議論の司会進行に負けず劣らず重要であったりしないだろうか。そしてそのとき、冷たいお茶がいいのか温かいお茶がいいのか、コーヒーがいいのかあるいは多少コストがかかっても複数の種類を用意するべきなのか、その決定を出席者への確認なしに行ってもべつにおかしくはないのではないか。
会議の飲み物をなににするか。それは出席者が議論を交わし合意を形成するようなものではない。そのような課題については、むしろ出席者の好み(特殊意志)はあらかじめ確定しており、スタッフ(政府)がやるべきなのはその均衡点(一般意志)を探るだけ、と考えるのが合理的だ。しかもそこで、もし前回での出席者の飲料選択の履歴が残っており、さらにそこに季節や時間などの環境変数を加え各回ごとに望まれる飲料を予測する計算式を作ることができるとするのならば、そんなに便利なことはないだろう。こう考えると、「均されたみんなの望み」が、コミュニケーションの外部に数学的に存在するという考えは、とくに突飛なものではなくなってくる。

この議論がおかしいのは、二つの点で指摘できる。

  • 会合の席での飲み物は、そもそも、私たちにとってのクリティカルな議題ではない。つまり、「それ」に決定されても、たんにその会合の席では口をつけなければいいだけの話である。
  • 会合の席に飲み物をだそうとしている人は、全員のいる場で、「温かい緑茶でいいですか?」と、一言告げた後に、用意を始めてもいいし、会合の案内に、その旨を最後に付け足しておいてもいい。つまり、勝手に出してもいいが、こうやって、一言断ってあってもいい。

東さんは、根本的に勘違いをされているのではないだろうか? 私たちは議論をして、合意を「しなければならない」ではなく、そもそも、私たちは、どういう場合に、

  • 議論をさせてほしい

と思うのか。言うまでもない。その「決定」に、なんらかの「気にいらなさ」の気配を、内的にもつ場合、ということになるであろう。つまり、「クレームをしたい」場合、ということになる。
勝手に自分の給料が、なんの理由もなく減らされていたら、文句を言いたいであろう。つまり、その決定がされる前に、「そうします」と言われたら、「なんでそんなことをしようとするんですか。やめてください」と言いたいであろう。つまり、

  • 議論

は、最初から議論なのではなく、

  • 異議申し立て

が、必然的に「議論」を結果する、というだけなのだ。このことは、例えば、昨日までは、私はこのことになんの不満ももつことなく、給料の減額に、なんの反応もしていなかったとする。しかし、だからといって、今日、急に、私が、給料の減額に「文句を言い始める」かもしれない。そんなことは当たり前なのである。
つまり、どういうことか?
議論は、昨日まで自分が議論をしてこなかったことが、今日、自分が議論をしないことを担保しないわけである。もう手遅れです、となっていたとしても、死ぬ直前かもしれなくても、「文句を言い始める」ことを始めるかもしれないのであるし、そんなことは当たり前なのだ。

一般意志は数学的な存在である。それは人間の秩序にではなくモノの秩序に属する。コミュニケーションの秩序にではなく数学の秩序に属する。
したがって、一般意志の生成には、共同体の成員の合意は必ずしも必要がない。一般意志は、成員がたがいになにも話しあわず、たとえひとことも口を利かず、目すら合わさなかったとしても、そこに共同体があるかぎり、端的に事物のように「存在」する。統治はその存在に従わねばならない。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

仕事でソフトウェア開発をやっている人間として言わせてもらうけど、コンピュータは人間がプログラミングしたという意味で、そこには当然、人間の認知的不協和が反映しているし、利益相反が「無意識」だろうがなんろうが、反映している。そういう意味で、コンピュータを「モノの秩序」と言うのは、どういう意味なんだろうか、と思うわけである。
そして、集団的な形での行動の決定の過程において「合意」が成立しているかどうかなど、たいした問題ではない。合意があろうがなかろうが、

  • もしもそれが自分にとってクリティカルな問題なら、反論の場(=クレームの場)が与えられているか?

は非常に重要なわけであろう。それは、「合意」なのではなく、「暫定的な権限の付与(=今はひとまず、反対しない、という承認)」というものにすぎない。なにも話し合わないのは、

  • 今はその決定に文句がない

からに過ぎず、明日には変わっているかもしれないし、そうでないかもしれない。つまり、こういった意味において、端的に「事物のようなものは存在しない」のだ。

私は、本書の第一二節でルソーを《非公共的意見の民主主義》としてすでに批判していた。それは、ルソーが一般意思を《論拠よりも心情による合意》として把握していたからであった。ルソーは道徳を国家公民が身につけるよう期待し、それを個人の動機と徳のなかに据えつけるが、そうではなく、道徳は公共的コミュニケーションそれ自体の過程のなかにしっかり根ざしていなければならない。この点についてのB・マーニンの指摘は正鵠を射ている。「自由主義の理論と民主主義思想のいずれにとっても共通するパースペクティブを根底から変える過程それ自体、いいかえれば協議(deliberation)である。......正統な決定とは、万人の意思を代表するものではなく、万人の協議の結果である。そうした成果に正統性をあたえるのは、あらかじめ形成されている意思の総和であるよりも、むしろ万人の意思が形成される過程である。協議の原理は個人主義的であるとともに民主主義的でもある......われわれは、たとえ長きにわたる伝統に反する危険をおかすことになっても、正統的な法は、普遍的な協議の成果であって、一般意思の表明ではないことを確認しておかなければならない。」したがって、立証すべき課題は、<市民の道徳とはなんであるか>という点から、<道徳にかなった成果を可能にするという推定を根拠づけるべき民主的な意見形成や意思形成の手続きとはいかなるものか>という問題へ移ることになる。

つまり、今までの話を総括すると、私は

  • あらかじめ形成されている意思

という考えを、根本的に認めない、と言っているわけである。そんなものはない、と。あるわけない、と。私は今日まで好きと言っていたものを、明日「嫌い」と言うし、それを、あらゆることに対して行う。だって、今日までの私と、明日の私は「違う」存在なのだから。
しかし、だとするなら、一般的に言われている「合意」とはなんだ、ということになるだろう。上記の例で、会合にコーヒーを飲み物として出します、と以前からアナウンスがあったのに、その場で、「他のに変えて」と言うのがはばかられるのは、ようするに、その「コーヒー」についてのアナウンスに、今まで「なにも言わなかった」という「負い目」があるから、であろう。もっと言えばそれが、ブランダムの「推論主義」が言っている「権限付与(コミットメント)」になっているわけであろう。確かに、今さら、文句を言うのはばかられるかもしれないが、別に言っていけないわけではない。
ようするに、どういうことなのか?
東さんは、そもそも「感覚」「欲望」というもので全てを説明しようといった、「心理学還元主義者=哲学還元主義者」なわけで、「感覚」「欲望」は、あらゆる「基礎データ」であり、一切の説明は、こういった「非言語的要素」によって、データベース化されると考えている人なので、

  • 存在する

と言いたいわけなのであろう。なぜ「議論」が意味がないかというと、それに先行して「感覚」「欲望」が<ある>わけであり、それによって、人間の「あらゆる」属性は決定しているのだから、他になにもいるわけがない、と言いたいわけであろう。
しかしね。逆に言うと、そもそも「感覚」「欲望」って、<ある>と言えるようなものなのかな。目の前にオオカミがいることは、私が注意をして、神経をとぎすましていると、見えるわけであろう。しかし、逆に、そういった神経のすりへらすようなことをやっていない、リラックスしてぼーっとしているときこそ、逆に、視界に入ってくるような光景だってあるわけであろう。つまり、精神状態によって、視覚情報は変わってしまう。
欲望だって、今この一瞬に、なにかに欲望を覚えていることが、次の瞬間に存在することを保障しない。全然違うものに興味が移ってしまっていて、もう戻らないかもしれない。
つまり、「感覚」「欲望」が<ある>といっても、その「内容」は、いくらでも変わってしまう。この「存在」をいくらつかまえようとしても、そのたびに、「それぞれ」違ったように、私たちの前にあらわれてくるものを、どうして「これ」と指示できるだろうか。
ようするに、「感覚」「欲望」といったような、

  • 非常に大きな「情報量」

をもつものを、私たちは実際には、「日常において」それを「基礎付け」の道具として、生きていない、ということなのである。私たちは、実際には、さまざまな感覚は、なんらかの「背景情報」として、付与的に、それぞれのシチュエーションに意味を与えてはいるが、そういった「情報量の多いもの」は、日常の文脈における、基本的な構成要素とはされていない。
そういう意味では、ロバート・ブランダムの「推論主義」は私は慧眼だと思っている(もっと言えば、セラーズのセンスデータ論が、であるが)。つまり、私たちはさまざまな共同体の中での「文脈」に、どのようにコミットメントしたか(ある人が言うことや、自分が言ったことの、どういった部分に、明示的な、または、暗黙の「同意」をしていることになっているか)だけを「理解」しておけば、その共同体内の「言語ゲーム」ができる。
つまり、非常に「情報量が少ない」ものに注意しているだけで、その共同体内の「コンテクスト」を生きることができる。
ようするに、東さんは、話し合って、みんなの意見が変わっていくというのを、「分かり合う」、気持ちが一緒になる、そういった境地に辿りつける、そこまで行ける「はず」とか(でも、オタク同士の知識の量が違うのに、同じ「意識」に至れるわけない、そんな啓蒙のための時間なんてあるわけない)、そういった意見のことだと思っているのではないだろうか?

たとえばハーバーマスは、コミュニケーションの不安定性を強調したある有名な哲学者への反論として、「コミュニケーションの参加者は、相互主観的に同一の意味を認めうるという条件のものでのみコミュニケーション的行為を行うことができる」と断言している。むろんハーバーマスは、だれとでも話せばわかりあえると主張しているわけではない。しかし、あらゆる議論にはつねに落としどころがある----とまでは言わないにしても、少なくとも、ある特定の議論に参加しているかぎりにおいて、そのメンバーのあいだでは「落としどころを探るべきだ」ぐらいの理念は共有しているはずで(つまり議論の場そのもの共有できるはずで)、そこが手がかりになってコミュニケーションは成立するはずだ、というのが彼の哲学の前提なのである。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

このレトリックはこの前書いた、宮台真司さんが世紀末の頃に、さかんに言っていた「成熟社会」で、「複雑性の増大」によって、学校のクラスが島宇宙化していって、この進展を止められない、とかそういった、なんらかの「共感理論」と基本的には同じ方向の批判なわけでしょう(まあ、ポストモダン大きな物語の終焉、ですよね)。
でも、そんなこと、「わかりあえる」「落としどころがある」といったことなんて、私たちの日常をふりかえってみればわかるけど、まったく本質的ではないでしょうw そんなことよりなにより、

  • クレームを言える

というシステムになっているのかどうかが本質的なのであって、オタクがお互いで話し合わないのは「その必要がない」からでしかないわけで、自分が困ったら、嫌でも話さなければならない。しかし、その目的は「自分と相手が<同じ>認識に至る」とこではなくて、お互いのコミットメントのレベルに応じて、

  • 自分にとって、ひとまずそれで困らない

というレベルへ到達することを、一つの「言語ゲーム」として行っている、というレベルなわけであろう。そういう意味で、相手が

  • まったく内容を理解していない

としても、「なんの問題もない」。そうではなく、相手が自分で「約束」している行動の「方針」が

  • 自分にとって、ひとまずそれで困らない

というレベルの「約束」になってくれることが、今、必要なのであって、政治とはそうった「言質のとりあい」なわけでしょう。そういったことを、ロバート・ブランダムの「推論主義」は言っているんだと思うんですよね。このことをニコラス・ルーマンの「複雑性の縮減」に近づけて言うなら、「その言語ゲームへの信頼」があるだけで、その言語ゲーム内で話される<内容>を信頼しているわけではない、という、ロジカルタイプの区別ということですよね...。

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究