東大受験ドーピング

ここで、少し変なことを考えてみよう。
ある賢い子供がいたとする。この子は、どうやれば成績を上げられるかなと考えて、少し普通の子供たちとは別の手段を思いついた。つまり、

である。この子はある日、その全然別の目的で医者から処方された薬を、テスト前に飲むと、異常な「記憶力」が発揮されることに気づいた。ただし、その薬を飲みすぎると、後遺症がひどく、それから、一週間くらいは、パンチドランカーのような「障害」が残り、それを続けると、その症状はよりひどくなっていくのだが。
しかし、その子は、自分の「成績」のためなら、それくらいの「トレードオフ」はしょうがないと考えた。事実、これによって、東大に合格したのだから。
このアイデアと基本的に同型のアニメとして、京アニの「シャーロット」がある。
しかし、である。
往々にして、東大になんて受かる子供は、どこか「こういった」裏道を、自らに対して、実践してきたのではないだろうか。だってそうだろう。なぜ、日本中には多くの子供がいるのに、彼らだけが合格できたのか。
(頭の良いが比較的に家が貧乏な地方の子供が、往々にして、地元の国立大学を受験するのは、東大に行きたくないからではなくて、そもそものこの「受験戦争」をうさんくさいと思っているからではないか、と考えることもできるだろう。つまり、そのまま地方にいすわって、地元で「まったり」生きることを選んだ、と。)
ある統計では、東大に合格した子供のかなりの割合で、子供の頃からピアノに親しんできたといったことがニュースでやっていたが、これも一種の「ドラッグ」のようなものだと考えることもできるであろう。ピアノは、足と指先と耳を複雑に連携させて使うことから、勉強で求められている能力がトレーニングされていると考えれば、合理的である。
東大に受かるような人にときどき見られる傾向として、「運動が苦手」というのがある。というか、「スポーツが嫌い」と言った方が正確だろうか。もちろん、勉強のできる人は運動する時間も惜しんで勉強したから、基本的なトレーニングがされていないため、体を動かすための基本ができていないから、と考えるのが一般的なのかもしれない。しかしこれを逆に考えるなら、彼らがスポーツが嫌いなのは、自分が勉強に対して行っている「裏技=ドラッグ」が、そもそもスポーツの「ゲーム性」にとっては、本質的に、

  • アブない

ことに気付いているからなのではないか。
もしもスポーツの目的が「勝つ」ことなら、相手チームの何人かの選手が試合の当日に戦闘不能になればいい、ということになるであろう。しかし、そんなことをしなくても、試合の前に

  • 自分が試験の前にしているように

なんらかの「ドラッグ」を飲めばいい、ということになる。つまり「ドーピング」である。そうすることによって、たとえ一時的であろうとも、今まで以上の持続力や、跳躍力や、筋力や、反射力などが高まれば、いつもより早く走れるようになって、試合に勝てる。
しかし、そもそも学校教育におけるスポーツは、「戦い」ではない。つまり、勝ち負けは本質的ではない。つまり、「教育」なのだ。では、教育においては何を教えているのであろう? まあ、ジョセフ・ヒースの本の題名を借りるなら「ルールに従う」ということになるであろう。
スポーツは一種の勝ち負けを決める「ゲーム」である。しかし、その勝ち負けは、本当の勝ち負けではない。しかし、東大合格は本当の勝ち負けである。そういう意味では、東大合格は「ゲーム」ではない、ということになる。

シュミットは一九三二年の『政治的なものの概念』で、政治の概念につぎのような明確な定義を与えている。彼によれば、政治の本質は、「友」と「敵」を分割し、敵を存在論的に殲滅することにある。存在論的に殲滅、というのは、相手をこの世から消し去る、つまりは殺すことだ。
現代の常識では、異なる価値観の存在を許容し、そのうえで対立する利害を調整し、なにが正しいか、なにが公益に資するのかを判断するのが「政治」ということになる。前述の熟議民主主義など、まさにそのような発想から生まれた思想だと言える。しかし、シュミットの見方はまたく逆である。彼の考えでは、政治なるものは、そもそも、なにが正しいのかとかなにが利益になるのかとか、そんな些細なものごとには関わらない。善悪を判断するのは倫理で、利害を判断するのは経済であり、政治的な判断はそれらとは離れた固有の領域を形づくるのだと彼は言う。ひらたく言えば、たとえ相手が善であっても(倫理的判断)、あるいはたとえ相手と組んだほうが得であっても(経済的判断)、相手が「敵」であるかぎり、そのような判断はすべて無視して殲滅を図る、それこそが政治なのだと主張するのである。

シュミットは言わば、カント主義者として、政治を、もう一つの「カテゴリー」として考えようとした。この場合の「友」と「敵」とは、内と外という意味になる。自分の「味方」は、自分が東大に合格するために、絶対的に「応援」してくれる人という意味になる。しかし、そんな人が、この世にいるのだろうか? 親はそうだろうか? あとは? 教師?
そもそも、「敵」とはだれなのだろう? 敵は「味方でない」という意味である。つまり、自分の潜在的な東大合格に「敵対する人」は全員含まれる、ということになる。自分以外のクラスの全員は、「敵」になるし、そもそも、世界中の全員がそうだ、と言ってもいい。
しかし、大事なポイントは、ここで言う「友」とは誰なのか、というところにある。つまり、そんな人はいるのだろうか? 本当にいるのだろうか? 「友」のメルクマールは、徹底して

  • 自分にはむかってこない人(=犬のように常に従順な人)

という「定義」である。ようするに、諫言(かんげん)する人は、「敵」なのだ。なぜなら、自分に「口ごたえ」をしてくるのだから。
しかしね。
自分のとりまきの「信者」としか話ができない。なんらかの、自分の主張に「反対」の臭いをかいだら、破門(=ツイッターならブロック)にする。そうして、自分の「気持ちのいい」

  • ハーレム

を作る。まあ、とりまきの信者も大変だなあ、というわけである。
東大合格は、上記の意味において、人生を賭けた「戦争」である。これに「勝つ」ためには、上記のシュミットが言うような「現実」に勝たなければならない。
しかし、上記の引用にあるように、「自分以外の世界の全員を殺す」というのは非現実的である。しかし、そうでないとするなら、なんとかして「相手の攻撃」から自分を守らなければならない、ということになるであろう。大事なことは、自分が世界中の人を「敵」だと思っているなら、世界中の人も、自分を「敵」だと思っているということになるのであって、自分はそういった世界中の人からの「攻撃」に、なんとしてでも、耐えなければならない。
どうすればいいのだろうか?
勝負事の鉄則は自分が「やられる」前に「やる」ということになる。つまり、先手必勝である。先に、「動いた」方が、たいていの勝負事は勝つ。しかし、ゲーム理論が示しているように、勝って「目立った」人は、

  • 警戒される

わけである。つまり、「ルールを破った」人を、コミュニティは「警戒」して、慎重戦略を採用しがちになるので、今までのような、相手の隙をついて、確実に勝利していく戦法が通用しなくなっていく。
ではどうするか?
つまり、である。自分が「ずる」をしたことを、他人に知られなければいい、ということになる。そこで、先ほどの「ドーピング」の話になる。
しかし、なかなか興味深い考察である。なぜなら、ここには一つのパラドックスがあるからだ。先ほど私はスポーツの「目的」は、「教育」だと言った。ところが、東大受験は、「教育」ではない、と言っている。一種の「戦争」なのだ、と。最高学府への進学が、高校の「目的」である「教育ではない」とは、どういうことなのだろう?
(まあ。私はエリート教育反対論者であるし、東大廃止論者なので、そんなことで悩んだりしないがw)
つまり、なぜ最高学府への進学を「教育」の結果ではなく、「テストの点数」で決めているのか。矛盾していないだろうか?
そのことは、上記の引用における、ある「表現」にも現れているように思われる。倫理学者のピーター・シンガーは、自らの「功利主義」を信奉する信者として、カントの義務論に反対するという意味を込めて、倫理という言葉を、道徳という言葉と同値の意味で使うように、すべての著書を書いた。つまり、

だと。上記の引用が意味しているように、基本的に著者も、その用法を踏襲している。
しかし、である。
このようにすると、どういう困ったことが起きるであろうか。つまり、そもそも「倫理」という言葉が指示しようと、昔からこの言葉が使われてきた何かが、指示できなくなる、ということなのである。
そもそも、倫理という言葉は、善悪(=道徳=正しいことを示すルール)とは違った何かを指示するために使われる用語であった。つまり、「悪」であっても倫理的に選択されうる、ということが、理屈的に正しい場合がある、そういった用語だったわけである。
それはなんだろう?
それは私たちの日常を考えてみれば、いくらでも、そういったケースが思いつくのではないだろうか。しかし、それが「なんだ」と言おうとすると、途端に言いよどんでしまう。
なぜか?
これこそ、柄谷行人さんが「探究2」のスピノザ論でやろうとしていた議論であって、こうやって「これはなになにだ」と言ってしまった「途端」に、それは、それが形成していた、それまでの「フレーム」がなくなってしまうようななにか、ということになるであろう。
つまり、そうやって「明示化」された途端に、それは、「ルール」になってしまうから、もはやそれは「道徳」と呼ぶ方が正しいもの、ということだから。
どういうことだろう?
私は先ほど、友とは「自分に絶対にはむかってこない人たち」と言った。そういう意味において、友は「定義上」自分しかありえない、と言った。しかし、実際には多くの人は、自分には「友」がいる、と思って生きている。
だとするなら、ここには、なにか過剰なものがある、ということになるのではないか?
つまり、「倫理」とは、こういった「道徳=善悪=正しいことを示すルール」が成立しているために、私たちが実践している、ある「メタ・ルール」だ、ということになるわけである。
言うまでもなく、友が「自分に絶対にはむかってこない人たち」だとするなら、相手にとっても、友は「自分に絶対にはむかってこない人たち」でなければならない。つまり、このゲームが成功するためには、お互いがなんらかの

  • 善悪が成立する前

の実践的な関わり合いが「成立」していなければならない。しかし、「ルールが成立している前」に、どうして、そういったものが行える、というのだろうか。だって、ルールとは、そうったものを成立させる「ため」に、必要だから、作られたのだから。
この関係は、どこか、親と子の関係に似ている。言うまでもなく、親は子供が「ルール」に従っているから育てているわけではない。子供が善悪の区別が分かっていて、正しいことだけをする「良い子」だから育てているわけではない。つまり、この関係には、なんらかの「倫理的」な実践が含まれているわけである...。