古市憲寿『保育園義務教育化』

私はどうも、いわゆる「子育て論」なるものが、大嫌いだ。それは、子供が嫌いなわけでも、結婚に反対なわけでもなく、いわゆる、子育て論にかこつけて、

  • 子供=富裕層の「ぜいたく」行為

として、まるで、自分がいかに「お金持ち」であり、子供を産めるくらいの「社会的成功者」であるかを自慢しているようにしか聞こえないところに、病巣がある。ようするに、子供を産めること自体が、社会的ステータスなのであって、彼らが言いたいことは

  • 貧乏人の「出産」禁止論

なわけである(確かに、ほりえもんがそんなことを言ってましたよねw)。お金のない奴は、結婚ができないではなく、結婚してはならない、なのだ。なぜなら、結婚をすれば、その分の

  • 税金

がかかるから。彼らの主張は、「お金持ちから税金をまきあげて、貧乏人に使うのに反対」なのだ。
ようするにさ。子供って、あらゆる社会の矛盾が集約しているんだよね。子供のいる家庭は、日本においては「お金持ち」なのだ。というか、お金持ちでなければ、

  • 普通に生きるだけでは

不可能なようにできている。どういう意味かというと、まず、両親二人が「仕事をしながら」子供を育てるには、まず、二人が外で仕事をしている間は、

  • 誰か

が、その子供の面倒を見ていなければならない。多くの場合それは、近くに住んでいる「じじばば」に、自動車で出社前に預ける、という形をとっている。
しかし、多くの場合、若者は都会に出てきている。つまり、この「ビジネスモデル」が使えない。よってどうなるかというと、専業主婦かベビーシッターを雇うか託児所を利用する、という選択肢になる。この中で比較的無難なのが託児所であるが、これがここのところ話題になっている、託児所「落選」問題である。
嗤えるではないかw この託児所って所は、母親に「あなたは落選です」と言った後、どうなると思っているのだろう? つまり、ここで「落選です」と言った託児所のバカが、この母親に会社を辞めさせたのだ。なんだろうな。悪魔なのかな。
結局、これってなんなんだろう、って思うわけである。
例えば、最近は円安で、中国などの海外からの観光客が増えて、ホテルがどこもいっぱいだと言う。しかし、もしもそうなら、受験生などはどうしろというのだろうか。
というか、これが「資本主義」なのである。資本主義に任せれば、必ず、こういうことになる。
なぜ託児所問題が解決しないのか。
掲題の本は、「保育園義務化」を提案する。ところがよく読むと、この本は「義務化」を提案していない。

この本では「義務教育」というのを柔軟な概念で捉えている。たとえば子どもを保育園に預けるのは毎日でもいいし、週に1度1時間だけでもいいと思っている。

確かに、今の小学校や中学でも、多くの子どもが不登校になっている現実があるわけであるが、上記の引用の個所は、むしろ、それよりもずっと後退していることを言っているように聞こえる。つまり、掲題の著者は

  • 義務でなくていい、今のままでいい

と言っているように聞こえるわけである。つまり、この本の「義務」はどこへ行ったのだ?
私はむしろ、「義務」でいいんじゃないか、と思っている。というか、そうしないと「ビジネス・モデル」が成立しない。つまり、赤ん坊を託児所に預けたい人の

  • 全体のパイ

が固定しないから、今のように女性の仕事での活躍を、やんややんやと推進している間は、急激に増えて、そうでないと、急激に減るといったようなことを繰り返しているから、全然、収入が「固定」されないし、保育士の人数も固定できない。固定できなければ、給料の相場も安定しない。
だとするなら、必然的にこれは「義務」にするしかない。
原則、子どもは「全員」、保育所に入れるのである。
そうすると、「公立保育所」の考えに、一定のメドができてくる。まさに、今の小学校と同じように、今ある保育所は「私立」であり、それとは別に「公立」の「保育所」を、国が用意する、という話になってくる。
私がここで「義務にすべき」と言うと、どこか「極端」に聞こえるかもしれない。本来、子どもの育児は、家庭がやってきたのであって、どこの馬の骨とも分からない、他人に預けることは危険すぎる。自分が信頼できる人たちで育てたい、と。
しかし、こういった考えには、三つの指摘ができる。
まず、大事なポイントは、「保育所に預ける」時間は、基本的に仕事をしている「間」なのであって、つまりは、一日の「半分」だと考えるべき、ということである。つまり、「すべて」の子育てを保育所がやる、と言っているわけではない、ということである。
次に、保育所を公的組織にして、義務化することで、その保育所の「マニュアル」の品質を上げることが期待できる。つまり、まずもって、「子どもが死なない」保育所の運営とは、どういったものか、について、かなりの「高度化」が期待できる。つまり、人がどうこうというより、保育所というところが、「どうやって子どもが死なないで健康にいられるか」に特化して「研究」されることになるので、その「ノウハウ」が確立していくことが期待できる、というわけである。よって、そういった「事故」が少なくなっていく。つまり、少ないということは「保育所に子どもを預けても、子どもは健康でいられる」という担保になっていくわけで、「義務化」の正当性が担保されていく。
最後に、そもそも、毎日、子どもの「世話」を一人の母親が行うことは、体力的にも精神的にも「つらい」というわけで、母親の体調を考えても、「させておくわけにはいかない」といった社会的なコンセンサスをつくっていく、というところにある。子どもを産んだ母親だって、普通に子どもなしで、ショッピングや趣味に興じたいのではないのか?
つまり、ここで提案している話は、言ってみれば

  • 母親の子育てからの「解放」

なのだ。なぜ、母親は子育てをしなければならないのか。しなくてもいいではないか。しかし、母親が子育てをしなくても、この社会には子どもが必要だ。なぜなら、そうでなければ、社会が維持できないから。だったら、まずもって、母親の子育ての「義務」を、放棄させてやろう、といった形になるであろう。
この話は、ある種の「コスパ」とも関係している。パブリック・クラウドが、各企業内に基幹システムをもつことの「コスパ」の悪さを、さまざまな企業の基幹システムを一つのパブリック・クラウドの中で、どのマシン上にどの企業の基幹システムを乗せれば、より効率的に運用できるか、といった形で「コスパ」の最適化を実現できるように、保育所が「義務」であり、国民全員が、保育所に「預けなければならない」ことで、その子どもたちと、その面倒を見る「保育士」の人数割合が、景気などに左右されないように「固定」化することで、この業界に一定の「サステナビリティ」をもたらす。
一般的に考えて、これを実現するには、まず

  • バスでの子どもの送迎

のようなシステムが、すでに最初から必要になるかもしれない。

さらに、一定以上の従業員がいる会社(事業所)には、保育園を設置しなければならないルールを設ける。最近では企業内保育園も増えてきたが、それを福利厚生ではなく一定の義務にしてしまってもいいのではないだろうか。

上記の問題を考えるとき、ようするに、どうやって「社会」の中に産まれてくる子どもたちの

  • 子育て

といった「需要」を、一人のもれもなく、さばいていくことができるのか、といった「システム構築」の問題となっているわけである。子育てには一定の「養育者」が必要である。子どもは一人では生きられない。常に保護者が必要とされる。監視している保護者が。しかし、その人数と、子どもの人数にアンバランスが生じれば、このシステムは維持できなくなる。しかし、たとえ維持できなかろうと、託児所に預けたいと思った母親を、なんとかその母親が、会社を辞めることになることなく、実現させなければならない。
ようするに、これが実現できさえすればいい、ということになる。
まさに、この社会設計が求められているわけだが、どうも日本人の多くが、あまりこの問題を「深刻」に考えていないことが深刻なことのように思われる。そもそも、子どもは「金持ちの贅沢品」だと言ったのは、ほりえもんであって、ようするに、高学歴でお金持ちたちは、そう考えているわけで、彼らにとって、貧乏人が子どもを産むこと自体が、俺たちの税金が奪われるといって「許せない」わけであろうw つまり、彼らは「貧乏人が子どもを産まない」ように、この社会と「戦っている」わけなのだ。
そして、今は、そういった高学歴、お金持ち連中が「勝利」して、日本は少子化した。母親は、託児所に「落選」して、会社を辞めさせられている。まさに、高学歴、お金持ち連中の「貧乏人の子どもをなんとしても減らしたい、そうすれば、俺の税金をとられる金額が減らせるから」という「戦略」が、まんまと成功している、ということなのだろうw そして彼らは、日本がどんどん少子化して、子どもがいなくなったとき、この日本からトンズラして、アメリカのゲーテッド・コミュニティあたりにひっこすのだろう。いいご身分であるw

保育園義務教育化

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