「日本=中国」論

私はここのところ、セラーズの「センス・データ論」の延長で考えることの重要さを、いろいろと考えさせられているのだが、例えば「感覚」「欲望」というものが、

  • ある(=存在)

と考えられ始めたのは、比較的最近なのではないか、と思っているわけである。
まずは「写真」である。なんらかの「光」の加減を、「そのまま」紙に「感光」させるその方法は、私たちの「視覚」をより「リアル」に存在へと変換した。
そして、次が「テープレコーダー」であろう。音声が、まるで「二度、同じようにしゃべった」かのように、記録されることは、同じく、「聴覚」をより「リアル」に存在へと変換した。
こういった推論から、「欲望」の存在へまでは、もうすぐだと言えるであろう。私たちは、写真の中の女性の裸、つまり、「ポルノ」に欲望し、テープレコーダーから流れてくる女性の声に「欲望」することに、日常茶飯事となった。
つまり、ここにおいて、ある「反転」が起きている。私たちは、ポルノを消費することによって、私たちは自分が「人間」であることを証明する。自分が人間であることは、男であることは、ポルノに「興奮」することによって、日々、示される。

  • 我興奮する、ゆえに、我在り

つまり、もはや、ポルノは、「もの」ではなくなった。「ポルノ」とは「人間」のことになったのだ。そして、「人間」は「ポルノ」になった。

  • 我「チンポが勃起する」、ゆえに、我在り
  • 我「チンポが固くなる」、ゆえに、我在り

実際に、人間と「ポルノ」の区別、境界線は、ますます「曖昧」になってきている。私が私であることのアイデンティティは、自分の「写真」に写っている私が、「私に似ている」からであり、私の声を録音したテープの再生音が、「私に似ている」から、ということになれば、そもそも、私が私であるということは、

  • ポルノがポルノである

ことに見出されなければならないのではないか。私が生きていることの証明は、私の「ポルノ」に誰かが「興奮」したから、としか言いようがない。つまり、それ以外に、証明方法がないのだ。
なにかがおかしい。
それはつまりは、唯物論をさらに進めた、

  • 唯「ポルノ」論

に還元される。この世界には「ポルノ」しかない。
写真やテープレコーダーが登場したのは、日本で言えば、幕末であり、WW1くらいから普及し始めた、と考えられる。つまり、それ以前について考えることは、どこか私たちに、ニーチェが言う「遠近法的倒錯」をもたらす。
つまり、その時代には、写真もテープレコーダーもなかった。

  • それが何を意味しているのか

を私たちはうまく考えられないのだ。本居宣長はどこか「デカルト」的である。しかし、その意味をうまく考えられない。
以前、小島毅さんの鎌倉幕府論を読んだとき、非常に考えさせられたことを覚えている。源頼朝平将門が、どういった「空間」に生きていたのか。そのように考えたとき、例えば、源氏物語の作者の紫式部は、言うまでもなく、史記列伝を読んでいた。というか、彼女は「当然」、漢文を読んでいた。というか、中国の漢籍を読んでいた。
言うまでもない。彼女は当時の「エリート」である。そんな彼女がどうして、漢籍を読まないだろうか。漢籍を読んだし、漢籍を「書いた」にきまっている。
そのように考えてきたとき、ある「仮説」がうかんでくるわけである。

  • 日本という国は、本当に存在したのだろうか?

つまり、私たちが日本だと思っていた、この国は、日本だったのではなく、中国だったのではないか?
私たちが、日本の「過去」に、日本の「痕跡」のようなものを見ようとする姿は、どこか、現代の私たちが、「ポルノ」に自らのアイデンティティを必死で読み込もうとしている姿に似ている。
言うまでもないが、古事記を書いた人も、日本書紀を書いた人も、ものすごい、漢籍の知識をもっている。むちゃくちゃ、漢籍を読んでいる。このことの意味が分かるだろうか?
もちろんこう言うと、「でも、<もともと>の日本語はあったんじゃないか? なぜなら、ひらがながあるわけだし、中国語とは違う、日本語の主語、述語の順番や、助詞と呼ばれる違いであり、訓読みがあるのだから、と。
しかし、そういう意味で言うなら、そんなものは、「中国の中」にもあるし、ずっと、あったわけである。
例えば、韓国語は日本語の文法に非常によく似た形をしているわけだが、つまりは、韓国や日本といった「この地域」の、音声言語というものがあった、ということを否定したいわけではない。しかし、大事なことは、そんなものは広い中国の中や、その周辺に広げて見れば、

  • いくらでも差異があった

ということなのだ。青森県の「なまり」のひどい人と、鹿児島県の「なまり」のひどい人が、標準語を使わずに会話が、どこまで成立するだろうか。これが

  • さらに広い範囲

で、中国の端から端で会話が成立するだろうか。いや、しただろうか。するわけがない。したわけがない。つまり、ここで私が「中国」と呼んでいるのは、この

のことを言っているわけである。これ以外に、中国などあるはずがない。あったはずがない。
例えば、日本には昔から「神道(しんとう)」と呼ばれる伝統があり、これこそ、間違いなく、日本の「伝統」だと言えるんじゃないか、と言うかもしれない。しかし、そういう人には、中国には昔から、「経学」に対抗する形で、「緯学」と呼ばれるものがあったことを意図的に無視しようとしている。間違いなく、卑弥呼などの当時の日本の支配者は、中国における「緯学」を基盤とした、民間習俗をベースとした、儀礼的支配構造をもっていた。
私は日本の家電メーカーの一つのSHARPが今回、中国の企業に買収されるという事態に至ったことを、興味深く見ている。ここでの、日本での議論は、

の問題として語られているように聞こえる。つまり、日本の企業が中国の企業に買収され、技術が「盗まれる」というわけである。しかし、そういった場合、そう主張している人の「感覚」の中には、日本が

  • 中国の一部

である、という感覚がぬけおちている。つまり、そのことが「なぜなのか」と問う感覚がぬけおちているわけである。
そもそも家電メーカーは、各家庭に、白物家電を「届ける」ことが「使命」である。ところが、日本は、彼らの活躍もあり、すでにその「使命」を果たした、と言ってもいい。つまり、需要は満たされた。日本は十分に、満ち足りた。
しかし、である。
それを世界に目を向ければ、間違いなく、世界のさまざまな地域に、白物家電が必要とされているにもかかわらず、まだ普及していない。そこには、もちろん、中国の一般庶民も含まれる。
中国企業が、そういった中国の一般庶民への「アクセス」のパスをもっているなら、日本企業は、むしろ、そういった中国企業と連携することによって、販路の開拓に成功することが予想される。
日本企業が生き残る可能性は、まさに、海外企業との「連携」なのではないか、とも思われてくるわけである。
日本の企業が今後、生き残る「可能性」は、どこにあるのか?
私は日本の「ナショナリズム」を、非常に、いびつな形で形成したのが、本居宣長を「批評」という形で、日本社会の文脈にひきいれた

ではないか、と考えている。もっと言えば、小林秀雄に代表されるような「文芸批評」的なものの、どこか「いびつ」な、日本的な存在の様相にあるのではないか、と考えている。
明治以前の日本人は、必死になって、中国を「見て」いた。中国を学ぼうとしていた。ところがそこに、小林秀雄的なものが媒介されると、「感覚」「欲望」の弁証法が、日本国内という自同律的な、弁証法で、トートロジカルに日本を「定義」し始める。つまり、

  • 中国を媒介することなく

日本「なるもの」があるかのような仮構を、こういった「知識人」が用意をし始める。私はその自明性を疑いたいわけである...。