初野晴「クロスキューブ」

人はなぜ生きるのだろう、という問いは、逆に言えば、なぜ人は死なないのだろう、自殺しないのだろう、というように問いが反転する。しかし、そのように問うのであれば、逆に、

  • なぜ「もうすぐ死ぬことが分かっている人がいる」のだろう?

という、少し奇妙な問いに、話は変わっていく。
この世界の「ほとんど全て」は謎だ。なぜなら、私たちは、あらゆることを知ることはできないから。しかし、逆にこのように問うことはできるように思われる。私たちが生きているのは、

  • あることを「知った」

からなのではないか、と。なぜ、あることを知ったというその「偶然」が、私たちが「生きる」ことを必然にさせるのかは、まあ、一つの「縁(えにし)」ということになるが、つまりは、私たちは、ある「関係」が、私たちに生きることを決意させる。

ハルタは床に置いたスポーツバッグのジッパーを引いた。出てきたのはパレットと、六つの油絵の具と、六本の筆だった。
成島さんがはっとした。
「----ふたりとも、頼むよ」
ハルタの合図でわたしは成島さんの右腕に、西川さんは成島さんの左腕にしがみついた。
「な、なによ」成島さんが狼狽する。
「ごめんね、ミヨちゃん」しがみつく西川さんが謝る。
成島さんがふり払おうとするが、ふたりで体重をかけているから身動きがとれない。
「三分で終わる。それまでふたりとも頑張って」
ハルタがパレットに白・青・赤・橙・緑・黄の油絵の具をのせ、乾性油を垂らしていく。それを見た成島さんの顔から血の気が失せた。これからなにが起こるのかを理解した表情だった。
「----やめてっ」
成島さんの叫び声を無視して、ハルタはまるで精密機械のように筆を操った。それぞれのブロックに色を塗り広げていく。作業が速い。一面が終わると筆を捨てて、次の色にとりかかった。
「いやっ、いやっ、お願いっ、話してっ」
耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴教室に響いた。わたしと西川さんはハルタを信じ、成島さんの両腕にしがみつく。成島さんが暴れる。女の子とは思えない力だった。当然だ。弟が遺した大切な形見が、他人の手で姿を変えようとしているのだから。

成島美代子の弟は、彼女が中学の頃、彼女が吹奏楽部の全国大会で演奏していた時、亡くなる。そして、彼女はそれ以降、吹奏楽を止めてしまう。
しかし、である。
そもそも、美代子の弟は、自らの病気の深刻さを知っていた。自分の死期が迫っていることも分かっていた。そして、自分の死が、結果として、姉のその後の人生を苦しめることになることも分かっていた。つまり、ずっと病院のベットで寝て過してきた彼にとって、それだけの多くの時間をもって、考えていたわけであるから、ずっと、いくらでもシュミレーションできていたわけである。
そこで、美代子の弟は考えた。
自分がもしも死んだ後においても、姉が「生きる意味」をもち続けられるようになる、「何か」とはなんだろう、と。
そこで、彼は、ある「謎」を姉に残すことにした。なぜ「謎」なのだろう? それが「謎」であることの意味は、その「謎」が用意されている時、まだ、彼は死んでいない。つまり、姉はまだ「悟って」いない、ということを意味しているわけである。なぜこの「謎」が解けることになるのかは、それは姉の「悟り」と関係している。つまり、「時間」である。「謎」が生み出された時の、まだ彼が死んでいない時から、時間の経過の後における、彼の死を、姉が「悟る」ときの、

  • 差異

が、姉に、どうしても避けられない「思考」を強いることになる。姉は考えざるをえなくなる。彼女は、その「謎」がとけるまでは、死んでも死にきれないのだ。
よく考えてほしい。
弟がずっと、ベットの中で考えていたことは、どうやって、自分が死んだ後、姉が「生き続けてくれるか」である。彼にとって、なんとしてでも、姉に、自分が死んだ後も、生き続けてほしいのだ。つまり、大事なことは、この

  • 強い意志

なのである。弟は自分が近い将来、死ぬことが分かっている。だとするなら、「その後」に、どうやって姉を「生き続けさせる」ことが可能なのか?
そもそも、吹奏楽部は矛盾した部活である。なぜなら、そもそも、クラシック音楽は、どんなに厳しいトレーニングを積んだところで、音楽大学に入るのは狭き門であるだけでなく、プロフェッショナルになる道が、あまりに異常なまでに、狭すぎる。そんなプロになろうとするなら、部活動なんてやっててはいけない、ということになる。
韓国のプロスポーツ選手が、小さい頃から、「プロの指導者」に、マンツーマンで、「正しいフォーム」や、「正しい考え方」を、徹底して個人レッスンとして、しこまれることと同じように、そもそも、プロになるような人は、そのための、「正道」を導いてくれるトレーニングを、それなりの「それなりの道のプロ」によって、習うことによって実現する。日本の野球界が、プロとアマの交流を長年、忌避してきたような姿は、まったく、世界の潮流にそぐわないわけである。
そういう意味では、吹奏楽部の部員は、一種の「プライド」がそうさせている、といった側面があるように思われる。演奏は、どこか、ストア派哲学における、「自己規制」の姿を思わせる。演奏をするためには、徹底して、自らに厳しくなければならない。これが、どこまで徹底しているのかは、結果としての、演奏の音色として現れる。そういう意味ではどこか、演奏の音色には、その人が、どこまで自らに厳しく向き合ってきたのかの、「成果」があらわれている、と考えることもできる。
吹奏楽部の演奏は、そういう意味で、「自己満足」と言うこともできる。別に、どんなにがんばったって、プロになれるわけじゃない。我流の、アマチュアの枠の中での、「もがき」でしかない。しかし、そもそも、それ以外のなにかがあると考えることの方が、傲慢なんじゃないだろうか。美代子にとって、この演奏が世間的になにかを意味しているかどうかなど、どうだっていいわけである。彼女は、この音色を弟に聞いてほしかった。今はなき弟に。その弟がいない今、彼女は演奏することに、なにか意味があるように思えない。
しかし、そういう意味では、演奏は最初から、自らの「(ストア派的な)自己規制」に関係して行われているものだ、と言うことができる。つまり、演奏のその音色は、演奏者の自らを律っしてきた「成果」が体現されているのであって、最初から最後まで、なにかの、その人の「自らをどうしようとしているのか」の姿勢が、示されている、と見ることができる。
確かに、演奏に意味はない。まったく、「個人的な体験」にすぎない。しかし、姉は弟が、その死の日まで生きていたことには「意味があった」ことを、その演奏によって示そうとするわけである。彼女が「生きている」から、そして、そう「演奏している」から、彼女の弟が存在していたことには価値があった、ということを、人々は理解するわけである...。

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